
非常識で、冷笑的な人々が増えたこの国で、〈大人の頭数を増やす〉ために何ができるのか? そんな大テーマに挑んだ新著『街場の成熟論』が話題の内田樹氏が語る、「人を見る目のやしない方」。(全2回の1回目/続きを読む)
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なぜいま「成熟」について考えるのか?――今回「成熟」をテーマにした背景には何があるのでしょうか。
内田 いま日本社会では、物事をAll or Nothing、白か黒かの二項対立で雑にカテゴライズして、「だからこれはダメなんだ、間違っている」と切り捨てる単純思考が蔓延しています。そういう議論の立て方で、自説は100%正しくて、相手の議論は100%間違っているというタイプの言葉づかいをする人が非常に多くなっていますが、実際には、そんなことはないんです。「盗人にも三分の理」で、どんな偏頗な主張でも、そこには一抹の理がある。正しさにもグラデーションがあり、間違いにもグラデーションがある。
だいたいは正しいこと言ってるけれど、若干の事実誤認があるということもあるし、ある状況にはよくあてはまるけれども、別の状況にはうまく適用できないということもある。半分正しいけれど、あとの半分は間違っている「危険な半真理」というのもある。いろいろあるんです。
格差の指標としてジニ係数というのがありますね。この世の富をたった一人の人が占有している時が1で、完全な平等が達成されているときが0。その喩えを使うなら、ある一人の人の言っていることが100%正しくて、後は全員間違っているというのが「真理のジニ係数1」。全員がそれぞれてんでに主観的な私見を語っていて、誰一人客観的現実を適切に把握していないという状況を「真理のジニ係数0」とした場合、たぶん適切なのは係数0.7くらいだと思います。それを超えると「知の独裁制」に向かい、0.5を切ると「知のアナーキー」に陥るリスクがある。だから、0.5から0.7の間を行ったり来たりするような社会が、「割と住みやすい社会」であり、「割と知的に生産的な社会」ではないかと思っています。
みんな「知のグレーゾーン」の中にいるということを認めた上で、それぞれの私見における「真理のジニ係数」の相対的な多寡を精密に検証しようとするというのが「知的な態度」だと思います。自分は100%の真理を語っていて、自分以外の人間は真理を知らないでいるという態度は、仮に言っていることがほんとうに正しくても「知的な態度」とは言えない。
少し前までは、この「グレーのスペクトラム」について、色相や明度の違いを見極めることができることが大人の条件でした。僕の世代の子供は、大人たちからことあるごとに「人を見る目を持て」と言われて育てられたものでした。
「学歴や社会的地位なんて、まったく信用できないぞ。その人物をよく見ろ」――「人を見る目を持て」とは今やすっかり死語になりましたね。
内田 それは、やはり戦争を経験した世代にとっての切実な実感だったのだと思います。うちの父は、満州事変の時に中国に渡って、終戦後に日本に帰ってきたので、大日本帝国の興隆から没落まで砂かぶりで見てきた人間です。だから、人間が状況に応じてどれくらい非人間的なふるまいをし、逆に人間的なふるまいをするか、それを見てきたんだと思います。
危機的な状況になると、パニックになって使い物にならない人がいる、責任を放り出して自分ひとりだけで逃げ出す人がいる、われ一人のためだけに行動して、まわりを蹴落とす人がいる。権力を持った途端に、いきなり変貌して部下を罵る人がいる……巨大な利権に群がって栄耀栄華の夢を見てきた人たちがいざ敗戦になったときにどう振る舞ったかを父はリアルに知っていたわけです。
ですから、父は、僕の幼少期から折にふれて、「人の学歴や社会的地位なんて、まったく信用できないぞ。とにかくその人物をよく見ろ」と教えていました。それは別に敗戦のようなドラスティックな状況じゃなくても、平時でもわかります。ちょっとしたトラブルがあった時に、「オレは知らないよ」と逃げ出す人間がいれば、「じゃ、僕が片づけておきます」と集団全体のために進んで「雪かき仕事」をする人間がいる。非常時において、仲間を見捨ててひとり逃げる人間か、踏みとどまってしんがりを務める人間か、それは日常のちょっとした挙措からだってわかる。
でも、「こいつは非常時になったら、仲間を見捨てて逃げ出すような人間だな」と思っていても、平時ではふつうの社会人として遇さなければならない。まだ別に何も悪いことをしてないわけですからね。だから、人間の本性を見定めた上で、その人間にしかるべき仕事を委ねる。非常時には無用の人間だけれど、平時には役に立つということがあるし、逆に非常時にはとても頼りになりそうな人間だけれど、平時はぼんやりしていて使い物にならない……ということもある。
