地元の祭に参加していたレディースたち
地元の祭に参加していたレディースたち

ど派手な特攻服に身を包み、カメラをにらみつける不良少女たち――。今から30年以上前、"レディース"と呼ばれた少女たちの世界を取り上げ、社会現象にまでなった雑誌があった。ミリオン出版の『ティーンズロード』(1989年1998年)である。

【写真】派手な特攻服を着たレディースたち

その初代編集長の比嘉健二氏は今年7月、そんな彼女たちと「活字のマブダチ」として過ごした濃密な日々を綴(つづ)った『特攻服少女と1825日』(小学館)で第29回小学館ノンフィクション大賞を受賞した。

バブル時代の日本に花開き、今では失われてしまった"レディース"という特異な文化はいかに生まれたのか。そして、比嘉氏は彼女たちの何に惹(ひ)かれ、編集者として向き合ってきたのか。

■レディースの基本は原チャリに特攻服

――『ティーンズロード』が主に取り上げていたのは女性暴走族、いわゆる"レディース"ですが、今ではその言葉自体も死語になってしまいました。

比嘉 だから本のタイトルも『特攻服少女』なんですよね。僕は無意識に当時の不良用語を使ってしまうんですけど、今の読者には通じないということで、この本の編集者から何度も厳しく直されました(笑)。

――あらためて"レディース"とはなんだったのでしょうか。

比嘉 大雑把に言えば、暴走族が衰退した頃に登場した女性だけの不良チームが"レディース"です。実は男性の暴走族全盛期って、1970年代から80年代の初頭くらいまで。二輪だけでなく四輪もいたし、年齢も下は中学生くらいから上は20代までと幅広かった。

『ティーンズロード』創刊当時の時流を語る比嘉さん
『ティーンズロード』創刊当時の時流を語る比嘉さん

――ドキュメンタリー映画の『ゴッド・スピード・ユー!』で描かれた時代ですね。実在の暴走族である「ブラックエンペラー」に密着した作品で、映画も一世を風靡しました。

比嘉 あれは僕のいちばん好きな映画です。厳密には、この頃の暴走族にも女性はいたんです。ただ、それは男性のチームに女性も参加していたというだけで、女性だけで集まっていたわけではありません。しかも、当時の暴走族は"走り屋"としての面が強かったから、二輪なら「ナナハン」など中型ばかり。女性には取り回しが難しいこともあって、女性の暴走族は珍しい存在でした。

でも、暴走族がブームになったことで警察の取り締まりが厳しくなり、次第に"走り屋"の要素は薄くなっていきました。構成人数も減り、10代が中心になります。18歳で自動車免許が取れるようになると、特に地方では四輪に乗るようになるからです。だから、18歳を超えても自由に走りたいやつらは、別に"◯◯レーシング"などと名乗って暴走族と区別するようになりました。

暴走族1980年代になると、走ることよりも目立つことが最優先になります。特攻服の刺繍が派手になり、マフラーやシートもどんどん長くなっていきました。乗り物として理に適っていない改造をするから、音はすごいけどスピードなんて出ない(笑)。でも、それがかっこいいって感覚です。そういう流れの中で、女性だけで走りたいってコたちも出てきた。最大の特徴は、みんな原チャリ特攻服だったことです。

■東松山の救世主

――それは女性には原チャリのほうが運転しやすいから?

比嘉 そうです。それに1980年代の後半になると、不良少女たちにも"かわいい文化"が入ってきます。白や黒が主流だった特攻服や単車も、赤やピンクなど派手な色を取り入れるようになりました。『ティーンズロード』以前に暴走族を取り上げていた雑誌は老舗の『チャンプロード』(笠倉出版)などいくつかありましたが、"レディース"の取材にあまり積極的ではなかったのは、彼らからするとファッション的で、一過性のブームに見えていたことがあるでしょうね。

――しかし、比嘉さんが彼女たちを取り上げた『ティーンズロード』を1989年に創刊すると、やがて社会現象となるほどの反響を呼びます。

比嘉 むしろ、他誌が取り上げなかったから、全国各地で細々とやっていた"レディース"のコたちが、「とにかくあそこに出たい!」となってくれたし、そんな彼女たちの姿を見て、"レディース"にあこがれるコが増えていったということだと思います。

