今から100年前の9月1日関東大震災が発生しました。当時海軍の連合艦隊は訓練中で旅順にいましたが、急遽訓練をとりやめ、関東方面に急行することになりました。

3隻分の支援物資を乗せた新造戦艦

今から100年前の1923年9月1日の正午直前、南関東を中心に大きな被害をもたらした関東大震災が発生しました。いまでこそ、大規模災害が発生すると陸上自衛隊とは別に、海上自衛隊護衛艦支援物資を積んで海側から支援する姿が確認され、ニュースとして報じられますが、100年前はどうだったのでしょうか。

実は、今の海上自衛隊と同じように海軍も災害派遣を行っていました。

地震発生当時、旧日本海軍連合艦隊は旅順(現・中国遼寧省大連市)近海の裏長山泊地で訓練中でしたが、一報が入り訓練を切り上げ東京へ急行することが決定しました。

駆逐艦軽巡洋艦など船速の速い艦艇を先行させると共に、当時第一艦隊に所属していた戦艦「長門」「陸奥」「日向」「伊勢」の4隻は地震発生の2日後の9月4日に、九州の志布志湾に到着、ここで「長門」は、「陸奥」「日向」「伊勢」の食料品や医療品を全て積み込み、3隻に先行し、東京に直行しました。

正式な命令なしに品川沖まで直行!

急行した「長門」は9月5日16時に品川沖へ到着。なお、この時点まで海軍大臣からは正式な許可が降りておらず、ある意味では独断専行行為でしたが、この到着からしばらくした19時、正式任務が付与されることとなり、災害支援活動をしていくことになります。

「長門」は当時、建造から2年ほどしか経っていない新造戦艦でしたが、以降たびたび連合艦隊の旗艦として登場し、1945年の敗戦まで国民に親しまれていくことになります。

また、「長門」の姉妹艦である「陸奥」は9月9日、米や麦といった補給物資を満載して横須賀に到着します。これは当時、呉鎮守府の長官だった鈴木貫太郎9月2日に海軍大臣の許可を得ず、独断で艦艇の派遣を決定し、物資倉庫を開放して救援物資の搭載を命じため可能になったことでした。

その後11月15日までの約2か月半にわたり、日本海軍各艦艇は品川や横須賀を拠点として罹災者の救護、救援物資の輸送にあたったほか、海軍陸戦隊などによる交通・通信機関の復旧工事などに従事しました。

なお、長門の品川到着とほぼ同じ頃に、装甲巡洋艦「ヒューロン」を中核とした米国のアジア艦隊の一部も、救援のため外国艦隊としては一番乗りで品川に入港しています。当時の米国大統領選だったジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニアは現地時間の9月1日の夜には関東での大地震の報を知り、ただちに対日支援を決断しました。

通信能力が圧倒的に違うにもかかわらず2011年3月11日に発生した東日本大震災のときの支援作戦「トモダチ作戦」のような動きで支援体制を整えており、同国の情報収集能力が当時から高かったことが伺えます。

建造間もない頃の戦艦「長門」(画像:パブリックドメイン)。