
※本稿は、中田考『どうせ死ぬ この世は遊び 人は皆 1日1講義1ヶ月で心が軽くなる考えかた』(実業之日本社)の一部を再編集したものです。
■生きてもいいし、死んでもいい
最初に人生は遊びであると説明しましたが、真剣に楽しく取り組んでいたって人間はどうせ死にます。だから悩んでいても仕方ありません。
と言ってしまうと、この先もう何も書くことがなくなってしまうのですが、それでは本として成り立たないので続けて書きます。
まず、大多数の人が「生きていかなければいけない」「死んではいけない」と思い込んでいますがこれは間違いです。
人間は最後には死んで終わりです。どう頑張ったって最後には死ぬんですから、「死んではいけない」というのはそもそも間違っています。
自殺しようとしている人を止めて賞賛されるみたいなニュースもよくありますが、あれも間違っています。死にたかったら死ねばいい。
SNSができたせいで、実際には会ったこともない人のキラキラした人生を見せつけられたり、ちょっとした失言で炎上したり、四六時中送りつけられてくるメッセージにうまく即答しなければいけない、との強迫観念に取りつかれたり、「生きにくい」と感じる人も増えているようですが、「だったら死のう」という選択をとってもいいわけです。
「死んじゃダメだ、生きていなきゃいけない」と言う人は、自分がそう思っているので他人もそう考えていると思い込みたいだけです。生きることに価値があると思っている、自分の価値観を守りたいだけです。
それでもこの本を手に取っているあなたはとりあえず今は生きていることになります。ではなぜ生きているかというと、生きたいから生きている、それだけです。
■「死ねば悲しむ人がいる」という言葉は呪いとして残るだけ
それに気持ち的には死にたいと思っていても、心臓にしても肺にしても、生物の臓器というのは持ち主の意思にかかわらず動いています。人間は自分の細胞を自由に動かすことはできませんし、心臓も肺も脳も自分で動かすことはできません。
それでも死にたいと思えば、自由に動かせる手足を使って無理やり自らその生命活動を止めることもできますが、それをしないということは生きていたいからです。
それと同じように相談されたのなら「死にたい」と口では言っていても、実際に生きている以上生きていたい、少なくとも死にたい理由がなくなれば生きていたいのでしょう。
それならばとりあえずは、話を聞いてみて、その人が生きたくなるようなことをしてあげたり、言ってあげられるならそうするのもいいでしょう。
しかし何もできないのに「死んではいけない」とか「死ねば悲しむ人がいる」などと言うのは呪いでしかありません。
本当に悲惨を極める救いのない人生で心の底から死にたいと思っているのに「死んではいけない」と言われて死ぬより苦しい思いをして生き続けて苦しみのうちに死ぬことになっても、言った人間は良いことをしたと自己満足にひたるだけで、何の責任もとりません。
とりあえずその時は気を取り直して生きる気になっても、いずれはその人も死ぬのです。その時「死んではいけない」「死ねば悲しむ人がいる」などという言葉は呪いとして残ります。
死ぬことがいけないことなら、人間は皆、死ぬ時に、自分は悪いことをしている、悪人だと思いながら死ななくてはなりません。
■遊んで生きて、適当に死ぬというのが一番いい
少し話が変わりますが、これを書いている私は今63歳で、同級生のほとんどが生きています。しかし、この3年くらいの間に3人ほど亡くなってしまいました。
1年くらい前にそのうちの一人が本当に急に亡くなってしまったんですが、ウミガメを見ると言って、奄美大島で海に潜っていたときの心臓麻痺が原因でした。
同じ時期に、国際政治学者の中山俊宏先生が脳溢血で逝ってしまった。中山先生は私より少し若くて55歳でした。
「羨ましい」という感情は自分より恵まれていると思う人のことを見て抱くわけですけど、昨日まで元気に活躍していた方でもそうやって急に亡くなってしまうこともあるんです。
そう考えると、逆に自分が生きているってことを幸せだと思えるのではないでしょうか(私はそもそも生きていたいと思わないので、コロッと死ねるのがむしろ羨ましいですが)。