レディースの多くは、チーム名の入った派手な特攻服を着ていた
レディースの多くは、チーム名の入った派手な特攻服を着ていた

――ただ、『特攻服少女と1825日』を読むと、意外にも創刊当初は部数が低迷していたそうですね。

比嘉 その代わり、読者から投稿や取材の問い合わせはものすごくありました。反響は最初からあったんです。ただ、世の中に広く知ってもらうためのきっかけがなかった。そんなときに現れたのが、東松山の「紫優嬢(しゆうじょう)」です。

――『ティーンズロード』を廃刊の危機から救ったカリスマ的なチーム。

比嘉 紫の揃(そろ)いのニッカにサラシを巻いたスタイルがかっこよくて、これは読者にウケると直感しました。実際、彼女たちを表紙とグラビアに起用した号はほぼ完売。全国で紫の特攻服が流行ったほどでした。『特攻服少女と1825日』を書くきっかけになった「すえこちゃん」に出会ったのも、この時です。

――後に『紫の青春』という回想記も出された中村すえこさんですね。

比嘉 最初に会ったときは13歳で、「紫優嬢」では下っ端のメンバーでした。しかし、15歳で四代目総長になると、以前とは別人に思えるほどのオーラをまとっていました。「北関東女魂連盟」というレディース連合の中心人物にもなり、『ティーンズロード』には毎号のように登場してくれました。読者人気でもトップを張る、まさに"雑誌の顔"といえる存在だったんです。

■「あんな雑誌を作らないほうがよかったのかも」

――しかし、"レディース"の代表格と見られるほどの人気が仇となって、すえこさんはチームを破門されることになります。

比嘉 そのニュースを知ったのは編集長を引き継いだあとでしたが、とてもショックでした。彼女は「紫優嬢」に命をかけていたのに、仲間からリンチされ、少年院にも入り、地元にいられなくなってしまった。自分たちは良かれと思って取り上げていたけど、それがどういう影響を及ぼすのかはわかっていませんでした。

僕が編集長だったのは5年間ですが、『ティーンズロード』にはいい思い出しかなかったんです。でも、すえこちゃんの事件を聞いてからは、「あんな雑誌を作らないほうがよかったのかもしれない」と思うこともありました。すえこちゃんには、いつか謝りたいとも思っていました。

――自身が生んだブームが被害を生んでしまったと。

比嘉 でも、10年以上が経って再会したとき、彼女はすごくにこやかでした。当時のことは後悔していないと笑顔で語る彼女に圧倒され、怒られるどころか、その半生をまとめた『紫の青春』の出版につながっていくんです。今ではすえこちゃんは自身の経験を活かし、少年院出院者の自助グループを立ち上げたり、少年院に入所した少女を追ったドキュメンタリー映画を監督したりと、さまざまな方面で活躍しています。

すえこちゃんのほかにも、『ティーンズロード』には今も忘れられないほど印象的だった女のコたちがいます。彼女たちの青春を通して当時のレディース文化を描いていけば、一冊のノンフィクションになるのではないかと思ったのが、『特攻服少女と1825日』が生まれた経緯です。

『特攻服少女と1825日』書籍化の苦しみを笑って話す比嘉さん
『特攻服少女と1825日』書籍化の苦しみを笑って話す比嘉さん

――それが小学館ノンフィクション大賞を受賞するほど反響を呼んだわけですね。

比嘉 そこまでは思っていませんでしたね。これの元になった原稿は、編集者の都築響一さんが主宰しているメルマガの連載なんですけど、そのときは単に『ティーンズロード』の思い出をまとめた回顧録だったんです。その連載を読んだ編集者から本にしたいって話があったものの、諸事情で流れてしまい、どこか出してくれるところはないかと探していたら、フリーライターの鈴木智彦さんに小学館を紹介してもらって。

ただ、小学館にはノンフィクションでないと出せないと言われて、それからすえこちゃんたちを主軸にした構成に書き直しました。小学館の担当者は喜んでくれましたが、正直、一度まとめた回顧録をノンフィクションにするのは、「やるって言わなければよかった......」と思ったくらいきつい作業でした(笑)。

■ダサくないと売れない

――比嘉さんが『ティーンズロード』の誌面づくりにおいて大切にしていたのは?

