人材を成長の起点に据える「人的資本経営」が注目されているが、日本企業にとっては、まだ緒についたばかり。経営戦略と結びつき、人事部門と事業部門をまたぐ広範な取り組みとなるため、本腰を入れたいものの、どこから、どう始めたらよいかわからない企業も多いのではないだろうか。

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 本連載では、デロイト トーマツ コンサルティングにおいて人材変革を手掛けるコンサルタントが、人的資本を中心に据えたこれからの経営改革について実務の視点で徹底解説。第1回は、人的資本経営における中計策定のステップと人的資本経営の担い手である「人」のマネジメントについて解き明かす。

(*)当連載は『「人的資本経営」ストラテジー』(デロイト トーマツ グループ 人的資本経営サービスチーム著/労務行政)から一部を抜粋・再編集したものです。

<連載ラインアップ>
■第1回 「人的資本経営」成否の鍵を握る?「人的資本中計」とは何か(本稿)
第2回 未来型CHROの役割とは?これからの人的資本経営で求められること
第3回 人的資本経営を支える「未来型」HRテクノロジーの姿とは
第4回 人的資本経営に不可欠な「データの標準化」が、日本企業でうまく進まない理由


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1 これからの日本企業に必要な人的資本中計とは

[1]方針めいたものしか存在していない、“人”に関する計画

 多くの企業において、中長期の経営計画や短期的な事業計画を策定することは至極当たり前のことである。おおよそ、3年〜5年スパンで全社の中期経営計画(中計)を策定し、それに併せて事業計画を策定し、さらに、経営環境の変化に応じて単年度事業計画や場合によっては経営計画の見直しを行う。このサイクルを常に回し続けることで、スピード感をもって適切な判断を下すことができるようになる。

 一方で、“人”に関する計画についてはどうだろうか。人に関する計画と聞いて最も多く想起されるのは、「採用計画」ではないかと思われる。つまり、次年度・次々年度の新卒採用を何人にするべきか――という、非常にピンポイントな検討は行われているだろう。また、中期経営計画の中でも通常、多少なりとも人に関して触れられている部分は存在している。例えば、少し前だと「グローバル人材」、最近では「DX人材」といった文言が計画の中に組み込まれていることはよくあるだろう。

 しかしながら、中計に記載されている「○○人材の強化」とは、具体的にどういうことなのか。すなわち、その会社における○○人材とは、どのようなスペック(コンピテンシー・知識・スキル・経験等)を有した人材で、いつまでに何人規模で必要なのか。それらの人材を確保するために、新卒採用・中途採用・育成・異動等、どのような施策をどの程度実施すべきなのか――といった詳細な計画にまで落とし込まれている場合は稀(まれ)だ。ほとんどの場合には、大きな方針めいたものしか存在していないというのが、よく見る光景である。

 本来、ビジネス戦略を実現するに当たっては、その実行を担う“人”という資源を会社としてどのように獲得し、マネジメントし、活用していくべきかを、具体的にプランニングすることが必要不可欠である。

 つまり、各事業や機能における戦略を具体的な業務に落とし込み、その業務を実際に行う際に必要な業務体制を想定し、必要な人員数とそれぞれのポジション・役割を担う人材に求められるスペック(コンピテンシー・知識・スキル・経験等)を明らかにする。そして、そのあるべき業務体制に求められる人材の量・質と、現有人材の量・質のギャップを明らかにし、そのギャップを埋めるための施策を検討することが求められている。こうした検討を行って初めて、“人”という資本を最大限活用できるのである。

 加えて、現場からボトムアップ的に上がってくる人員要求は、往々にして過大になりがちである。そのため、限りある人的資本を、会社として許容可能な範囲でどの事業・機能にいつ何人投入していくべきか、また、現場が求める人材スペックを充足するための打ち手を、どのような順番でいつ講じていくべきか、その優先順位の判断を行い、ビジネスゴールの実現に向けた具体的な道筋を描くことが必要となる。

[2]「 現場が求める人数を確保する」だけでは、本当に必要な人材を確保することは不可能

 事業環境やその事業を推進するプロセスにそれほど大きな変化が想定されず、既存の事業領域において業績も右肩上がりの状況下においては、上記のような検討をせずとも問題ない場合が多い。言い換えれば、現場が必要とする頭数をとにかく可能な限り確保することを優先しても構わない。日本企業の多くが「人の計画≒採用計画」となっているのは、こうした時代背景に基づくものと推察される。

