文=鷹橋 忍 

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家康より19歳年下

 最近の大河ドラマ『どうする家康』では、山田裕貴演じる本多忠勝、杉野遥亮演じる榊原康政、板垣李光人演じる井伊直政など、家康より若い世代の家臣の活躍が目立つ。

 今回はそのなかから、井伊直政を取り上げたい。

 大森南朋演じる酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに、徳川四天王の一人に数えられる直政は、どのような人生を送ったのだろうか。

『井伊家伝記』(井伊家の菩提寺である龍潭寺の第九世・祖山法忍禅師による井伊家歴代当主の記録。『細江町史 資料編4』所収)によれば、井伊直政は、永禄4年(1561)2月酉の日に誕生した。桶狭間の戦いの翌年である。

 天文11年(1542)生まれの家康より、19歳年下となる。

 徳川四天王のなかで最も若い。本多忠勝と榊原康政より13歳、酒井忠次より34歳も年下である。

『井伊家伝記』では幼名を「虎松」としているが、「万千代」とする説もある(ここでは、直政の表記で統一)。

 直政の父親は、遠江国(静岡県)の国衆・井伊直親だ。直親は、井伊氏の当主・井伊直盛の従兄弟にあたり、弘治元年(1555)に直盛の養子に迎えられたという。

 母親は、国衆・奥山氏の娘である。

 奥山氏は奥山城(静岡県浜松市)を本拠とし、井伊氏と同族と伝えられる。

 

名門武家・井伊氏

 井伊氏は、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を苗字の地とする。

 平安中期の寛弘7年(1010)に、井伊谷の井戸からから生まれたと伝わる井伊共保を始祖とする名門武家だ。

 戦国時代は井伊谷を拠点とする国衆として、駿河・遠江・三河の三国を領国とした戦国大名・今川氏に従属した。

2歳で父を失う

 井伊氏は今川氏の命により、幾度も出陣した。

 永禄3年(1560)に起きた「桶狭間の戦い」も、その一つである。

 織田信長の軍勢により、野村萬斎が演じた今川義元が討ち取られたこの戦いで、井伊氏の当主・井伊直盛が、35歳で討死してしまう。

 永禄5年(1562)には直政の父・井伊直親が[忍高3] 、溝端淳平演じる今川氏真から松平家康(のちの徳川家康)との内通を疑われ、誅殺された。直政は2歳(数え)で、父親を失ったのだ。

 直政も害されるはずであったが、井伊氏の親戚である新野親規に養育された。

 その親規も討死してしまい、永禄11年(1568)、遠江国の争乱が激化すると、直政は鳳来寺(愛知県新城市)へ逃れた。

『井伊家伝記』によれば、その後、直政の母親は遠江頭陀寺(静岡県浜松市南区)の松下源太郎(松下清景)に再嫁した。

 直政も養子として、松下の家で養育されたという。

 なお、秀吉は信長に仕える前、この松下氏に仕えていたという伝承が残っている。

 

家康に出仕

 直政が家康に出仕したのは、天正3年(1575)、直政が15歳のときだという。

 出仕の経緯としては、家康が鷹狩りに出た際に、その道中で偶然に出会った直政を見いだし、召し抱えたという逸話が有名だ。

 しかし、実際は偶然ではなく、井伊氏の人々をはじめとする、周到なお膳立てがあってのこととみられている。

 いずれにせよ、直政は家康に召され、小姓として近侍することとなった。

 直政は松下清景の養子であるから、本来は「松下」を名乗るはずだが、家康は「井伊」を名乗らせた。また、虎松から万千代へと名を改めたという(公益財団法人 静岡県文化財団『湖の雄 井伊氏 ~浜名湖から近江へ、井伊一族の実像~』)。

 江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』によれば、直政の初陣は翌天正4年(1575)の、「遠江芝原の戦い」である。

