竹内まりやSeptember」、松原みき真夜中のドアstay with me」と言えば、シティポップ・ブームを代表する2曲だ。これらを作曲/編曲したのが、林哲司。今年、活動50周年を迎え、11月5日(日) には『ザ・シティポップクロニクル 林哲司の世界』と題したコンサートを開催する彼に、自身が体現してきたポップスの魔法について、そのキャリアを通して語ってもらった。

自分のメロディは海外で通用するか?――70年代半ば

――2008年の35周年の時にも東京国際フォーラムで大規模な記念コンサートが開催されましたが、今回の『ザ・シティポップクロニクル 林哲司の世界』と題された、11月5日(日) に行われるコンサートはまた違う趣旨になるのでしょうか?

その違いを一言で表現するなら、今回は作品が主役です。35周年の時は、作曲家・林哲司としてステージを演出して行ったんですけど、今回ほど多くのアーティストの方が参加したというわけではありませんでした。竹内まりやさんが出演してくださったという大きなサプライズはあったのですが。ただ今回は、作品にスポットが当てられ、それらによって作曲家・林哲司像が浮かび上がってくればいいと思っています。最終的に総勢が何人になるかはまだわかりませんが、多くの錚々たるアーティストの方々をお迎えして自分の作品を中心にしたコンサートになる、というのは間違いありませんね。

――2008年から15年のタームで言えば、シティポップ・ブームというのが海外を含めて盛り上がりを見せました。当然、林さんの手掛けた多くの作品も話題となりましたが、そのことが今回のコンサートに影響していることはありますか?

いや、シティポップ・ブームというものがこちらからすれば降って湧いたようなものだったので(笑)、周りがどう考えているかはわかりませんが、それが直接今回のコンサートに影響をしているということはないですね。5年くらい前から自分自身の作品を中心とした「Song File Live」というライブを展開していて、で、コロナがあって、その活動もちょっと考えなきゃいけないなって思っていた時期にシティポップ・ブームというのが起こって、「立ち止まるな!」と背中を押されたという側面はありました。だから、50周年にたどり着くなかで、「継続は力なり」じゃないですけど、ご褒美をもらったような意識なんですよね。それが一番正直な気持ちです。特にコロナの時期だったわけで、そういう閉塞感の漂う時に、松原みきさんの「真夜中のドアstay with me」を筆頭に、僕の作品を世界中の人が一瞬でも楽しんでくれたというのは、作曲家冥利に尽きるなっていう思いはありますね。

――この50年のなかで、世界に意識を向けて活動することはあったのでしょうか?

実を言うと、海外向けの作品を何曲か作って、当時のパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)の朝妻一郎さん(現会長)たちがそれらをプロモーションしてくれたんです。そのうちの1曲が、77年にイギリスのバンド・Jigsaw(ジグソー)の「If I Have To Go Away」(邦題:君にさようなら)としてリリースされて、全米、全英チャートにランクインしたんですよ。

――それはすごいことですね、70年代という時代を考えると。

自分でもそう思ったんですけど、意外と騒いでくれなくて(笑)。そこにはふたつの考え方があって、日本の作家であれどこの作家であれ、向こうが作品として自然体で受け取ってくれたっていう解釈があるじゃないですか。一方で、自分として捉えなきゃいけないのは、海外でのチャートインっていう結果は名誉ではあるんですけど、それが日本できちんと評価されないっていう事実は、自分が作曲家として、多くの皆さんに聴いてもらえるようなヒット曲がなく、認識されていないっていうことの裏付けだということがわかったんですよね。要するにそのふたつの考え方っていうのは人生の大きな分かれ道でもあるわけですよね。その時に奮起して海外に飛び出していれば、もしかしたらワールドワイドなヒット曲を出せていたかもしれない。でも実際は、日本でまだ1枚のヒット曲も出していないという一抹の寂しさを感じて日本でがんばることを選んだから、80年代に多くのヒット曲を出すことができたんだって考えることもできますよね。結果的には悔いは全然ないし、これが自分の道だったのかなって思います。

――海外か国内か、という若い時点での分かれ道の選択は、そんなに悩まなかったんですか?

難しいんですけど、例えば今だったら海外ってもっと身近な存在ですよね。でも70年代に海外に出るっていうと、今生の別れじゃないですけど家族みんなが羽田に見送りに行くような時代なんですよ(笑)。だから相当な決意がないと出てはいけないわけです。その時の自分にその覚悟があったかと言えば、正直なかったですね。

――「If I Have To Go Away」が全米と全英のチャートにランクインしたという結果は、ご自身のメロディが海外に認められたというひとつの重要な指標にはなりますよね。それは自信になったのではないですか?

