「ミステリーの女王」と呼ばれるアガサ・クリスティの作品は、これまで何度も映画化されてきた。シェイクスピアの作品が時代を超えても色褪せないように、クリスティの世界も次世代に受け継がれ、愛され続けている。殺人事件の犯人を探すミステリーとしての王道の魅力はもちろんだが、クリスティの名作は、舞台の場所を含めた世界観、思わず感情移入してしまう登場人物たちの描き方、エルキュール・ポアロミス・マープルといった愛さずにはいられない探偵キャラクター像…と、惹かれる要素がぎっしり。現在、そのクリスティの世界に夢中になっているのが名優ケネス・ブラナーだ。自ら監督を務め、ポアロ役を演じる「名探偵ポアロ」シリーズの3作目『名探偵ポアロベネチアの亡霊』が、クリスティの生誕133周年を迎えた本日9月15日に公開された。

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■“得体の知れない”なにかが引き起こす事件…スリラーの色合いが濃厚に

タイトルにあるように、今回の舞台はイタリアベネチア。運河で有名な観光都市だ。ケネス・ブラナーによるクリスティ作品の1作目『オリエント急行殺人事件(17)は、トルコイスタンブールからフランスのカレーへ向かう豪華寝台列車、そして2作目『ナイル殺人事件』(20)はエジプトの各地と、旅行気分をかき立てる設定、および背景だった。その流れで今回はベネチアなのだが、実は本作の原作となった「ハロウィーン・パーティ」は、ロンドン近郊の小さな町が舞台。それをブラナー監督は、あえてベネチアに変更。旅行映画としても楽しめるクリスティ作品の特徴を加味したところが、実に巧妙だ。

一方でこの『名探偵ポアロベネチアの亡霊』が、前2作と大きく違う点がある。それは“得体の知れない”なにかが引き起こす恐怖だ。ハロウィーンといえば、もともとは子どもたちが魔女やお化けの仮装をして近所の家を訪ねるお祭り。本作では、そんなハロウィーンの夜、ベネチアの屋敷に子どもたちを集めたパーティからドラマが始まる。しかもその屋敷は、かつて孤児院だった場所で、謎の死亡事件も起こっている。「亡霊が出る」という噂もささやかれ、耳をすませば、どこからともなく子どもの歌声が聴こえてきたりも…。さらにパーティと共に行われるのが、降霊会。レイノルズという謎めいた霊媒師が現れ、霊を呼び出すことに…と、とにかく前半から不穏な空気が充満していく。

冒頭のシーンからして不気味だ。ある動物が別の動物を襲う、ちょっとショッキングな描写が、その後のドラマを象徴しているかのようだ。そしてストーリーが展開されるのは、基本的に夜。このあたりはエジプトの陽光がまばゆかった『ナイル殺人事件』とは、かなり印象が異なる。しかも事件が発生した夜のベネチアには嵐が近づいていた。屋敷はベネチアの運河沿いに建っていることから、波が激しく打ち付け、室内が闇に包まれるシーンも多く、ミステリーというよりもスリラーの色合いが濃厚。ケネス・ブラナー監督も要所でドキリとさせる演出を仕掛けてくるので、観ているこちらは常に緊張の糸が途切れない。それこそが『名探偵ポアロベネチアの亡霊』の持ち味だ。

■犯人は人間か?亡霊か?疑惑だらけの“犯人候補”たちに翻弄される…

友人のアリアドニ・オリヴァ(彼女もアガサ・クリスティが生んだ名キャラの1人)に誘われ、その屋敷のパーティ、および降霊会に参加したエルキュール・ポアロ。霊媒師のレイノルズの言動に不信感も募らせるポアロだが、名探偵をあざ笑うかのように、その夜、屋敷で殺人事件が発生してしまう。しかもその殺され方は、あまりに衝撃的。いったいどんな犯行の描写なのか、これから映画を観る人には絶対に教えられない。しかもポアロが危うく命の危機にさらされる瞬間もあり、人間の仕業とは思えないレベルの事件が続く。アガサ・クリスティの作品は基本的に殺人事件が理路整然と解決されるが、本作に関しては、この常識を覆すかもしれない…。そんな不安にも苛まれることだろう。

もちろんミステリーとしての魅力は完璧に備わっている。事件のキーパーソンは誰なのか?その候補が何人も存在する点だ。屋敷の当主であるロウィーナ・ドレイクは、最愛の娘、アリシアを亡くしたことで失意の底から抜けだすことができない。あの世の娘の声を聴きたいと、彼女が呼んだのが霊媒師のレイノルズ。さらに第二次世界大戦への従軍がトラウマとなり、アリシアの死にも立ち会った医師のフェリエとその息子。ほかにもレイノルズの助手を務める移民の男女など、ポアロやオリヴァも含めた複雑な人間関係が、絡まった糸がほぐされるように明らかになるプロセスに、ミステリーの醍醐味が感じられるはず。

■大胆なアレンジで生まれ変わったアガサ・クリスティの世界を堪能!

ケネス・ブラナー監督は、俳優にカメラを身に着けてもらい、その映像を使用するなど、大胆な演出にチャレンジ。その効果は満点で、薄気味悪い屋敷をドキドキしながら歩く登場人物の恐怖を、われわれ観客も疑似体験することになる。屋敷に飼われたオウムの視線を感じさせるシーンもあり、事件を見つめる「視点」がキーポイントとなる。期待どおり、予期せぬ犠牲者が続き、驚くべき結末が訪れるのだが、その結末を知って冒頭から観直したくなるのも、アガサ・クリスティ作品ならではだ。

キャストでは、これが3回目となるポアロ役、ケネス・ブラナーの余裕たっぷりの演技に対し、霊媒師レイノルズ役のミシェル・ヨーは登場するだけで場をさらい、アカデミー賞を受賞したばかりの勢いを感じさせる。ブラナー監督の前作『ベルファスト(21)で父と息子を演じたジェイミー・ドーナンとジュード・ヒルは、なんと今回も父子役。神経衰弱状態にある医師の父を見守る息子という関係で、ヒルの天才子役ぶりが印象に残る。そのほかのキャストも個性豊かで、時としてややこしくなりがちなミステリーの人間関係が、すんなり頭に入ってくるのはキャスティングの妙だ。

そしてクリスティのファンで、原作となった「ハロウィーン・パーティ」を読んでいる人は、『名探偵ポアロベネチアの亡霊』におけるケネス・ブラナー監督の大胆なアレンジに驚きと共に、感心するしかないだろう。現代のミステリー映画らしい改変はされつつ、原作の重要なエッセンスである、リンゴや水、庭、そしてなにより、事件を引き起こさずにはいられない人間の本能が、絶妙に新たなストーリーを彩っている。原作未読の人は、本作を観たあと、ぜひ原作の「ハロウィーン・パーティ」を手に取ってほしい。

このように本作が証明するのは、クリスティの作品がまだまだ映画化の“宝庫”であるという事実。小説の発行部数が世界で20億冊以上といわれ、聖書やシェイクスピアに次いで読まれているとされる、アガサ・クリスティ。様々なアレンジで新たな時代に生まれ変わり、未体験のミステリーとなって新たな観客に届く。そんな埋もれた原作のポテンシャルを示すところも、『オリエント急行殺人事件』や『ナイル殺人事件』とひと味違う、『名探偵ポアロベネチアの亡霊』の魅力かもしれない。

文/斉藤博昭

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