どんなに時代が変わっても、人間の欲望や渇望には限りがなく、だからこそ「歴史は繰り返す」ことになります。本稿では、岩永憲治氏の『金融暴落! グレートリセットに備えよ』の中から一部を抜粋し、1929年10月の「暗黒の木曜日」に至るまでの道筋に焦点を当て、間近に迫っているという世界規模のバブル崩壊の兆しについて考えます。

性懲りもなく繰り返される歴史

1927年1933年世界恐慌」と今次の「2022年→2028年世界恐慌」を比較すると、全てが重なるように相似している。

ここからはさらにそれをクリアにするため、詳細を突き合わせてみたい。

今回確実に起きるバーストは、日本が経験した「1987年1993年の不動産スーパーバブル&株式市場バブル崩壊」のレベルをはるかに凌駕する衝撃となるだろう。筆者は「1927年1933年世界恐慌」を踏襲する“グレートリセット型”のシナリオを描いている。

金融恐慌、金融収縮、大恐慌の順に進行するプロセスもわかっている。

世界中のマネーが集中した米国発の世界大恐慌に発展するのは、自明の理と言えよう。

なぜそこまで行かねばならないのか?

1927年1933年世界恐慌」の時代背景と現在とではまったく違うではないか。そう異論をはさむ向きがほとんどであろう。

筆者としてはただ、こう答えるしかない。

どんなに時代が変わろうとも、いくら進歩した生活が営まれようとも、経済規模が違おう とも、人間の欲望、熱望、渇望、ギャンブル、スペキュレーション(投機)には限りがないからだと。

それらは歴史が明白に証明しているではないか。

マーケットにはその臨界点が必ずや存在している。そして、どんなに時代が変わろうとも、人間の“本質”である欲望、その発露となる熱狂、狂乱、狂騒に人間は抗えない。それゆえマーケットの臨界点を越えていってしまう。

だからこそ、「歴史は繰り返す」ことになる。

バブルの原点となったフロリダの不動産ブーム

ここでいま一度、1920年代の米国の歴史を俯瞰してみると、1929年10月の「暗黒の木曜日」に向かう兆しが、すでに10年近く前のフロリダから始まっていた。  

フロリダにおける不動産ブームは、1920年代は信じられないほどの熱狂とともに、莫大な富を生み出し、それは同時に、米国人の生活様式が急激に変化した時代であった。

この不動産ブームは、米国史上最大とも言える人の“移動”を生み出した。加えて、米国人以外の投資家、投機家の面々が、湿地帯だった場所から急速に発展した美しく人目を惹くにぎやかな新都市に群がった。

別の視点から見れば、このフロリダのブームは、米国の生活スタイルの進歩と新たなる多 様化文明を生み出していった。ブームが始まって以来わずか5年で、フロリダの中心都市であるマイアミの人口は3倍に膨れ上がった。

フロリダにおいては、ギャンブルも飲酒も容認されていた。

このこともフロリダのブームをおおいに後押しした。大物や実力者(財閥)、有名人に加え、詐欺師までもが押し寄せた。心地よい日差しのなかで、新しくまばゆいばかりの米国の「フロンティアスピリッツ」は喧伝され、利用され、活用されていった。

強欲にまみれるフロリダのデベロッパーたちは、主要都市に不動産営業所を構え、動く看 板のごとくリゾートを宣伝し、人々を興奮させた。

この時期にはすでに不動産価格が高騰し始めていたので、フロリダに関心を抱く人々には、史上最大の不動産ブームのファーストフロアに入る最後のチャンスのように見えたのであろう。

そうなってくると、フロリダの不動産投資ブームは全米を巻き込むこととなった。米国の 富裕層以外の投資家(財閥)、投機資金、平均的な米国人が不動産や開発の一部のオプションを購入するまでになり、おびただしい数の人々がフロリダに殺到した。

これまでの米国の歴史のなかで最大の不動産取引が行われたことから、当然ながら、不動 産バブルが膨れ上がった。

例えばこんな出来事があった。海辺の一等地のリゾート開発について、新しいセグメントが売り出されると発表され、それと同時に誇大宣伝がこれでもかと打たれた。物件・権利を購入したいがために投資家たちがたかってきて、その数は異常なほど。

投資家たちの小切手がいたるところで飛び交い、確認するのも難儀であった。そしてその日に幸運至極にも購入できた高額物件・権利はわずか3、4日後に、3倍もの値段で転売された。