 しかしながら、近年においてはデジタルやテクノロジーの活用を考慮せずに今後の成長を描くことが難しく、また、気候変動や脱炭素対応等のSX(サステナビリティ・トランスフォーメーション:持続可能な企業を目指した変革)の動きへのアラインメント等、国内だけではなくグローバルも含めた事業構造の大胆な転換を当然のごとく検討する必要がある。経営を考える上で考慮しなければならない要素は年々増加し、さらにその変化のスピードは年々速くなっている。その結果、事業・経営の変化の度合いはますます大きくなり、数年先を見通すことも難しい時代になってきている。

 さらに、労働人口の減少や働く人々の価値観の変化等、これまで以上に“個”について考えなければならない要素が増えてきている。こうした変化の時代において、これまでのように“人”の計画を「とにかく人数を確保すること」だけだと捉えていては、本当に必要な人材を確保することは不可能になるだろう。

 だからこそ、人を会社にとっての重要な資本として捉え、最大限に活かすことのできる「人的資本中計」を策定することが、これから先の成長にとって必要不可欠だ。

2 人的資本中計の特徴

 このように、人的資本は“量”と“質”の両面からプランニングする必要がある。しかしながら、プランニングしたとおりに人を確保・育成できたとしても、必ずしも想定されるパフォーマンスを発揮してくれるとは限らないのが“人”という資本の特徴である。

 それはなぜか。“人”は、モノやカネとは異なり、気持ち・感情を持っているからである。同じ人であっても、会社に対しての想いの有無や周囲で働く人との関係性の良しあしのほか、会社とは関係のないプライベートでの出来事によってさえ、そのパフォーマンスは左右されるだろう。したがって、人的資本を扱う際には、その数やスペックだけでなく、このように曖昧模糊(もこ)とした人の感情・価値観についても、同時に考え、マネジメントしていかなければならない。いわゆる“会社に対するエンゲージメント”を高め、各人が持つポテンシャルを可能な限り発揮してもらう環境を整備して初めて、人的資本経営が成り立つのである(カルチャーやエンゲージメントについては、それぞれ第6章、第7章参照)。

 日本経済が成長を続け、労働人口も増え続けるとともに、終身雇用が約束され、一定昇給し続けることが明らかであった時代においては、「多少意に沿わないことがあっても、我慢して勤め続ける」という選択を行う人は少なくなかった。また、会社としても“人”は毎年潤沢に供給され続けるものである、と認識しており、辞めたい人は辞めればよい、という意識もあったのではないだろうか(実際に、当時は転職マーケットが小さく、人材の流動性も低かった)。

 しかしながら、現代においては、労働人口は年々減少し、「いかに人を確保するか」ということは多くの企業において解決すべき最重要事項になっている。そして終身雇用年功序列といった考えが衰退していく中で、転職が当たり前という価値観が浸透してきた。意に沿わない会社で我慢して働くのではなく、自身にとってよりよい環境を常に探し、選択することが当たり前になってきている。つまり、現代において“人”は希少資源であり、自社に来てもらう・とどまってもらう・パフォーマンスしてもらうためには、会社として何をすべきかを考え、あらゆる打ち手を模索しなければならない時代になっているといえるだろう。

 また、“人”という希少資源を最大限活用しなければ、社会にとっても重大な損失である。そのため、戦略的に“人”をマネジメントできない会社に希少な人的資本を預けることは、社会として回避していくべきこととなっている。人的資本経営の実践に際しては、こうした定性的で実体のない要素についても考慮し、マネジメントしていく必要がある。

3 人的資本中計策定の実務

 では、人的資本中計の策定に当たって、どのように検討を進めればよいか。ここからは、具体的な検討方法について論じたいと思う。

[1]人的資本中計策定に向けた検討における3段階

 人的資本中計の策定に際しては、大まかに次の3段階の検討を行う必要がある。

(1)中長期的な将来の方向性に関するディスカッションと方針の策定
(2)“量”のプランニング
(3)“質”のプランニング

 以下では、それぞれの段階における検討内容について述べていく。

(1)中長期的な将来の方向性に関するディスカッションと方針の策定

① “人”に関する計画を検討する上で、3年や5年は短過ぎる

 本章の冒頭に述べたとおり、ほとんどの企業において中期経営計画を策定していると思うが、その期間は通常3年、長めの企業であっても5年先までにとどまっている。しかしながら、こと“人”に関する計画を検討する上では、3年や5年は短過ぎると言わざるを得ないだろう。