 直政はこのとき、眞栄田郷敦が演じた武田勝頼の軍勢と戦い、軍功を挙げたという(天正6年の「田中城攻め」を初陣とする説あり)。

井伊の赤備え

 天正10年(1582)、直政は22歳で、元服したと伝えられる(新井白石『新編藩翰譜』)。

 この年は3月に武田氏が滅亡。6月には「本能寺の変」が勃発し、小姓として家康に随行していた直政も、家康とともに、いわゆる「伊賀越え」で帰国の途についている。

 このとき直政も貢献したようで、帰国後、家康から褒美として、孔雀尾の陣羽織を授かったと伝えられる。

 このころの直政は家康に近侍するだけでなく、政務にも携わるようになっていた。

 同年、旧武田家臣の徳川家への帰属交渉が進められた際に、直政も担当者の一人として手腕を振っている。

 また、小田原北条氏との和睦に際し、22歳にして使者に抜擢された。

 このときの北条側は、北条五代当主である北条氏直の叔父・北条氏規を、使者に立てている。

 このころ直政は旗本先手大将に任じられ、多くの旧武田家臣が、直政の旗本部隊に編入された。

『徳川実紀』によれば、家康は「山県昌景(長篠合戦で戦死した武田家の重臣。ドラマでは橋本さとしが演じた)の赤備えは大変に見事だ」と、井伊隊の軍装を赤で統一させたという。

 これにより武田軍の赤備えは直政に継承され、「井伊の赤備え」と称される軍団が誕生した。

 

家康の養女と結婚

 直政は天正11年(1583)1月11日、東条松平家の家老で、永禄7年(1564)に家康から「松平姓」を与えられた松平康親(松井忠次)の娘と結婚している。

 康親の娘は家康の養女となって直政に嫁いでいるため、直政は家康の婿となった。

 これは、異例といっていい厚遇だった。浜松時代の家康が、養女を嫁がせて親族関係を結んだのは、直政だけだったという(野田浩子『井伊家 彦根藩』 吉川弘文館)。

赤鬼

 直政率いる井伊隊が初めて敵と戦ったのは、天正12年(1584)に起きた小牧・長久手の戦いである。

 家康と浜野謙太が演じた織田信雄(信長の二男)が結んで、羽柴秀吉と対決したこの戦いにおいて、井伊隊は秀吉方の大将・徳重聡が演じた池田恒興や、城田優が演じた森長可を討ち取り、家康方は大勝利を収めた。

 井伊隊はその名を一躍、轟かせ、秀吉方の武士たちから「赤鬼」と称されたという。

 だが、戦い全体としては秀吉方が優勢であり、小牧・長久手の戦いは和睦をもって終結。

 その後、ドラマでも描かれたように、天正14年(1586)5月、家康は秀吉の妹・山田真歩演じる旭と結婚した。

 秀吉は家康に上洛を求め、母親である大政所(ドラマでは高畑淳子演じる仲)を、上洛中の人質として、三河に送った。

 同年10月に大政所は岡崎城に入り、家康は上洛して秀吉に出仕した。

 このとき、岡崎城に滞在する大政所の警固を勤めたのが、直政と、「鬼の作左」とあだ名されたと伝わる本多重次(通称 作左衛門尉)だったという(『寛政重修諸家譜』)。

 直政は大政所やその女中たちから、大変に気に入られたという逸話が残っている。

 

徳川家臣団のトップに

 家康が豊臣政権に従属すると、直政は秀吉の執奏により、従五位下・侍従となった。これは、徳川家中で家康に次ぐものである(文禄2年10月、従四位下に昇進)。

 天正18年(1590)の小田原合戦で、戦国大名としての北条氏が滅びると、家康は秀吉から、北条氏の旧領である関東への転封を命じられた。

 秀吉の指示もあり、直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)に12万石の領地が与えられた。

 これは、この時点の徳川家臣団において、最高の石高であった。ちなみに、本多忠勝と榊原康政が得た領地は、それぞれ10万石である。

開国の元勲

 異例の出世コースを駆け上がってきた直政であるが、やがて、体調に問題を抱えるようになる。

 慶長5年(1600)7月には、外出もままならない状態だったという(野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』)。

 それでも、同年9月の「関ケ原の戦い」に出陣した。

 関ケ原の戦いでは銃撃を受け、傷を負ったものの、合戦後は、戦後処理に奔走。論功行賞で、佐和山(滋賀県彦根市)に18万石の領地を授かった。

 しかし、合戦から2年後の慶長7年(1602)2月1日、佐和山城にて、42歳で亡くなっている。

 もともとの体調不良に加え、合戦で負った傷が癒えぬままでの激務が、その死の要因とみられている(野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』)。

 直政は「開国の元勲」と称されている。

 まさに粉骨砕身、家康の天下取りを支えた直政に、ふさわしい言葉である。

 

井伊直政ゆかりの地

●龍潭寺

 静岡県浜松市にある井伊家の菩提寺。

 境内には、井伊家墓所の他、井伊家歴代当主の位牌を祀る「井伊家御霊屋」には、井伊家の始祖・井伊共保、井伊直盛、井伊直親、井伊直政の木像が安置されている。

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彦根城 写真=アフロ