ジャニー喜多川

ジャニー喜多川氏の性的虐待問題が大きな話題となっている。なぜ今になってようやく事件が取り沙汰されたのか、より大きな視点で分析したい。


■日本の「右ならえ」的文化

今回の事件で注目できる現象の1つは、相変わらずの各所の「右ならえ」的行動である。これまで同事件は、既に様々にとりあげられている通り、全く知られていなかったわけではなかった。

一斉に手のひら返しをするような動きは、日本文化の傾向の1つとして知られているだろう。戦時中に軍国主義を謳っていた学校の教師が、戦後すぐに手のひらを返し、アメリカと民主主義を礼賛したというエピソードが象徴的なものである。


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■各メディアの責任

人々のイメージを超えたジャニー氏の犯罪行為を、それが明るみになった時点で大手メディアや警察等の捜査機関が追及できなかったことが、メディアとしては最も責任があるのは間違いない。

中枢的な関係者でもない周りの人間が事件を告発できないのは、ある程度は仕方がない面もあるだろう。これも社会が個を圧殺しうる、日本の文化の負の側面と言うこともできる。


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■正義の行動の理論

重要なことは、いじめ発生のメカニズムでも言及されることで、いじめは仲裁者と傍観者の数で決まってくるということ。

最初に動ける者の数次第で、結果が変わるということだ。結局のところ、各々が強い人権意識と行動力を持つことが重要ではあるが、しかし1人1人が強い行動力を持たずとも、ある一定数の個人の行動力さえ伴えば、じつは活路が切り拓けるのだとも言える。


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■社会運動の重要性

ジャニー氏の性的虐待問題は、日本とは必ずしも折り合いがいいとは言えない「社会運動」の重要性を痛感させるものだ。

今に及んでも結局のところ、同問題に火をつけたのはBBCの報道であり、また国連人権理事会の動きが大きかっただろう。

週刊文春』の報道の功績は大きいものの、一方で日本のメディアの動きによる自浄作用が機能したとも言い難い。人々が連帯して告発できる文化が育まれることが必要だろう。

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■陰謀論的権力批判の必要性

警察などの捜査機関や大手マスメディアが動けなかったのは、ただの怠慢以上に癒着的な権力構造のきらいも見え隠れする。SNSではすぐに陰謀論が起こりがちで、わけのわからない権力構造批判がなされがち。

よって「陰謀論には加担すべきではない」という一般原則を掲げることもできるはずだが、今回の事件は社会運動にせよ、陰謀論的思考にせよ、 シンプルに「なしにしてしまえばいい」と考えられたら楽なものの必要性を再考させられる。


■求められる連帯

日本の文化的特徴は人間関係の重視が基本となっており、昔からの村落共同体におけるムラ社会構造が個人化の進展で解放されてきた歴史であった。

しかしながら、資本主義システムによる個人化の進展は、システムによる自己のすり潰しや孤独感へと転化し、逆に今日は個人と社会との一体感が求められている。

国民的漫画である『ONE PIECE』(集英社)も「任侠」や「仁義」という昔ながらの裏テーマ性を持っており、人々が連帯を求める今日性を反映しているだろう。


■個人の連帯

ところがジャニーズの事件は、日本社会が過去のムラ社会に戻ることを強く警告する。個人を尊重し、個人が連帯することで権力の癒着構造に対抗していかなくてはならないという、油断ならない現実を突きつけているのだ。

無責任なSNSの炎上は全く以て危険であるが、一方でSNS社会でもなお動かせない危険な権力の癒着構造が存在する。ここに、叩きすぎてはいけないのか、なおも抵抗すべきかの判断の難しさがあるだろう。個人の連帯はなおも安易なものではない。

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(文/メディア評論家・宮室 信洋

ジャニー喜多川氏の事件が日本社会の課題を照らし出す理由 個人の連帯