 例えば、今年の春に入社した社員が会社にとって主力となる30〜40代になるのは、入社してから10〜20年後である。すなわち、“今”、どのような人を何人採用するべきかは、「10〜20年後の会社がどれくらいの規模でどのようなビジネスをどのように実施しているのか」という見通しに基づいて判断されるべきであり、少なくとも“今”どのような人が何人必要か、というニーズのみに基づいて判断すべきではない。

 また、人の育成についても、ちょっとした知識やスキルを身に付けるだけでよいのであれば数回の研修や数カ月程度の育成期間で実になるかもしれない。しかし、これまでにない新しい領域で活躍することを想定し、これまで必要とされてこなかった新しい知識・スキルを身に付けようとしても、そもそもそれらの領域で活躍できる素養を持った人材がいなかったり、育てるにしても年単位での育成が必要となることも多い。

 しかしながら、実際には、「今年や来年、人が足りなくなるから採用しなければならない」「2 〜3年後にこうした事業が立ち上がるから、その担い手を育成しなければならない」といったように、短期的なニーズへの対応に終始していないだろうか。その結果として出来上がった社内年齢構造が、年輪のように積み重なっていき、将来のマネジメントを難しくしてしまう。実際、多くの日本企業において、典型的なイシュー(バブル時代の過度な入社、景気悪化時の採用抑制に伴う、40歳・前後10歳ほどの社員の層の薄さ等)に直面しているのは、近視眼的な対応が繰り返された結果だ。そうした対応を続けている限り、その時々で会社が本当に求める数・スペックの人材を確保することは極めて困難であろう。

② 5年後、10年後の方向性をどう検討するか

 人的資本中計を策定する際にはまず、「少なくとも5 年後、できれば10年後」の将来を見据えて、市場や顧客がどうなっているか、その中で自社がどういった立ち位置でビジネスを成長させていくのか――といったビジネスの大きな方向性を見定め、そのベクトルに沿って人的資本に関する戦略・計画を検討しなければならない。一方で、昨今の環境変化のスピードを鑑みると、果たして「5年後、10年後の見通し」を立てることが本当にできるのか、と疑問に思う方も少なくないだろう。

 その懸念は正しく、5年後や10年後の事業環境や会社として目指す姿を正確かつ詳細に描くことは不可能である。しかしながら、前述したとおり、(特に日本社会においては)“人”は5年後、10年後にも会社にとどまり、活躍してもらう必要がある。そのため、人の計画を検討する際には、まずは5年先、10年先の未来に思いをはせ、会社として“どうなりたいか” “どうあるべきか”について議論をすることを通じて、大まかでもよいので方向性を描き出す必要がある。

 この議論は、通常、経営層を集めてワークショップ(WS)形式で行うことが多い。[図表4−1]のようにいくつかの質問を用意し、事前にそれらについて各人の意見を考えておいてもらう。当日のWSでは各設問に対して経営層が考えてきた内容を共有し、擦り合わせを行っていく。

 これまで何社もの企業でこのWSを実施してきたが、最初は“5年後、10年後のことなんて…”と消極的な反応を示す参加者も多い。しかし、いったんWSが始まると、多くの場合かなり白熱した議論が繰り広げられる。同じ経営層であってもそれぞれの管掌範囲によって、また、それ以上に個々人の想いや価値観などによって、異なる視点・異なる意見が提示されるのは非常に面白い。そうした経営陣個々人の考え方や想いの違いを明らかにするだけでも、将来に向けた議論の第一歩として価値がある。そして、最終的にはそれらの要素を踏まえた時に、“人”という観点から、以下の見極めを行う。

・「いつ」「どのような人材が」「何人」必要か
・ そうした人材を確保するために、人事機能としてどのような施策(採用、育成、ガバナンスの利かせ方、マネジメントの方法、等)を打つべきか、その大まかな方向性や、特に優先的に着手すべき領域(人材確保の優先度の高い領域、確保・育成の難度が高い領域、等)