そうですね。そういう意味では実はその前にもうひとつのエピソードがあって。70年代半ばくらいは日本のアーティストが海外でレコーディングするっていうのが流行っていた時期だったんですよ。ちょうどその頃に小椋佳さんのレコーディングがLAであって、僕もついていくことになったんです。で、みんながスタジオワークをしている時に、僕はその合間を縫ってLAで紹介してもらった音楽出版社に自分の曲を売り込んだわけです。一応紹介状は持っているので会ってはくれるんですけど、まあはっきり言ってかなり上から目線なわけですよ。日本の作曲家が何しに来たんだ?っていうような感じで。それであるプロデューサーのオフィスへ行ったら、机に足を投げ出したまま、「とりあえず聴かせろよ」って言うんです。それで曲をかけて――そのデモは亀渕友香さんが歌ってくれてたんですけど――サビあたりまで来た時に、立ち上がって「グレイト!」って言ってくれたんですよ。その瞬間に、「あ、これは通用する」っていう確信は持ちましたよね。そのことがあってからのジグソーだったので、メロディはいけるんだなと。

――時が経って、そのことを証明しましたよね。シティポップ・ブームで。

本当に、人間の一生ってどこでどんなふうになるかはわからないですよね。

新しい音楽へのチャレンジ――70年代後半

――欧米のポップスをもとにした新しい邦楽を作るというトライは、70年代の半ばくらいの時期はやはりいろいろと難しい側面があったのでしょうか? 例えば、理想の歌手がいないとか、音楽産業自体の構造的問題とか。

これも、自分の50年を振り返った時に感じたことではあるんですけど、アーティストとしてデビューしたのに、どうしてアーティストとしてやっていかなかったのか?っていうことがあるんです。おそらくアーティストとしてやっていくっていうことは、アーティストとしての覚悟が必要なんですよね。それははっきり言えば、ひもじくとも信念を貫き通すというか。今でもアーティスト活動だけで食べていくというのは、また新たな局面に入っての難しさもあると思うんですけど、そこは僕の若い頃も同じで、いくらライブのステージをやったとしてもなかなかそれだけで食べていけるようにはならないんですよね。それで僕は、たまたま曲を作ったりアレンジしたりということができたがために、そっちの方でなんとか音楽の世界にしがみつくことができたんです。特にアレンジは、言ってしまえば曲に着せる大切な洋服のようなものですから、そこが唯一当時の若い人間が任せてもらえる場所だったんです。アーティストになりたかった自分が、決して望むような方向ではなかったけれど、それを月に何本かやれば、とりあえず音楽で食べていける。だからどんどんそっちの方向に向かっていくことになるわけです。79年に竹内まりやさんの「September」と松原みきさんの「真夜中のドアstay with me」がリリースされて、ようやく自分の音楽が作曲という形になったわけですけど、なのでそれまではアレンジャーとして音楽の現場でいろいろと学ばせてもらったという感じですね。こうやって振り返ってみても、絶対に作曲家になりたくてなったわけではなかったんですけど、自分の歩みとしては必然的なものだったのかなという気がしますね。結果として導かれてしまったというかね。

――竹内まりやさんや松原みきさんは、それまでの歌手と何が一番違ったんですか?

それまではポップスを歌う歌手が、ポップスで育った歌手ではなかったんですね。ジャズを歌っている傍らで歌謡曲やポップス歌謡をやっているとかっていう歌い手さんは何人かいたんです。だけど純然とポップスで育ってきた歌手というのはいなくて、僕の仲間では大橋純子さんが最初でした。その後に竹内まりやさんや松原みきさんが出てくることになるんです。大橋さんで自作のヒットは出せなかったんですけど、僕としては現場も含めてそこで経験できたことが土台となって、少しずつ新進作曲家として林哲司という名前と存在が業界の中で広がっていったんですよね。

――一方で、ユーミンさんをはじめ、シンガーソングライターやバンドにも“ニューミュージック”という流れが当時はありましたよね。

だから今シティポップと呼ばれる音楽は本当にたくさんの人たちが作ってきたものなんですよね。当時その中で、職業作曲家として新しいポップスを提供する人っていうのはなかなかいなくて、僕も含めて僕の周りで数人くらいでした。基本的にそうしたポップスは自分で作って自分で歌うスタイルの人たちのものっていう認識が世間にはあったと思います。要するに、提供する側も受け取る側も新しい音楽を求める状況が出来上がってきていた中で、竹内まりやさんや松原みきさんがシンガーとして登場し、そこに作曲家として僕がいたっていうことで、そうやって見てみると時代の流れも大きく関係していますよね。

