今から20年も前の話です。子育て本著者・講演家である私の息子が通っていた保育園の行事から「父の日」「母の日」がなくなりました。父親がいない子どもがいるから「父の日」は廃止、母親がいない家庭があるから「母の日」は廃止、という経緯のようでした。一方、「敬老の日」の行事は残っていました。

 屁理屈かもしれませんが、そうなると「おじいちゃんおばあちゃんがあの世に行ってしまっているから『敬老の日』の行事をなくそう」「リストラされたパパもいるから『勤労感謝の日』の行事をなくそう」となってしまうのではないだろうか……そんなふうに思ったことがあります。

「障害児」から「障がい児」へ

 学校の教室にある「黒板」。実際の色は現在、その多くが深緑色ですが、今も「黒板」と呼ばれています。緑の黒板に変わってからも、「緑板(りょくばん)」という言い方をしている教師はいません。

 私は長年、学習塾の経営者として小学生を教えていましたが、子どもたちに前を見るよう注意喚起するとき、ホワイトボードを使っているのについ「黒板の方を見ましょう」という言葉をかけていたことがあります。そのときの子どもたちからは、「先生、黒板じゃないよ! ホワイトボードだよ!」という指摘は特にありませんでしたが、子どもによっては気になる子もいるかもしれません。

 親御さんからも、「緑なのに黒と言うな!」「ホワイトボードと言え!」といったクレームはなく、問題視されることはありませんでした。

 このように、物に対しての言い方は、昔の言い方のままでも特に問題視されないのですが、人が関係してくると途端に、言葉が時代とともに変わってくることがあります。

「片手間に仕事をしないで集中して」と言葉を発したとき、「四肢切断をほうふつとさせる言葉なので、絶対に使ってはいけません」と指摘されたことがあります。同様に、「片手落ち」という言葉も、使ってはならない言葉とされています。

 他にも、人が関係する“変化した言葉”には、「看護婦看護師」「保母→保育士」「精神分裂病→統合失調症」「父兄会、父母会→保護者会」「精神薄弱児→知的障がい児」「養護学校→特別支援学校」「特殊学級→特別支援学級」「落ちこぼれ→授業についていけない子、授業につまずいてしまう子」などがあります。

「障害者」についても、「『害』という字が、『障害者が社会の害になっている』ような印象を与える」とされ、最近は「障がい者」と平仮名で表記されるようになりつつあります。

正確な理解がなければ、差別や偏見はいつまでも残る

 小学校は「通常学級」「特別支援学級」、また「特別支援学校」に分かれています。私の息子は知的障害を伴う自閉症なのですが、小学校のとき、特別支援学級に在籍していました。

 休み時間になると「通常級の子と一緒に運動場で遊ぶ」と言うことがありました。また、特別支援学校が併設されていない中学校が家の近所にあったのですが、「僕は障害者だから、この中学ではなく、別の中学に行く」とも言っていました。それは自分を卑下しているわけではなく、事実がそうなのですから、このように言っているだけだと思います。

 ひとり親家庭に育っている子どもへの配慮から「母の日」「父の日」を廃止しても、子どもは自分の家がシングル家庭であることは分かっているのです。

 発達障害の一つである「自閉症」は現在も使われている言葉ですが、今は「自閉症スペクトラム」とも言うようになりました。「アスペルガー症候群」とか「広汎性発達障害」という言葉は使われなくなっています。

自閉症」は、ネガティブな暗いイメージの言葉です。「自閉→自分の心を閉ざしている→うつみたいなもの」と誤解している人もいます。「殻に閉じこもっているの?」「うつ病みたいなもの?」「治療すれば治るんでしょ?」「もっと愛情をたっぷりかけて育てたら?」と間違ったアドバイスをする人も出てきます。時代とともに発達障害への理解が進んできているのに、「自閉症」という言葉が残っているのは矛盾している気がします。

 ただ、一方で私は、「自閉症」という名称はそのまま残ってもよいと思っています。印象に残る、衝撃的な言葉だからです。言葉だけを変えても、正しい理解を伴っていなければ、差別や偏見はいつまでも残ったままでしょう。

「黒板」と呼んで誰もがおかしいとは思わず、正しい理解をしているように、言葉を変えることだけに神経を使うのではなく、「障害児」という言葉を使っても正確な理解をしていることの方が大事だと思います。

 皆さんはどう思いますか。

子育て本著者・講演家 立石美津子

言葉は時代とともに変化していくけれど…