まさしく、人間の狂気からくる土地投機への狂乱の極みと言えた。

フロリダ州の不動産市場に多くの外部投資家が容易に参入できたことも、価格高騰を後押 しした。

1920年代のフロリダの繁栄は米国中の投資家たちに、不動産バブルの格好のリゾート地、熱帯の楽園のイメージを植え付け、魅了するに至った。

デベロッパーがニューヨークタイムズ・スクエアで「マイアミは6月だ」とする巨大な 広告を掲載すると、瞬く間にフロリダの土地価格は上昇し始めた。

価格の高騰と軌を一にして、新規プロジェクト数は膨大な数に上った。

しかしながら、「買うから上がる。上がるから買う」といった狂乱が最高潮に達したとき、投機は終わるのである。

皮肉にも人々の投資意欲に火をつけたフロリダバブルの崩壊

1925年1月、米国のビジネス誌「フォーブス」は読者(投資家)に向けた重要な記事 を掲載した。

「フロリダの不動産価格は手に負えず、買い手を見つける希望だけに基づいている」

実質的な“警告”であった。

ちょうどその頃、ポンジ・スキーム詐欺師ポンジ・スキームの名に由来する投資詐欺) を恐れたIRS(米国内国歳入庁)が、フロリダにおける不動産投資の調査を開始した。

臨界点に達したフロリダの不動産市場への新規参入者は減少傾向となり、不動産価格の伸 びも鈍化していた。そして、バブルが崩壊するための全ての条件が満たされていった。

1926年に入ると、とうとう買い手の流入が衰え始めた。ブームに翳りが見え始めた矢 先、不運な出来事が起きた。

同年1月10日、マイアミ港の入り口に浮かぶホテルに改造されることになっていたデンマークの古い軍艦「プリンツ・ヴァルデマール号」が転覆したのだ。

  国内の人口拡張に呼応し、すでに鉄道は輸送料金の引き上げを開始していた。そこへプリンツ・ヴァルデマール号の転覆事故が発生、マイアミへの航路が遮断された。

港の閉鎖に伴い、熱帯の楽園という都市イメージが崩れ出した。報道される難破船の写真が、多くの人々に酷い心理的影響をおよぼすようになった。

あれほど熱中していたフロリダに誰もが嫌悪感さえ抱くようになってしまったのである。

そして1926年9月、10月に二度のハリケーンがマイアミのリゾート地を襲い、完膚なきまでにマイアミは破壊された。こうして米国における空前の不動産バブルは崩壊の時を迎えた。

1927年から1928年にかけて、メジャーな不動産会社が次々と倒産した。

彼らに莫大な金額を融資していた100行近くの銀行(フロリダ以外も多数含む)も倒産に追い込まれた。

このフロリダでの不動産バブルの崩壊がきっかけとなり、米国人のなかに「不動産よりも、苦労せず手っ取り早く儲けられる株のほうが投資にはいいのではないか」という気持ちが日に日に増幅していった。

これが1929年秋に起こる「暗黒の木曜日」への序章になっていくこととなる。

当時、米国の国家予算の規模が現在の日本円に換算して10兆〜12兆円だったのに対して、フロリダの損失額は大きいとはいえ、規模的には1000億円強程度であった。

逆に言えば、フロリダの不動産バブル崩壊は、黄金期と言われた実体経済の拡大から、株 式市場の「上昇する、高騰する」といった濡れ手に粟のバブル経済への転換を促した。

これを機に、米国経済はいよいよ本格的な「バブル経済」へ向かっていった。

時代は熱狂、狂騒へ、そして人々の心はGreed(欲望)を強めていった。皮肉にもフロリ ダの不動産バブル崩壊は、次なる株式バブルという火に熱狂という油を注いだようなものである。

フロリダの不動産バブルが終焉へと向かうのと時を同じくして、米国のNYダウは急落を 繰り返しながらも、その都度、力強い上げを見せるようになってきた。

第一次世界大戦後も、米国経済は活況を呈し輸出が大きく伸びたのに対し、英国はインフ レとなり経済が低迷、貿易収支の赤字は増加の一途を辿り、ポンドは減価した。そのため公定歩合を7%まで引き上げ、通貨防衛に努めたが、国内産業には大打撃となった。

戦争の影響で一時停止していた金本位制に主要国が復帰したのは、1920年前後からとなる。金本位制のもとでは赤字国のゴールドは減少、黒字国のゴールドは増加することになるが、第一次世界大戦前後からは、英国から米国へとゴールドが流出した。

金本位制のもとでは、ゴールドが増加すればその分国内の貨幣量を増やし、ゴールドが減 少すれば貨幣量を減らすルールが守られる必要がある。するとどうなるか。

赤字国:ゴールド減少→貨幣減少→物価下落→輸出増→輸入減→黒字化へ 黒字国:ゴールド増加→貨幣増加→物価上昇→輸出減→輸入増→赤字化へ

このメカニズムが成立することで国際収支のバランスが図られてきた。

しかし米国はこの「ゴールドが増加すれば貨幣量を増やす」というルールを反故にした。

輸出増加を背景に急増したゴールドについて、その分、増やすべき通貨供給量を増やさない「金不胎化政策」を行ったのは、国内の物価高騰を避けるためであった。また価格が抑えられた結果、米国の輸出競争力は保たれる一方で、英国の貿易には不利となった。

米国では、1926年の秋以降、株式ブームが発生しており、英国から米国へと資金が流出するようになった。また1927年以降、フランス政府が英国に滞留していた資本を大量 に環流させたこともあり、英国では赤字増大とともにゴールドの流出が激しくなった。

これを受けてG4・中央銀行総裁会議(米国、英国、フランスドイツ)が開催された。

イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンドイツ中央銀行総裁ヒャルマー・シャハト、フランス銀行副総裁シャルル・リストなど錚々たるメンバーが米国に渡り、FRBに対して、英国からのゴールド流出防止のための金融緩和を要求したのである。

FRBはこれを吞んだ。

具体的には公定金利の引き下げと、市場の国債の買いオペレーションの実施だった。

1914年から1928年までFRBの初代議長を務めたベンジャミン・ストロングのもとで、 1927年8月に、一時的な金融緩和策として政策金利を4%から3.5%に引き下げた。

さらにFRBは市場の国債を購入する買いオペにより、市中に大量の資金を溢れさせた結果、この資金が株式市場へと流入していった。

過熱感をいち早く感じ取った大口投資家の面々は、フロリダの不動産投機から一抜け、二 抜けして、資金を引き揚げていった。「次の投資先」を求めてマネーが向かった先が、1929年9月を目指して強気相場を展開していくNYダウの株式市場であったことは言うまでもない。