明治時代に鉄道が各地で誕生していきますが、アイデアだけでつぶれていく計画もありました。それを資金力やカリスマで実現に至らしめた「実業家」がいましたが、その中心がいわゆる「甲州財閥」でした。

明治の鉄道黎明期 切っても切れない「甲州財閥」の存在

東京の交通黎明期に中心的な役割を果たしたのが「甲州財閥」です。ただし財閥といっても三井や三菱、住友のような資本的に結合したものとは異なり、甲州つまり現在の山梨県出身の事業家、投資家の同郷意識を元にしたゆるやかな繋がりで、時に協力、時に対立しながら明治中期から「乗り物」と「明かり」を中心に様々な事業を起こしていきました。

代表的な人物としては、東武鉄道を始め様々な鉄道会社に関係した根津嘉一郎(初代)や、東京初の民営バス事業者である東京乗合自動車を設立した堀内良平、都電の前身のひとつである東京市街鉄道の設立に関わった小野金六などがおり、また日本初の地下鉄を開業した「地下鉄の父」こと早川徳次や京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄もその系譜に数えられます。

その中心となった2名が、若尾逸平と雨宮敬次郎でした。

甲州財閥の「総帥」とされる若尾は1820(文政3)年、甲斐国巨摩郡在家塚村(現在の南アルプス市)に生まれました。彼はたばこや綿花などを担いで江戸まで行商し、帰りは江戸で仕入れた団扇などを持ち帰るなど、文字通り身体を張って商才を磨きました。

幕末には生糸業、明治初期は後の第十国立銀行(現在の山梨中央銀行の前身のひとつ)の経営で莫大な富を得た若尾は、1892(明治25)年に東京馬車鉄道、1895(明治28)年に東京電燈を買収します。

これは「『乗り物』と『明かり』は世の中がどう変わっても必要性はなくならない」との考えによるものですが、自らの足で甲斐と江戸を往復した若尾なりの信念だったのでしょう。これは若尾が根津に「投資の基本」を語った言葉として伝わっており、甲州財閥の新世代の事業家に大きな影響を与えました。

若尾より一世代若い雨宮は、1846(弘化3)年に甲斐国山梨郡牛奥村(現在の甲州市)に生まれました。14歳の時、父に「これを元手に自分の考えで商売をしてみろ」として1両を渡されると、付近の村々から鶏卵を買い集め、行商して売りさばきます。続いて繭と生糸も取り扱い、若くして商才を発揮しました。

日本での鉄道普及に「ビジネス面」で尽力

雨宮は幕末に江戸、明治初期に横浜へ進出し生糸や繭などの投機に乗り出しますが、時に大儲け、時に大損失するなど浮沈の激しい日々が続きました。そんな中、横浜で外国人から聞く西洋文明に興味をもつと、1876(明治9)年から翌年にかけて実際に欧米視察へ出かけます。雨宮はここで近代国家における「交通」の重要性を改めて認識したといいます。

帰国後、製粉工場(のちの日本製粉)を立ち上げて成功すると、1884(明治17)年頃から軸足を事業家に移していきます。1888(明治21)年、郷里・甲斐と武蔵を結ぶ甲武鉄道(現在の中央線)の設立において内紛が生じ、株価が暴落すると株を買い占め、取締役にも就任して経営に参加。続いて1891(明治24)年に甲武鉄道の支線となる川越鉄道(現在の西武線国分寺~本川越間)を設立し、取締役に就任しました。

ちなみに株価が暴落した企業を買い占め、事業再建に乗り出して利益を得る投資手法は、根津にも引き継がれています。雨宮から「相場で一時の利を追うのでなく、事業を経営し、その利益を享受せよ」と教えられた根津は「ボロ株」と呼ばれていた東武鉄道を買収し、再建、成長させています。甲州財閥の最高傑作とも言える根津は、若尾と雨宮、偉大な二人の先人の教えを忠実に守っていたのです。

1890年代に入り、40代になっていた雨宮は鉄道への投資をさらに加速します。いち早く電気鉄道に目を付けた雨宮は、手始めに東京市内の路面電車を出願。様々な対立に加え、国の対応が定まらなかったことで会社設立は1901(明治34)年、開業は1903(明治36)年までずれ込みます。しかしその間を利用して、北海道炭礦鉄道(現在のJR北海道の一部路線)への出資、大師電気軌道(現在の京急電鉄)や豆相人車鉄道(小田原~熱海の人力列車)の設立に関与しています。

「国鉄と私鉄」の構図が生まれるきっかけにも

近代国家の礎としての鉄道を重視した雨宮は「鉄道国有化」論者でしたが、いっぽうで地方開発には「民営事業者が地域の実情に応じた鉄道運営を行うべき」との考えでした。鉄道国有化以降は地方電気鉄道の経営に注力し、1908(明治41)年に「大日本軌道」を設立しました。

同社は雨宮が出資していた未開業含む8社を合併する形で設立され、それぞれ福島、小田原、静岡、浜松、伊勢、広島、山口、熊本の各支社として位置づけられました。大日本軌道が開業させた路線のうち、現在の遠州鉄道(浜松支社)、静岡鉄道静岡清水線(静岡支社)などは現在も営業しています。

それから3年後の1911(明治44)年、雨宮は64歳でこの世を去ります。大日本軌道はその後も存続しますが、大正中期までに各路線が独立する形で解体されました。

一方、雨宮より26歳年上の若尾は、雨宮の死から3年後の1913(大正2)年に93歳で亡くなりました。二大巨頭が去った甲州財閥は昭和期に入ると緩やかに影響力を低下させていきます。

これは世界恐慌で甲州の主力産業である製糸業が打撃を受けたことに加え、交通事業と電力事業が恐慌以降の経営合理化、統制の強化により国家や大資本に吸収されたことが影響していると思われますが、それでも甲州の人々が近代東京の基礎となった「乗り物」と「明かり」を作り上げたという功績は揺らぎません。

中央本線を走る電車(画像:写真AC)。