(2)“量”のプランニング

 人的資本中計検討の2段階目は、上記の中長期的な将来の方向性を踏まえた上で、それらを具体的な人員数と人件費の計画に落とし込んでいくことである。この検討は、通常次の七つのステップに沿って実施される[図表4−2]。

Step 1 :過去〜現状分析( 3 〜5 年)
Step 2 :成り行きの将来シミュレーション
Step 3 :経営としてありたい姿から導出される理論上の要員・人件費
Step 4 :成り行きと理論上とのギャップ診断
Step 5 :ギャップ解消のための施策の検討
Step 6 : 施策のインパクトを踏まえた上での、年度ごとの要員・人件費
計画策定
Step 7 :モニタリング

Step 1 過去〜現状分析(3〜5年)

 過去〜現状分析では、自社が人的資本をどう活用してきたのか(きちんとした投資を行い、また最大活用のために工夫を行い、結果として人的な生産性を向上させたり、将来に向けて強い組織を作ることができているのか)といった現状の立ち位置を把握することがスタートとなる。

 例えば、いびつなケースとして、以下のようなものがある。

・ 短期的な生産性向上に注力し過ぎるあまり、将来に向けて必要となる人を確保してこなかった(採用を過度に抑制してしまっていた)
・ 本来正社員が担うことで顧客満足を重視して業務品質を担保しなければいけなかったにもかかわらず、コストの観点で過度に契約社員アルバイトに置き換えてしまっていた

 こうした過去を振り返ることで、自社が人的資本をどう活用してきたか、反省すべき点は何かを振り返るステップとなる。

 具体的には、少なくとも過去3年、可能であれば5年分の、要員数・要員構成・人件費および生産性の過去推移の分析を行う。その分析結果を通じて、人数や人件費、生産性の値がどのように推移してきているのかを把握し、将来の要員計画に向けた人的生産性向上の可能性や、特定領域での人数・人件費の圧縮や新領域へのシフトの可能性などの検討に役立てていく。過去から現状の分析において押さえるべき項目や人事KPIについては、[図表4−3]を参照していただきたい。

 また、年齢別要員構成や管理職比率、管理スパン等の要員構成についても併せて分析を行うことで、自社の人的資本の活用状況を理解し、今後の人的資本活用の観点から対応すべき課題等を洗い出すことも可能となる。この際、特に10年後などの将来に向かって、どのように強く、活発な組織・人材を作っていくことができるのか?――という未来志向の視点が欠かせない。

 この過去推移および現状の分析は、全社単位だけではなく、部門/機能など一定の単位ごとにも行うべきだ。手触り感のある単位で、自社の人的資源の詳細な特徴や課題を明らかにすることが有効である。

Step 2 成り行きの将来シミュレーション

 次に行うのは、「成り行きの将来シミュレーション」である。“成り行き”とは、これまで行ってきたものとまったく同じ運用をこの先実施した場合のことを指す。具体的には、「採用」「退職」「昇降格」「昇降給」の四つのパラメーターについて、現状と同じ運用を続けた場合のシミュレーションを行う。このシミュレーションを行うことで、自社の人的資本が、総体で見た時に将来に向かってどのような状況になっていくのかを見定めることができるようになる。シミュレーションを行った後、分析時にチェックをお勧めしたい項目・KPIについては、[図表4-4]を参照いただきたい。

 このように、すべて合わせると約50のチェック項目があり、その各項目の変化の様子を定量的に理解しながら考察を進めることがポイントとなる。

 例えば、よく見られる課題として、「管理職適齢期の人材が増加し、昇格を抑制しきれず、これまでどおりの昇格率のままで昇格を行うと、結果として管理職比率が増加する。しかしながら、管理職という職責に見合う仕事が実際にはない」というものがあるが、この帰結として、管理職クラスの報酬を支給しながら本来担当者がすべき仕事を担当してもらうケースがある。これは、単に費用対効果(ここでは人件費対アウトプットの質・量)が悪化する以上に、自社の人的資本を弱体化させていくことにつながっていく。

 管理職が担当者の仕事をし始めると、若手の経験機会を奪うことにつながり、将来における特定層の仕事推進力を弱体化させてしまうことにもなりかねない。さらに、その仕事が本来、若手ならではのフットワーク等が重要な仕事であれば、かえって仕事の質を落とすことにもつながる可能性がある。

