酒場

私が「酒場」に足を踏み入れた最も古い記憶は、おそらく4歳の頃、神戸市立神戸幼稚園なでしこ組の幼稚園児だった。


■バーテンダーをしていた父

三宮の、生田神社の脇を南北に抜ける歓楽街、東門街(子供の頃、私たちは「東門筋」と呼んでいた)にあった「チェリー」という、ジャズバンドが生演奏をする大箱の酒場で、父はバーテンダーをしていた。

9人兄弟の下から2番目で、中学校2年の時に島根県の匹見町から神戸へ家出をしてきた。米軍キャンプに出入りして米兵たちに遊んでもらいながら英語を学んだので、接客には役に立っていたようだけれども、話からするとどう考えても十代半ばには酒場で働いていたようだ。

開店前の準備をしている父の傍らで、私は店の真ん中に置かれているドラムスのセットをいじったり、ボックス席でブリテンリミテッド製のリアルな動物のおもちゃで遊んだりしていた。開店前のキャバレーが、私の遊び場だったのだ。何かの事情で早めに出勤したホステスに「ぼく、それよう出来てるなあ、舶来か?」などと聞かれて、「ちゃうわ!」などと答えていた。イギリス製だが、私は「ハクライ」という言葉の意味を知らなかった。


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■子供の目から見た酒場の風景

父は、アルミの手鍋で沸かした湯に、どんどん砂糖を投入していた。それが混ざって透明になると、また砂糖を注ぎ込む。今では洋酒店で当たり前のように購入できる、カクテル用のガムシロップを作っていたのだった。

その甘い甘い液体を味見させてもらったり、果物をもらったり、その店の経営者で、額に脂肪の瘤のある優しいおじさんに、出前のマカロニグラタンをご馳走してもらったり、幼稚園児には贅沢な歓楽の空間だった。今でも焦げたチーズの香りが好きなのは、この原風景があるからなのだろうと思っている。


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■父の独立とその後

私が中学に入る頃には、父は独立して、生田神社を挟んで反対側、ライブハウスの老舗「チキンジョージ」や生田警察署があるあたりの雑居ビルの3階に小さな店を持った。海外からやってきたビジネスマンが多く、米軍キャンプで習った英語を駆使していた。大学に入ってからは、店内で何度か飲ませてもらったことがあるが、その頃にはかつての顧客は本国に戻ってしまったのだろう、経営は傾いていた。

業者に薦められるままに導入したカラオケも戦力にならず、それどころか客が歌い始めると「下手くそ、歌うな!」などと毒づいていた。三宮で最終電車に乗り遅れて、何度も取り立て運転免許西宮北口から迎えに行ったものだ。


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■暴力団員風の男たちとトラブル

ある時、それほど遅い時間でもないのに迎えに来いというので行ってみると、黄色いTシャツが血で真っ赤に染まっている。額の真ん中がざっくりと割れて、手拭いで押さえて入るけれども、まだ血が流れ出しているようだった。何があったのかを聞けば、暴力団員風の男が3人で来て、暇だったので入れてしまった、数杯ずつ飲んで、「つけとけ」と言って出て行こうとする。

「初めてのお客さんなので、つけはきかない」と止めたら、店の中に置いてあった父のゴルフのパターで脳天を割られたのだという。すぐそばに生田警察があるけれど、大量に出血しているのでとにかく病院へ連れて行かないといけない。嫌がるのを無理やり説得して、新神戸駅近くの大きめの病院に入院させた。すぐさま病室には「絶対安静」「面会謝絶」と掲げられた。

翌日、西宮の自宅に病院から電話があった。

「お父さん、お戻りですか? 病院にいらっしゃらないのです」

急いで三宮へ向かって父の店の前に立つと、中で掃除機をかける音がしていた。

(続く)


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■著者プロフィール

松尾貴史

Sirabeeでは、俳優、エッセイストの松尾貴史さんの連載コラム【松尾貴史「酒場のよもやま話 酔眼自在」】を公開しています。ワインなどのお酒に詳しい松尾さんが「酒場のあれこれ」について独自の視点で触れていく連載です。今回は、バーテンダーをしていた松尾さんの父に関するエピソードを掲載しました。

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(文/松尾貴史

「東門街」の酒場から見えた風景 バーテンダーをしていた父との思い出