比嘉 読者が主役、ということですね。一般ウケのために芸能人を表紙やグラビアに起用するなんてことは一切やりませんでした。例えば、「かおりちゃん」という栃木のレディース総長が、うちの紹介で雑誌『宝島』でユーミンと共演したことがありました。『ティーンズロード』でも、その写真を1枚だけ使っていいという話でしたが、結局、ニュースのひとつとして小さく載せるだけにしました。読者が読みたいのは自分たちと変わらない少年少女の記事であって、芸能人の記事ではないからです。

ユーミンとも共演したかおりさん。今年7月には自叙伝『「いつ死んでもいい」本気で思ってた...』も刊行
ユーミンとも共演したかおりさん。今年7月には自叙伝『「いつ死んでもいい」本気で思ってた...』も刊行

――徹底した読者目線といえば、誌面のデザインも意識して"ダサく"していたそうですね。

比嘉 『ティーンズロード』の読者にウケるには、おしゃれなデザインじゃダメなんですよ。一度失敗したことがあるんです。海外の雑誌みたいにシンプルなイラストだけの表紙にしてみたら、びっくりするくらい売れなくて(笑)。編集部に遊びに来ていた暴走族の少年に忠告されていたのに、無視した結果が惨敗でした。

それから印象的だったのは、埼玉県のある暴走族を取材したとき、彼らがかっこよく見えるよう、あえてモノクロの誌面に仕上げたら、「なんで俺らのところだけ色がついてねえんだ!」と速攻でクレームが来たことです。編集サイドの独りよがりなセンスは絶対に受け入れられないと、つくづく実感しました。この原則は今も染み付いています。

――本の中では、そうした編集方針を、「彼らが好んで利用していた量販店『ドン・キホーテ』のようなものだ」と説明していました。

比嘉 だから、「ドン・キホーテ」が地方で人気があるのはよくわかるんですよ。ヤンキーは基本、あのセンスなんです。

カラフルでポップな『ティーンズロード』の表紙
カラフルでポップな『ティーンズロード』の表紙

――それはなぜだと思いますか?

比嘉 彼らは意外に"かわいい"ものが好きですよね。良く言えば純粋で、悪く言えば幼稚。ファッションも当時はミキハウスがヤンキーに大流行していて、全国どこに行っても着ていました。あとは取材で喫茶店に一緒に行くと、ブラックコーヒーはあんまり頼まないんです。アイスミルクティーとかクリームソーダばかり。「レスカ(レモンスカッシュ)」も流行っていました。そういう子供っぽい嗜好が「ドン・キホーテ」みたいなデザインが好きっていうところにつながっているんじゃないかと思います。

――不良文化と遠そうに見える"かわいい"が、実は彼らの好みを理解する上でのキーワードだったと。

比嘉 『ティーンズロード』で取り上げた"レディース"も、年齢よりも幼く見える"かわいい女のコ"が多かったんです。アイドルの変遷と一緒ですよ。山口百恵のように大人びている少女があこがれだった時代が終わって、バブル期にはおニャン子クラブなど親近感のあるコが人気を集めるようになっていました。その影響は不良たちにも及んでいたんです。

1990年代に"かわいい文化"が浸透すると、不良少女たちは"レディース"ではなく、"コギャル"を目指すようになります。こうして『ティーンズロード』は1998年に廃刊を迎えるわけですが、その後押しをしたのは同じミリオン出版から出ていたギャル雑誌『egg』でした。互いに読者目線を徹底していたからこそ、いつか抜かれることはわかっていました。そして、やがて『egg』も休刊しました。時代と共に過ごした雑誌の宿命ですね。

●比嘉健二(ひが・けんじ 
1956年東京都足立区出身。編集プロダクション『V1パブリッシング』代表。経済系の出版社を経て、1982年ミリオン出版に入社。『SMスピリッツ』などの編集を経験し、『ティーンズロード』『GON!』などを立ち上げる。『特攻服少女と1825日』は第29回小学館ノンフィクション大賞を受賞した


●『特攻服少女と1825日』(小学館・1650円[税込]) 
ティーンズロード』創刊編集長の比嘉健二氏が、「ヤンキー少女」や「非行少女」と呼ばれてきた1980年代レディースたちを振り返った、唯一無二のノンフィクション作品。『ティーンズロード』がなぜ一世風靡し、レディースたちの希望となったのか紐解く一冊。ありのままに捉えた当時の彼女たちの姿や、その後が描かれる

取材・文/小山田裕哉 撮影/五十嵐和博 写真提供/比嘉健二

地元の祭に参加していたレディースたち