 ここまで見てきたのは、成り行きシミュレーションに基づいて、「昇格率維持→管理職比率増加→業務分担の意図せざる変化→成長機会の縮小」などの考察をしたものだ。こうした考察を、シミュレーション結果を見ながら、たくさん実施してみることが肝となる。本当にそんなことが起こるのか、考え過ぎでは?――という考察であっても、検討初期段階では検証をあえて行わず、起こり得ることをとにかくたくさん出してみるのが、自社の将来の組織・人事の解析においては非常に大事になる。

 なお、「成り行きの将来シミュレーション」を行うに当たっては、少なくとも10年、場合によっては20年ほどの期間を想定して実施することが望ましい。前述したとおり、人的資本中計は5年先、10年先を見据えて策定すべきものであるが、“人”に関しては、打ち手の効果がタイムリーに表れることはあまりないためだ。変化を見通すという意味でも、10年後、20年後の姿を眺めてみることが大事になる。

 実際、ある会社では、この先増えていくシニア人材の活用の在り方を検討するために、まずは今後シニア人材がどの程度発生するかを可視化しようとして、20年間にわたる「成り行きの将来シミュレーション」を実施してみた。すると途中で確かにシニア社員は増加するが、いずれそれらの社員も退職を迎え、現状の年齢構成の“山”となっている50代の社員が定年後再雇用の限度年齢を迎えて実際に退職していくに伴い、組織規模が徐々に小さくなり、20年後には現状の7割ほどの人数規模になってしまうということが明らかになった。つまり、現状と同数の採用を続けていくと、いずれは組織規模が保てなくなってしまうのである。

 この会社では、元々はシニア社員の増加に伴い新卒採用人数の抑制を検討していた。しかし、このシミュレーションの結果を踏まえて、短期的な人件費の増加や1人当たり生産性の低下を招くとしても、将来への投資と割り切って新卒採用人数は減らさない、むしろ今から多少増加していくことが必要なのではないか、という議論が行われた。その結果、当初の想定(採用人数の削減)とは真逆の施策(採用人数の増加)に向けた検討が進むことになったのである。

 こうした例は、短期的な業績や事業部門からの要請に応えようとする人事部門だけでは解決しにくい。未来型CHROが経営に対して提言していくべきトピックである。このように、今見えている課題に対して対応しようとするだけでは、将来的に新たな課題を生んでしまう可能性があるのが人的資本の扱いの難しさであり、そうした特性を踏まえた上で、未来型CHROが検討していくべき事項なのである。

Step 3 経営としてありたい姿から導出される理論上の要員・人件費

 将来については、“成り行き”だけでなく、「ありたい姿」についても検討を行う必要がある。ここでは、会社としての“意思”を定量的に表すことが求められる。つまり、会社として3年後、5年後にどの程度の売上規模を目指し、どの程度の利益(率)を確保したいか、その先にどのような姿を目指したいか――ということである。そこから会社として許容可能な人件費額(許容人件費)と、その枠内で確保可能な人員数を算出する。それにより、会社としての目標を達成するために、どこまで人的資本の投資が可能かを定量的に見極めていく。

 本章の冒頭に記載したとおり、中計や事業計画を策定する際、売上や利益の目標値は設定されるが、人的資本の扱いについてはおざなりになっていることがよくある。多くの場合、計画策定時にはあまり詳細な検討がなされておらず、人件費はおよそ現状と同額と見込んでいたり、せいぜい“過去からの経緯を踏まえて○%増”というように、ざっくりとした見込みで想定されている。

 しかしながら、本来的には、会社としての目指す姿と、それを実現する人的資本の在り方は、車の両輪として併せて計画されるべきである。そして、会社として確保したい利益がある以上、人的資本に無尽蔵にコストを投下することはできない。そのため、どこまでであれば人的資本に対しての投資が可能なのかを見極めておく必要がある。

 では、具体的にどのように検討を行えばよいか。まずは既にある中期経営計画を「ありたい姿」として想定することがスタートになる。しかしながら、中期経営計画で策定されている売上・利益計画は往々にしてストレッチな目標になっていることも多い。そもそも計画はあくまで計画であり、実際にそれが達成されるかどうかはその時になってみないと分からないものであり、計画が未達に終わる可能性は必ず存在する。