だから、一人一人を多様な状況に想像的に置いてみて、それぞれの場面でどういう働きをするか、よく見切って、その上で、その人が一番輝くところで力を発揮してもらい、その欠点や弱さができるだけ表に出ないようにする。
それは「正しい人間/間違っている人間」「使える人間/使えない人間」をデジタルに切り分けることとは違います。一人一人について、どういう場面で能力を発揮し、どういう場面では使えなくなるか、それを見た上で、適材適所に配する。それが「人を見る」ということだと思います。
結果的に集団全体の知的活動を劣化させている人々――SNS時代、単純に人や物事を全否定する傾向が強まったように感じます。
内田 一つの論件について、一つの事実誤認や不用意な発言を取り上げて、部分的な非を以て、その人の全業績や人格を否定したりするのは大変危険なことです。でも、SNSではそれがふつうに行われている。
例えば辺野古基地問題の「座り込み」をめぐる嘲笑的な投稿がありましたね。長い歴史的な文脈の中でその価値を評価すべき運動を、ある一瞬を切り取って全否定してみせる。これはことの当否よりも、「こういうやり方」が効果的であるということを周知させたという点で非常に罪深い行為だったと思います。
たしかに、部分を取り上げて、全体を否定するというのは、批判の費用対効果はたいへんによい。わずかな情報発信で、数十年にわたる運動の全体の価値を否定することができるんですから。
でも、この費用対効果のよい「切り捨て」は、複雑な現実をただ単純な「お話」に落とし込んでいるだけで、少しも問題を解決していない。たしかに複雑な現実は単純な「お話」に切り詰められて、端の人間にとってはわかりやすくなったけれども、現実は相変わらず複雑なままです。複雑な現実と単純な「お話」の間の乖離はただ拡大するだけです。むしろ話を単純化したせいで、どこに問題があるのかも、どのような問題解決の手立てがあるのかも、真剣な思考の対象にならなくなる。
つまり、こういう人たちは話を簡単にすることで、よけい問題を複雑にしてしまっているし、問題に取り組む能力も損なっているわけですから、結果的には集団全体の知的活動を劣化させていることになる。
内田樹が考える「知性的な人」――確かに変に話を単純化すると、よけいに分からなくイシューも多いですね。
内田 どんな論件についても、「こうやれば相手を黙らせられる」という小手先の技術だけに長けた人たちが増えています。でも、そんな小技をいくら駆使してみても、「黙らせられた」方は納得したわけでも、説得されたわけでもありません。対話の回路が断ち切られて、問題についての合意形成がますます困難になっただけで、問題解決には1ミリの役にも立たない。
「それは個人の感想でしょ?」というのは、さきほどの「真理のジニ係数」から言うと、数値を限りなく0に近づけ、「知のアナーキー」に向かう道筋です。全員が「個人の感想」を語っているだけで、この世には万人が承認するような真理は存在しないという知的な虚無主義です。僕はこれに反対しているのです。「個人の感想」であっても、かなり適切に現実を観察して、適切に分析している知見もあれば、まったく現実と無関係な「脳内妄想」もある。それらを「個人の感想」としてひとしなみに扱うことに僕は反対しているのです。「個人の感想」にも、ピンからキリまでがある。その差を適切に見届けることが知性の働きだと思うからです。
僕の個人的な定義ですが、「知性的な人」とは「その人がいるお陰で、集団全体の知的パフォーマンスが向上するような人」のことです。その人がいるお陰で、メンバーたちの知性が活性化して、次々と「新しいアイディア」が提出され、あちこちで対話が始まり、集団全体の合意形成に向かってゆくのであれば、その人は「知性的な人」と呼ぶことができる。
逆に、いくら個人として知識があっても、頭が切れても、弁が立っても、その人がいるせいで集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまう場合、僕はそういう人を「反知性的な人」だとみなすことにしています。そういう人っているでしょう。言うことだけ聴いていると賢そうに聞こえるけれど、その人が口を開くと、みんな下を向いて押し黙ってしまうというようなタイプの人って。僕はそういう人を「知的」だとは思わない。
〈批判するのでもなく、愚弄するのでもなく…内田樹がLGBT問題を“ゆるい合意”から始めるべきと考える“納得の理由”〉へ続く

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