みなさん知っての通り、『君たちはどう生きるか』は宮崎駿が監督したアニメ映画で、タイトルは吉野源三郎の小説から取られている。

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2023年夏から上映された本作は、宮崎駿らしい幻想的な物語と端麗な映像で話題になった。

一方、『シン・仮面ライダー』は2023年春に上映された映画で、監督は『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』で有名な庵野秀明である。

これも有名な話だが、宮崎駿庵野秀明は師弟関係として知られている。しかし、作品の方向性はまるで違っており、今回放映された映画も片方はファンタジー、片方はSF特撮と正反対の作品だ。

しかし、物語を読み解くと、この両作品には共通のテーマが宿っていたことに気づかされる



説明しない『君たちはどう生きるか』と『シン・仮面ライダー
まず、ストーリーを解説しよう。

君たちはどう生きるか』は、戦時中を舞台にしており、主人公・牧眞人は小学生で、母親を空襲による火事で亡くしている。その後、母の実妹であるナツコが父親の後妻として現れた。

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そして、母の実家に疎開することになるが、新しい母親にも学校にも馴染むことができなかった。

やがて、ナツコが行方不明となり、眞人が彼女を探していると、家の裏に寂びれた塔があることに気づき、その中へ入ってしまう。塔の内部には、不思議な世界が広がっており、眞人はナツコを探すべく、その世界を冒険することになる。

一方の『シン・仮面ライダー』は、石ノ森章太郎原作の特撮テレビ番組『仮面ライダー』を基にした作品である。

主人公の本郷猛は秘密結社SHOCKER(ショッカー)の手よって、バッタ型のオーグメント(改造人間)にされてしまう。

その後、組織にいた女性・緑川ルリ子の手引きによって脱走し、SHOCKERの刺客と戦っていくこととなる。

並べてみても、まったくと言っていいくらい共通項が見当たらない作品に思われるが、両作品には説明がまったくないまま、これらの物語が展開されていく。

例えば『君たちはどう生きるか』では、主人公が何者で、いつの時代に生きているのか、何も説明がない。

これはジブリアニメに見られる特徴で、説明もなく物語が始まることが多い。今作に至っては、事前情報が一切封じられたまま上映前のプロモーションが行われており、その印象はさらに強いものだった。

シン・仮面ライダー』も同じで、石ノ森章太郎の原作では、ショッカーに拉致されて、改造手術を受ける場面からはじまるが、今作では(すでに本郷が改造手術を受けたあとに)ルリ子と共にショッカーのアジトから脱出する場面から開始する。



冒頭だけでは主人公が何者で、なぜ追われているのかわからないようになっている。

一応、SHOCKERがいかなる組織なのかをルリ子が解説する場面があるが、それでも設定全般をきちんと説明している箇所はあまりに少ない。

双方とも、作品の説明箇所を省き、物語をどんどん進行させている形式をとっているということがわかる。

コミュニケーション力にかなり難のある主人公
君たちはどう生きるか』の主人公である牧眞人は、礼儀正しく見た目は育ちの良いお坊ちゃんのようだが、作品を観ていくと、かなり不愛想で社交性が低いことが明らかとなる。

特に義理の母であるナツコに対して、少々(かなり?)風当たりがきつい。表面的には礼儀正しく振る舞っているが、死んだ実母のことが忘れられないのか、つっけんどんな態度である。

周囲にもその点を見抜かれており、ナツコが塔に行ってしまったのも、眞人の態度が原因であった。

一方、『シン・仮面ライダー』の主人公である本郷も、頭脳明晰であるけれども「コミュ障」とルリ子から言われており、話し方もたどたどしい。



なぜ、この両者は、そろってコミュ障となってしまったのか?