遊んで生きて、適当に死ぬというのが一番いいですね。
「人はどうせみんな死ぬ」という言葉から無理やり人生訓を引き出したりしようとしてはいけません。この世には人間に生きる意味もなければ死ぬ意味もありません。人間には生きる価値もなければ、死ななくてはならない謂われもありません。
生きたければ生きればいいし、死にたければ死ねばいい。しかしどうせ死ぬんですから、死にたいと思って死ぬ方がまだ楽そうです。まぁ、どちらも無意味なことに変わりはありませんが。
例えば日常生活の中での小さな喜びや幸せを見つけようとしたり、死を受け入れることで自分の人生を大切にし、周りの人々との繋がりや愛情をより大切にするようになり、家族や友人、パートナーなど、大切な人たちとの時間を大切にし、互いに助け合い、支え合うことの大切さを実感し、人間関係がより良好になり、あるいは自然との共生を大切にするようになって、人生をより充実したものにしよう、とかです。
そんなことをしても結局死ぬのですから、死が近づけばすべて無駄だったとむなしい思いをしたり、親しくなった人たちと別れなければならないことで未練が残って苦しい思いをしたりするのがおちです。
■すべてのことに意味はない
「人はどうせみんな死ぬ」と思えば困難や挫折に打ち勝つための勇気がわき、どんな困難な状況でも、最終的には死という現実に向き合うことを考えると、その困難が乗り越えられないものではないことに気付き、様々な試練に対して前向きな態度を持つことができるとか言う人がいるかもしれませんが、ただの誤魔化しです。
どんなに困難を乗り越えても、結局死ぬのですから、わざわざ困難に立ち向かって辛い思いなどする必要はありません。
また自分の人生に限りがあることを意識することで、自分が成し遂げたいことや達成したい目標に向かって、より積極的に取り組み、自分自身を向上させれば、人生の中で達成感や充実感を得ることができる、などと言う人もいるかもしれませんが、それも変な話です。
何を成し遂げようと、どんな目標を達成しようと死ねば全部消えてしまいます。何をしようとも、その時だけでも楽しいなら、別にケチをつけようとは思いませんが、どうせ消えてしまうことを何か意味があるかのように嘘をついてけしかけてやらせるのは、詐欺とまでは言わないとしても、余計なお世話でしかありません。
■「映える」死に方を考えてインスタに投稿しよう
「人はどうせみんな死ぬ」から、どんな状況でも、どんな選択でも、人生は自分自身が創り上げるものであり、死を受け入れ、人生を大切に生きることで、自分自身が主役の人生を創り上げ、「人はどうせみんな死ぬ」との事実を力に変えて、自分の人生を最高のものにしよう、などと言う者の言葉に耳を傾けることはありません。
コーランにも以下のように言われています。
人生は自分のものでもなく、自分が創り上げるものでもありません。人は知らない間に生まれ、自分の意志に反して死ぬだけです。人生が自分のものであり、自分で創り上げる、などと考えるなら、自分で死ぬしかありません。
今の流行りなら、思い切り「映える」死に方を考えてインスタに投稿する、といった生き方/死に方が、一番よさそうです。
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イスラーム学者、イブン・ハルドゥーン大学客員教授
1960年生まれ。イブン・ハルドゥーン大学客員教授。83年イスラーム入信。ムスリム名ハサン。東京大学文学部宗教学宗教史学科(イスラーム学専攻)卒業。カイロ大学博士(哲学)。クルアーン釈義免状取得、ハナフィー派法学修学免状取得。在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、同志社大学神学部教授などを歴任。著書に『みんなちがって、みんなダメ 身の程を知る劇薬人生論』(ベストセラーズ)、『宗教地政学から読み解くロシア原論』(イースト・プレス)、『13歳からの世界征服』『70歳からの世界征服』(共に百万年書房)などがある。
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