航空母艦(空母)と一般的に呼ばれる艦は、2023年現在としては飛行機またはヘリコプターの発着艦を、「全通式」という1枚の飛行甲板を通して行っています。しかしこの形に至るまでかなりの試行錯誤がありました。

最初の空母は超危険な設計だった?

航空母艦(空母)と一般的に呼ばれる艦は、2023年現在としては飛行機またはヘリコプターの発着艦を、「全通式」という1枚の飛行甲板を通して行っています。しかし、この形に落ち着くまでには紆余曲折がありました。かつては飛行甲板が艦の中央で分断されていたり、ひな壇のように多段式になっていたりしたものもあったのです。

世界で初めて、軍艦から航空機を飛ばそうと計画したのは、何事も奇抜な発想が生まれ易いイギリスでした。第一次世界大戦中の1917(大正6)年3月、軽巡洋戦艦だった「フューリアス」の甲板上に、滑走路を取り付けるという改修を行いました。これが世界で初めて空母といわれています。

ただ、艦首甲板上の前部の砲塔を撤去し、長さ70m、幅15mの飛行甲板をつけるというもので、発艦はできても着艦は不可能でした。そこで同年10月に後部の砲塔を撤去し、着艦用甲板を設置しました。

しかし、改修を終えると、とんでもない欠陥が明らかとなります。中央にあった艦橋が邪魔どころか危険極まりない構造物になってしまったことです。

速度の遅かった当時の航空機でも、70m程度しかない飛行甲板に着艦するのは至難の業で、艦載機が衝突しないようにネットを張る方法も考え出されましたが、とても実戦で使える代物ではありませんでした。理論上は前方甲板から飛行機を発艦させつつ、後方の甲板で着艦する方式で波状攻撃することも想定していましたが、結局使われることはなく、第一次世界大戦は終結します。

その直前の1918(大正7)年9月16日イギリス海軍は商船を改造して「アーガス」という空母を開発します。同艦には「フューリアス」の失敗が活かされており、飛行甲板上に構造物を設けない、全通甲板が初めて導入されました。これが世界で最初の実用的な空母といわれますが、これでも問題がありました。発艦と着艦の作業を同時にこなせないことです。

ひな壇にして発艦と着艦を同時に行うはずが…

こうした問題を解決するため、第一次大戦終了後の1922(大正11)年6月からイギリスは再び「フューリアス」に改修を行いました。飛行甲板に構造物を全く持たないフラッシュデッキ型という形で、しかも飛行甲板がひな壇式に二段あるという多段式に変貌。上部甲板を着艦用、下部甲板を発艦用に使えば、効率のよい作戦行動を遂行でき、敵を波状攻撃できると考えたのです。

この「フューリアス」に大きく影響を受けたのが、旧日本海軍でした。日本海軍もいち早く「鳳翔」という、改修ではなく最初から作られた空母を就役させていました。これは、やや小ぶりながら煙突や艦橋といった構造物をまとめて舷側に寄せたアイランド型の配置で、全通飛行甲板を持つものでしたが、やはり発艦と着艦を同時にこなせない問題を抱えていました。

そこで日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約の影響で戦艦としては建造中止になっていた「赤城」と「加賀」を空母に転用し、多段飛行甲板化します。

しかも「赤城」と「加賀」さらにひとつ段を増やし、三段式の空母になりました。最上段の甲板は着艦および攻撃機など大型機の発艦用、中段も当初は飛行甲板にすることも考えられましたが、艦橋と20cm連装砲塔が2基設置されました。当時はまだ航空機の航続距離が長くはなく、敵の戦闘艦艇に肉薄され、砲戦が発生した場合に備えての装備でした。下段は戦闘機などの発艦用に使用されました。

課題の解決策かに思われた多段空母ですが、早々に日英の多段空母両方で、下段の飛行甲板が発艦に使うには短すぎて使いにくい、という問題が露呈します。

フューリアス」や「赤城」「加賀」が完成した1920年代の航空機は、軽くて離陸しやすい複葉機が主体でしたが、すぐに艦載機の大型化、高出力化が始まり機体重量が重くなった影響で、結局、最上段の一番長い飛行甲板しか使われなくなります。

そして、「赤城」「加賀」に関しては装備していた20cm連装砲塔の必要性が薄れたことから改装するという判断が下り、「加賀」は1935年昭和10年6月25日、「赤城」は1938(昭和13)年8月31日にそれぞれ一段の全通甲板になりました。なお「フューリアス」のほかに「カレイジャス」「グローリアス」が多段空母としての形を残したままでしたが第二次世界大戦に突入しています。

解決策は意外と単純な方法だった

結局、第二次世界大戦中の空母は、着艦と発艦を同時に行うことは諦め、発艦作業と着艦作業それぞれの時間を設けて、専念することになりました。

しかしこの状態だと、着艦時にオーバーランなどの事故が生じた場合、飛行甲板前方などに駐機している機体に衝突し飛行甲板が使用不能になる危険が残っていました。さらに戦後になると、ジェット機の配備も考えなければならなくなり、速度上昇によりオーバーラン事故の可能性は高まりました。

この解決策を考えたのは、空母を生み出したイギリスで、船体後部に斜め飛行甲板の「アングルド・デッキ」が設けることにしたのです。1950年イギリス海軍のデニス・キャンベル大佐が、後部に角度を変えた甲板を取り付け、発着艦を別にできないかと考えつきます、この方法はまず1952年2月、イギリス海軍のコロッサス級空母「トライアンフ」で試験的に採用され、その後アメリカ海軍エセックス級空母「アンティータム」を改装し本格的な運用が開始されます。

実際に使ってみると、着艦機は斜めの飛行甲板を、発艦機は前方の直線の飛行甲板を利用するため、衝突事故は回避でき、最悪の場合でもその1機だけの損失で済むようになりました。さらに、エレベーターや駐機スペースは着艦動線から外れた部分に設置されるため、飛行甲板作業も容易となり、カタパルトを増備すれば同時発艦機を増加させることもできるなどのメリットも発見され、以降この形が2023年の現在に至るまで、定番の形となりました。

なお、多段空母はその奇抜な見た目がいいのか、創作物の世界では、宇宙空母として登場したりもしています。


※一部修正しました(9月5日12時38分)。

ニミッツ級原子力空母の甲板。他の空母も大小の差こそあれ大体このように斜めと艦と直線に2種の飛行甲板がある(画像:アメリカ海軍)。