――なるほど。確かに79年を軸に一気に音楽を取り巻く環境も変化していきますよね。

渋谷宇田川町にタワーレコードができたり(※81年、大量の輸入盤を扱った初の大規模店舗がオープン)、そういったことも大きかったですよね。それまで何カ月も待たなければ聴けなかった洋盤がリアルタイムで手に入れられるようになった。それと、雑誌『POPEYE』が創刊(76年)されてアメリカ西海岸を中心としたユースカルチャーへの憧れというものが日本の若者たちの間で広がっていったんですよね。それまでのフォーク的な――もちろんフォークもアメリカにルーツを発するものではあるけど――ものとは違う、都会やリゾートを感じさせるような文化が受け入れられて、そこに似合う音楽が好まれるようになっていった。ユーミンはその代表的なものですよね。ちょっと手を伸ばせば届くような憧れをうまく歌にした。さらに社会的な背景を言えば、渋谷パルコ(73年)ができて、それまで何もなかった坂道を公園通りとかスペイン坂というふうに命名して都市そのものをポップなものにしていったんですよね。そこに糸井重里さんとか当時の最先端をいくクリエイターの方達が関わってCMやキャッチコピーを作ることによってイメージが一気に広まっていった。

――つまりサブカルチャーの中心地が渋谷になることが当時のポップスのムーブメントを作り、そして90年代以降にもつながる音楽カルチャーの原点になっていったと。とても興味深い話です。

だから“渋谷系”というのは、もちろん90年代のムーブメントを指す言葉だと思うのですが、その端緒はもっと前にあった、ということが言えるのかもしれませんね。

――そうした時代の変化のなかで林さんが目指していた“新しい音楽”というのはどのようなものだったのでしょうか?

明確にここを目指す、というようなものはありませんでした。ただ、自分のやりたいものが洋楽の影響を受けた音楽的知識とか雰囲気とか、そういうものをふんだんに盛り込んだメロディやサウンドというものであることは絶対でした。逆に言うと、結局歌に日本語が乗るのに、なぜ日本の曲をベースにして作らなかったのかと。日本の歌謡曲を否定するわけではないんですけど、単純に洋楽の方が音楽的に面白かったんですよ。いろんな音楽的要素が含まれていて、サウンドも新鮮で。ある種の様式美というか型にはまった日本の歌謡曲よりも――もちろんそれはそれの良さがあるんですけど――洋楽を聴いた時に受ける、こんなコード進行があるんだ、とか、こんなサウンドアプローチがあるんだっていう驚きの方が僕にとっては面白かったんです。そうやって学んだものがどんどん自分の中に蓄積されて、そうするとアウトプットしたくなる――それが作曲の一番の楽しみだったんですよね。そしてそうやってできた曲が、日本のトラッドな音楽の中で、どういうふうに浸透していくのか、または浸透させるのかっていうことがチャレンジとしてはありました。そういったことにチャレンジできた面白い時代に音楽を始められたのはよかったですね。

名実ともにナンバー1の作曲家へ――1984

――70年代から80年代への橋渡し的作品、あるいは80年代の幕開け的作品のひとつとして重要な意味を持つのが、林さんの3rdアルバム『SUMMER WINE』だと思います。同時代に勃興したアメリカのAORとかなり共鳴している作品ですよね。

AORというものがなかったら、自分が作品を発表するアイデンティティーみたいなものがもっと明確ではなかったような気がするんですよね。確かにこの作品で自分が目指すべきサウンドの方向性というのは定まったと思います。けれどじゃあ、それはそのままアメリカのAORをやることなのかと言ったら、いくらそのつもりでやっていても、そうはならない――だけどその、“そうはならない”という部分に日本的なポップスのオリジナリティが含まれているということなんですよね。当時は単純に、「なんでだろう?」っていう疑問としてあったのものが、後々分析していくことで気づくんですけどね。つまりそれっていうのは何なのか。日本人の持つ細やかさとか哀愁感とか、そういうものはアメリカのドライな感覚を持っている表現の仕方とは自ずと違ってくるんですよね。

――林さんの初期の音楽活動は、いわばドメスティックなものとの闘いだったと思うんです。これまでの歌謡曲にはない洋楽的なポップスを日本の音楽シーンの中に打ち立てようとする。しかし、そうやってドメスティックなものと闘っているうちに、自分でも気づかないドメスティックな要素がオリジナリティの最後のピースとして加わるというのは、まさに日本製のポップスの完成過程を表現しているようですね。

