終戦間もない1950年代、アメリカの調査団が日本の道路事情を「信じがたいほど悪い」と評価したことは、戦後の道路建設史における出発点のように語られることもあります。なぜ日本の道路開発はそこまで遅れていたのか、前時代を検証します。

日本の道路は「信じがたいほど」悪かった 実際どれくらい?

「日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国にして、これほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない」

これはアメリカの経済学者ラルフ・ワトキンスを長とする「ワトキンス調査団」が残した言葉です。1954(昭和29)年、日本政府が国内初となる東京・神戸間自動車道路(今の東名・名神高速道路)を計画し、その調査のため政府により招聘されたワトキンスは、当時の日本の道路状況を報告書で徹底的に酷評しました。そのうえで彼は、当時日本に1本もなかった高速道路の経済的有用性を説いたのでした。

終戦間もない時代の日本の道路は、欧米先進国から見ると、それほどまでにひどいものでした。当時の日本の道路がなぜそこまで「悪かった」のか、明治から昭和の時代に至る日本の道路開発史を振り返りつつ、解明していきます。

明治時代、近代国家の仲間入りをした日本は、国内に鉄道網をめぐらせるなど交通インフラの近代化に邁進し、やがて1930年台には世界3位の海運国へと発展することになります。しかし道路に関しては、律令制の時代に軍団の移動用として整備された道路というわずかな例外を除けば、明治の日本に見るべきものは皆無でした。

中世の主要道であった鎌倉道でさえ、幅はわずか2m内外の無舗装道路であり、人馬のすれ違いがどうにかできる程度でした。江戸時代には街道こそ整備されましたが、幕府の方針で大河に橋は架けられず、道路は中世同様に細い泥道でした。

そのような道路事情のまま、時代は明治へと移り変わります。国内の急速な近代化を進めた明治政府ですが、力点が置かれたのは海運と鉄道事業であり、交通インフラとしての道路はほぼ着目されませんでした。

本格的な道路事業の開始

やがて大正時代になると、国内の荷車は30万台に達し、自動車の輸入も本格化します。産業の発展に伴うこうした現象は、道路整備の必要性を否応なく生じさせ、道路事業は国策となっていきます。

1920(大正9)年、道路改良のための30か年計画が立ち上がり、ここでようやく日本の近代的道路の歴史が始まりました。この計画では1949(昭和24)年の完成を目指して、国道7855km、軍事国道275km、指定府県道1570km、そして6大都市の主要街路を改良することが予定されていました。

そしてまず、東京の神宮外苑に今も残る、近代的で自動車交通に適した舗装道路が計画されます。この道路はアスファルトによる高級舗装を施した車道と、両脇には歩道を備え、場所によっては街路樹も植えられた、近代都市にふさわしいものでした。

しかし道路改良30か年計画の開始から4年目にあたる1923(大正12)年9月、関東大震災が発生し、計画は頓挫していまいます。その一方で国内の自動車保有台数は増え続け、震災6年後の1929(昭和4)年には8万台を超えました。

計画はいったん頓挫しましたが、自動車に適した道路整備は待ったなしの状況でした。このタイミングで、今度は世界大恐慌が起こったものの、これは道路事業にはかえって追い風となりました。恐慌による失業者の大量発生への対策として道路事業はうってつけだったのです。また、この道路事業による交通の発達で産業が振興し、それが恐慌脱出への道筋になる、という目論見もありました。

震災復興と恐慌脱出、失業対策を兼ねた道路事業として、新たに1932(昭和7)年、産業振興道路改良5か年計画が立てられ、さらに町村道の改良も国が助成することになります。その間にも自動車の交通量は予想を超えて増大し続け、1934(昭和9)年には20年をかけて実施する第二次道路改良計画へと移ります。この完成時には指定府県道20万4222kmのうち未改良の1万7360kmが自動車交通向きに改良されるはずでした。

これは裏を返せば、昭和初めの時点においても、主要道の半分以上が自動車交通に不適な、幅員も狭く側溝もないような「信じがたいほどひどい」ものだったということです。日本の道路の開発は、この時点ではまだまだ始まったばかりだったといえるでしょう。

難航する戦前・戦中の道路事業

1937(昭和12)年日中戦争が勃発すると、予算を戦費に取られ、内地の道路事業ばかりを優先できる状況ではなくなります。この当時、1939(昭和14)年末までに改良が完了していたのは、国道は21%、府県道は12%のみとわずかなものでした。

とはいえ、戦時下の厳しい財政事情でも、政府は道路事業を進めようとしました。ただ第二次道路改良計画は見直され、道路舗装2か年計画に変更。当時の財政事情を反映したこの舗装事業には、簡易舗装の技術が導入されたことが背景にあります。この計画によって、1925(大正14)年時点で12.4%であった東京の道路舗装率を、1937(昭和12)年には52.7%にまで引き上げることができました。

他方、モータリゼーション先進国高速道路の建設も進んでいたアメリカからの技術導入や、グレーダーなどの新型機械による機械化施工も行われるようになりました。

戦時下も道路事業はさらに進み、1940(昭和15)年には関東と関西を結ぶ高速道路として「弾丸道路計画」が始まり、自動車による軍事輸送の必要性もあって、大戦半ばの1943(昭和18)年には全国自動車国道網が計画されます。このように大正時代以降、数々の困難にもかかわらず休まず進められた日本の道路事業でしたが、弾丸道路計画開始の翌年に始まった太平洋戦争の影響は大きく、やがて計画は頓挫を余儀なくされたのです。

戦局が悪化すると、輸入に頼るアスファルトの入手が困難になり、成人男性が徴兵されたことで労働力も不足し、道路事業は停滞しました。道路は軍の活動にも不可欠でしたが、戦争中は道路舗装2か年計画の5分の1レベルしか達成できず、ついには補修もままならない状況に陥り、国道全体の舗装率は17%にまで落ち込みました。

そして、道路事業どころではない状況のまま、日本は敗戦を迎え、事業半ばで放置された「信じがたいほど悪い」道路が、戦後の日本に残されたのでした。

もともと道路の近代化に大幅な遅れを取っていた日本は、大正時代以降、道路事業を懸命に推進し続けたものの、戦後の1950年代に至るまでその遅れを取り戻すことはできなかった、といえるでしょう。しかし戦前からの悲願であった道路整備への思いは、幻の弾丸道路の復活というべき東名・名神高速道路や、東京の震災復興で予定されていた環状7号線、環状8号線などとして実現され、戦後日本の急速な経済成長を後押ししました。

1969(昭和44)年、東名高速の開通式に招待されたワトキンスは、「かくも短期間に道路の建設をなしとげた国は世界に例がない」と驚嘆したと伝えられます。

日本初の高速道路である名神高速。尼崎~栗東間の開通はワトキンスの調査から9年後のことだった(画像:写真AC)。