双方の物語の出発点は、身近な人とどう関わっていくかという点にある。

眞人の場合は、義母となったナツコやばあやたち、そして、自身を塔の世界へ案内するアオサギである。本郷猛の場合は、緑川ルリ子や政府の男たちだ。

興味深いことに、アオサギと政府の男たちは、完全なる味方であったり、必ずしも善良というわけでもなく、アオサギに至ってはかなりずる賢いキャラクターとして描かれている。

双方とも、身近な人物でありながら悪意も介在していることがわかる。

こうした身近な悪意に対して、過敏に反応して心を閉ざしてしまう気持ちはわからなくもない。

眞人のは自身の母を亡くし、本郷は父親を通り魔に殺されているという事情もある。そのため、眞人は新しい母を受け入れられず、本郷は悪意に対して過敏で、社会と関われないでいる。

だから、眞人の出発点は、義母とどのように接するかであり、本郷の出発点は、自分を外の世界へと誘ったルリ子との対話となる。

アオサギバッタ──忌まわしい負の象徴

シン・仮面ライダー』を視聴した人は、クモオーグが「バッタは古来から災いの象徴」と言っていた場面があったことに気づいたはず。

バッタは、単体では大したことはないが、群棲となると、作物を食い荒らすなどの甚大な被害を及ぼす。そのうえ、共食いまで犯す凶暴性も持ち合わせている。

そのため、バッタイナゴ)は、聖書ではアバドンメソポタミア神話ではパズズなど、災厄の魔神のモデルとなっている。

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アバドン(上)と戦うクリスチャン/ジョン・バニヤン作(『天路歴程』)より



実際、『シン・仮面ライダー』終盤に出てきた、大量発生型相変異バッタオーグ(原作のショッカーライダーに該当する)は、仮面ライダーと同じタイプのオーグメントでありながら、無機質で戦闘的な性格をしている。

一方の『君たちはどう生きるか』の重要キャラクターになっているアオサギもまた、実は良い印象のある生き物というわけではない。

枕草子などには、アオサギ(青鷺)は見た目も怖く目つきも悪いなど、悪感情を込めて表現されている箇所がある。

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実際、人間にとってアオサギの鳴き声はあまり聞き心地のよいものとは言えず、不快感を感じることが多い。そういった理由から悪し様に言われるようになったと思われる。神の使いとされている白鷺とは大変な差である。

また、妖怪絵師で有名な鳥山石燕の絵画には、「青鷺火」という怪異現象について記している。

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「青鷺火」鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より



これは、アオサギが青白く光って見える現象であるが、アオサギの気味悪さから、このような伝承が生まれたと考える向きがある。

その一方で、エジプトだとアオサギはベンヌ鳥とも呼ばれ、蘇りの力を持っており、後にギリシャ等の伝説に伝わる不死鳥、フェニックスの基にもなったという説もある。

つまりアオサギは、不快で気味の悪い存在である一方、神聖な存在でもある。魔神のモデルにもなっているバッタ言わずもがなだ。




戦いの最中で芽生える友情

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眞人の邪魔をするのは、インコの集団で、本郷の邪魔をするのはSHOCKER

のオーグメント(怪人)たちである。

眞人はナツコを連れて帰るため、本郷はチョウオーグの野望を阻止するために、彼らと戦わなくてはならない。

一方、戦いの中でも友情が芽生えることがある。眞人はアオサギと、本郷は仮面ライダー2号となる一文字隼人と友情を育むことになる。

当初のアオサギは、眞人とはそりが合わず、いがみ合ってばかりいた。アオサギがずる賢い性格をしていたからだ。しかし、ナツコを取り返すために、行動を共にしているうちに和解し、戦友のような関係性となる。

一文字はもともと本郷と同じ、ショッカーに改造されたバッタオーグであり、本郷とも一戦を交えていた。しかし、ルリ子の尽力で一文字はショッカーの洗脳が解け、本郷の仲間──仮面ライダー2号となる。

前述したように、アオサギバッタも負の象徴と目される生き物だ。だが、アオサギにもバッタにも神聖を宿す一面があり、バッタは群れなければ、大人しい存在である。

見方や接し方を変えるだけで、嫌なものや敵も、善良な存在になることがある。

タブーを破っていく主人公

眞人は、塔の世界でナツコを探す中で、彼女が産屋にいることを突き止める。

産屋とは、赤ん坊を産むために設けられる部屋のことだが、男性が産屋に入るのは、日本では古来から禁忌となっている。代表例では、『日本書紀』に伝わる豊玉姫の逸話などが例にあげられる。