 日本企業の場合、人は一度採用すると60歳まで、場合によっては65歳、70歳まで会社に所属する可能性が高いため、人件費は固定的で、かつ年々水準が高くなっていくことを考えると、採用を考える際にはある程度保守的に考えざるを得ない。つまり、計画が最初からうまくいく前提ではなく、一定の「悲観シナリオ」を前提に人的資本の計画を立てる必要がある。

 ただし、悲観シナリオを前提に計画を策定したとしても、あくまでターゲットとなるのは元々の計画値であるため、状態としては“より少ない人数・人件費で、より高い売上目標を達成する”という絵を描くことが初期の計画値となる。

 また、全社単位でのありたい姿に加えて、事業/機能/部門等の一定単位でのありたい姿の検討も必要となる。基本的には全社単位と同じく、各単位で検討している計画(事業計画、部門計画等)に照らして、各単位における許容人件費および人員数を算出する。しかしながら、会社によっては部門に利益責任を負わせていない場合や、そもそも売上・利益を持たない組織(ミドル・バック機能)も存在するため、単位別のありたい姿の検討の仕方にはいくつかのパターンが発生することになる。最も単純なパターンは、各単位で作成した“必要人数”を積み上げることである。

 ただしその場合、必要人数の算出に際して利益等の制約条件が課されるわけではないため、必要性が過大になっている可能性が大いにあることに注意が必要だ。部門からの“必要性”を、定量的な根拠に基づく主張とするためには、「生産性KPI」に基づく要員計画策定を現場に課すことが必要となる。

 生産性KPIとは、「1人当たり売上高」を例に取ると、インプット(=人数)とアウトプット(=売上高)の対比を定量的に表したものを指す。要員計画を策定する際には、インプットに当たるものとして“要員数”もしくは“人件費”を用いる。そして、アウトプットに当たるものは、計画を策定する単位ごとに異なる。営業部門等の売上が立つ組織であればアウトプットは売上であり、何らかの製造に携わっているような組織であればその製造数がアウトプットとなるなど、フロント系の部門については迷うことはあまりないだろう。

 一方で、特にミドル・バック部門のように、業務が直接売上に紐(ひも)づかない、具体的なアウトプットが想定しづらい組織においては、アウトプット指標として何を設定すべきかが肝となる。一般的に、人事部門や財務経理部門に代表されるような、いわゆるバック機能の組織については、「全社員数」をアウトプット指標として設定することが多い(例:人事機能1人当たり社員数)。アウトプット指標とは、その組織/機能における業務量を推測できるものであるべきであり、バック機能においては“社員数の増減が業務の繁閑と連動している”と解釈するのである。この見方はグローバルのさまざまな調査機関や経営コンサルティング会社においても一般的であり、こうした指標のベンチマークデータも多数存在している。

 生産性KPI設定において最もアウトプット指標の設定が難しいのが“ミドル機能”である。その中でもよく話題に上がるのが「研究開発機能」の生産性をどう測るべきか、という論点だ。研究開発の業務は複数年にわたって行われるものがほとんどであり、“今”実施している業務は“数年後”のアウトプットにつながるもので、“今”の成果とは関連しない。したがって、何らかの成果をアウトプット指標として設定するのではなく、今の業務量を推測できるものを何らか設定する必要がある。何を設定するかは会社によって異なるが、一つの例として、「Phase3まで進捗(しんちょく)しているプロジェクト件数」等をアウトプット指標として設定した事例がある[図表4-5]。これは、一定段階まで成功(=Phase3までの進捗)した案件数が、業務量の代替指標として利用可能であると判断したものである。

 こうして設定した生産性KPIに基づき算出された必要人数は、ある程度定量的な根拠に基づくものとなるため、単純な「必要人数の絶対値の積み上げ結果」よりも、一定の制約を課した状態での必要人数を見積もることが可能となる。なぜなら、各組織において、今後アウトプットの見通しがどうなっていて、生産性をどのようにマネジメントしていくつもりであり、結果として何人の人員が必要である、というロジックに基づいた計画値であるためである。

 また、生産性KPIについては、Step1「過去〜現状分析」時に併せて過去推移を分析しておくと、計画策定時に大きな参考情報となる。例えば、過去分析の結果、生産性の推移が下がってきていることが明らかになったため、少なくとも“過去の○○年水準の生産性維持”を目指し今後マネジメントを行う(ため、○○年水準の生産性が達成できた場合の必要人員数を算出し、それを計画値とする)――といった検討が可能になるのである。

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