産屋に入った眞人は、つわりで苦しむナツコから辛辣な言葉を投げかけられてしまう。

これは普段、眞人から冷遇されているナツコの仕返しのようにも思え、他人に対し、辛辣な態度をとる者は、ここぞという時に手痛い目に遭うことを伝えられたような気がした。

本郷も、本来は同胞であるはずのオーグメントを殺すというタブーを犯している。同胞や兄弟、生みの親を殺すというのは、石ノ森作品に共通する描写であり、『サイボーグ009』や『キカイダー』『変身忍者嵐』などにも見られる。

なぜタブーを犯すのか。主人公たちは、禁忌を冒してでも、目的を叶えなければいけないからだ。そして、それこそが両作品の主人公に課せられた試練となっている。

眞人はどれほど酷い言葉を投げかけられても、ナツコを連れて帰らなければならないし、本郷は、自身の同胞を殺してでも、SHOCKERと戦う必要がある。

禁忌を犯すということは、相手からは無礼で凶悪な人物として見られることでもあり、大勢の人を敵に回さなければならないことを意味している。

魂の転生、生命の輪廻

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なぜ、産屋に入ってはならないのか?

それは産屋が新たな生命を生み出す場であるため、何かあったら、母親や子どもが死んでしまう可能性があるからだ。

言ってみれば、産屋とは、生と死の双方が存在している場所でもある。それは、塔の世界でも同じである。

眞人は塔の世界に入ると、猟師のキリコから獲った魚をさばき方を学び、ワラワラという不思議な生き物を通じて、生命の営みを学んでいる。

このワラワラというのは、人の魂のもととなっている生き物だが、塔の世界では、ペリカンなどがこのワラワラを捕食しようとやってくるのだ。

つまり、ワラワラとは生と死、そして魂の転生を暗示しているようにも思える。

一方、『シン・仮面ライダー』では、プラーナと呼ばれる概念が出てくる。プラーナとは元々インド哲学で出てくる言葉であり、生命そのもの、もしくは、風の元素という意味である。

つまり、ワラワラ、プラーナなど、双方の作品には生命の根源ともいうべき存在が登場するのだ。

また、『君たちはどう生きるか』では、鳥が多く登場するが、古来から、鳥というのは、人の魂の生まれ変わりと言れており、古事記では、ヤマトタケルは死後、白鳥に生まれ変わったと言われている(一説によるとヤマトタケルは、白鳥ではなく、アオサギの仲間である白鷺に生まれ変わったとも言われている)。

一方、仮面ライダーバッタ改造人間であるが、虫は古来から死者の魂とも言われていた。

浄土信仰を暗示させるようなハビタット世界という概念のように『シン・仮面ライダー』には、どこか仏教的な要素が取り入れられている(終盤でチョウオーグの仮面が割れる様は、宝誌和尚立像によく似ている)。

そして、仏教では輪廻転生の概念があるように、『シン・仮面ライダー』は魂の転生を暗示させる要素がある。

また、本郷の最後の敵であるチョウオーグのモチーフは蝶であるが、仏教だと、蝶は人の魂を浄土に運ぶ存在と言われている。

双方の作品は魂の転生を暗示する。

また、『シン・仮面ライダー』では、プラーナは新しい技術として期待される半面、無暗に使えば、プラーナの奪い合いになることを示唆している。

つまり、新しい技術で進化した人類を作り上げても、戦いや殺し合いを避けることができないということを伝えているようである。

君たちはどう生きるか』でも、ワラワラがペリカンに食べられてしまうように、生と死のやりとりというのは、命の奪い合いであり、そして殺し合いであるということを意味している。

選択──作られた世界か? ありのままの世界か?

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眞人は最後に、塔の世界をつくった大叔父と対面する。大叔父は、塔の中に自分の理想郷を築こうとしていた。

シン・仮面ライダー』のラスボスである、チョウオーグも、ハビタット世界を作り上げて、人類を争いや殺し合いの無い理想の世界に導こうとしていた。

大叔父は、眞人に後継者となってもらおうとしていたが、眞人はそれを拒み、眞人は現実の世界を選んだ。

一方、本郷もハビタット世界が自我の保てない世界と知ると、ルリ子と共に、チョウオーグの計画を阻止しようとした。

前述したように、現実の世界は戦いや殺し合いを無くすことはできない。

それでも、双方とも、理想郷ではなく、悪意や穢れに満ちた現実世界を選んだのである。

なぜ、理想郷ではなく、悪意に満ちた現実を選んだのか? それは、主人公たちにも悪意や穢れがあったからだ。

眞人は、学校に入学した際、いじめを受けてしまい、その際、眞人はわざと石をぶつけて、大けがを負ってしまう。

眞人は終盤で、この自分の行為を「悪意」と語っている。事態を大事にすることで、ナツコや父親への“当てつけ”のような行為を行った(そもそもいじめられた原因は父親から車で送ってもらったことが原因)。

本郷も、普段は大人しいのに、仮面ライダーとなると、凶暴性が増し、人殺しも平気で行うようになってしまう。

つまり、悪意や穢れは、一人一人の人間がばらまいている。主人公も含めて、全員に責任があり、そこを無視して悪意のない理想郷を創るというのは、欺瞞ということなのだろう(少なくとも両作品はそのような立場を取っているように思う)。



改めて、宮崎駿庵野秀明について
君たちはどう生きるか』と『シン・仮面ライダー』双方に込められている共通のメッセージ──それは理想郷の中で生きるのではなく、現実の世界を生きなさい、ということだろう。

主人公を含めて、人の中には悪意や穢れが存在しており、そうした自身の愚かさを自覚もせず、理想を築くことはできない。これは、宮崎駿が、自身の作品に一貫して込めているメッセージである。

例えば漫画版の『風の谷のナウシカ』では、終盤に、自分たちが汚れた世界に生きるためにつくられた人造人間で、地表が浄化された後、新しい人類が繫栄することがわかる。その新人類は、清らかで汚れのない種族として生まれ変わるという。

そして用済みになったナウシカたちは、災厄とともに滅ぼされることになる。旧人類たちの身勝手さに怒ったナウシカは、巨神兵のオーマに命じ、新人類(厳密にいえば新人類の元)を滅ぼしてしまう。

ナウシカの行為は残忍に思える。これは、人工的な手段で、理想の人類をつくろうとする人間の欺瞞と傲慢さに対して怒りを覚えたのだ。

新人類のやろうとしたことは、汚れた世界で必死で生きようとする人間の意思をないがしろにする行為であり、いかに清らかな存在に生まれ変わるといっても、結局やっていることは、旧人類達が歴史上で犯した愚行と同じことを繰り返しているだけだった。

天空の城ラピュタ』も同じで、ヒロインのシータは、空飛ぶ城にふんぞり返り、強大な科学で人を支配しようとするムスカの傲慢さを批判し、「人は地に足をつけて生きなければならない」と説いている。

現実も見ないで理想を築くな──宮崎駿の作品から得られるメッセージだ。

それは『シン・仮面ライダー』にも引き継がれている。『シン・仮面ライダー』の本郷も、人の意思を無くしてでも幸福を得るより、辛くても現実の世界で生きることを選ぶ。

両作品の最大の差異について
両作品の最大の違いは、主人公の結末、生死だ。

君たちはどう生きるか』の牧眞人は、ナツコとともに現実に戻るが、『シン・仮面ライダー』の本郷は、自分の意思を一文字に託して、死んでしまう。

ここに宮崎駿庵野秀明との違いがある。宮崎は生を指向するのに対し、庵野は死に向かっていく

これは庵野の思想が、スクラップアンドビルドであるからと思われる。

庵野は、過去のドキュメンタリー等で義足だった父親の影響を語っている。物心ついた頃からある父の姿から、物事とはあらかじめ不完全であったり、どこかが壊れていたりするのが当たり前だという考え方をしている。

だから完全に壊れたら、新しい何かに替えてしまう。もしくは、その新しい何かに受け継いでもらおうとする。『新世紀エヴァンゲリオン』がGAINAXの崩壊を理由に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』として再構築されたように。

一見すると、それは『風の谷のナウシカ』の新人類の考え方に似ているようにも思える。しかし、『風の谷のナウシカ』では、自分たちが清らかな新人類になって清浄な世界を築くために、ナウシカをはじめとする他者をないがしろにするという自分本位な考え方をしている。

それに対し、『シン・仮面ライダー』の本郷は、自らは霊的な存在に生まれ変わって、新たな戦士・一文字隼人に託す。

自身の愚かさも悪意も見つめて、他人を受け入れてやれ。これが、双方の作品に共通しているテーマではないのだろうか。








映画『君たちはどう生きるか』の主人公・牧眞人