そこは不思議なんですよね、本当に。さらに時を経て、サブスクが当たり前の聴き方として普及したことによって、少なくとも僕がそうやってトライしながら作ったポップスが“シティポップ”という日本の音楽として世界中で聴かれるようになるなんて。これは正直に言いますけど、自分がヒットチューンを書けるようになってきた一番のポイントは、ドメスティックを意識する、ということだったんですよ。杉山清貴オメガトライブ(※'83年に1stシングル『SUMMER SUSPICION』をリリース)とか、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)とか、あのあたりからですね。日本的な感覚に同調していく書き方というものを――具体的に言ったらコード進行とかメロディの取り方とかになるんですけど――完璧に英語がはまる洋楽的なものからちょっとシフトしたんですよね。例えて言えば、太平洋のど真ん中をアメリカに向けて進んでいた船を少し日本に向けて舵を切る、というような感覚でした(笑)。それが日本の80年代という時代感覚に見事にミートしましたよね。

――1984年は、9月にリリースした菊池桃子さんの1stアルバム『OCEAN SIDE』、そして翌10月にリリースした原田知世さんのシングル「天国にいちばん近い島」で1位を獲得。この年の「作曲家年間売上1位」となりました。林さんにとって84年というのはどういう年でしたか?

ジョージ・オーウェル村上春樹さんではありませんが(笑)、僕にとって「1984」というのは本当に重要な年なんですよ。プライベートでは子供ができたというのもありましたし、父親が倒れたこともあって、自分がその中間にいると、未来と過去の間にいるような不思議な気持ちになって過ごした年でもありましたしね。なおかつ、作曲家として初めてチャート1位を取れた年でしたから。

――しかもアーティストへの楽曲提供だけではなく、映画やアニメのお仕事も同時にされていましたよね。

これは今、自分の作品集を出して一番アピールしなければいけないことだと思うんですけど、歌曲でヒットを出すヒットメーカーではない部分での表現者としての活動を見てもらいたいなという部分がありますね。シティポップの作曲家だけではないというところがわかっていただけたらうれしいですね(笑)。

シティポップを超えて――現在

――杉山清貴オメガトライブではプロジェクトの重要な担い手として、菊池桃子さんではサウンドプロデューサーとして、その前後でそれまでの作曲家としてだけではないアーティストとの向き合い方になりましたよね。

これも海外のプロデューサーたちの、いろんな作家の作品を束ねてひとりのアーティストを浮き彫りにするというプロデュース手法に興味を持って、作品を提供することとはまた違う見地で面白いなと思ってたんですよね。それでトライしたのが伊東ゆかりさんのアルバム『MISTY HOUR』(82年)や国分友里恵さんのアルバム『Relief 72 Hours』(83年)でした。ゆかりさんの場合だとキャリアがものすごくある方ですから、サウンドや作品によって今までとどういった違う見せ方をするかとか、国分友里恵さんの場合はデビューでしたから、どういうポジションで送り出すかということを考えました。そのためには自分の信頼している作家に曲をお願いして、ゆかりさんには竹内まりやさんやEPOさん、かまやつひろしさんに書いてもらったり、そういう人たちの作品を集めて、そこにないものを後から自分が提供してアルバム1枚を作り込むというやり方をやらせてもらいました。とても楽しかったですね。

――創作やプロデュースに対する結果というのは、もちろんヒットということと、それと自分の中の満足度というか基準値をどれほど満たしたのか、という点もあるかと思います。林さんの考える“結果”は、その両方をクリアすることになるのでしょうか? どちらかだけではダメ?

ダメですね。もうひとつあって、それがいい作品という評価を得て、自分でも納得したものであって、次にそれをどう仕掛けていくか、ということもプロデュースワークの重要な要素なんです。ミュージシャンがプロデュースする場合は、前者だけで済んでしまうんです。だけど本当の仕事っていうのは、曲ができた後に、皆さんにどうやって聴いてもらうかっていうこと、そこが考えられるかどうかなんですよ。例えばチラシ1枚のデザインから、タイアップの持って行き方まで。具体的に自分が動かないまでも、レコードメーカーの担当者と話せるかどうかっていうのはとても重要なことで、最終的にはイメージした道筋に沿ってヒットするということができれば最高ですよね。みんなが幸せになれますから。そのためには、普段どれだけ意識して本を読んでいるかとか、美術館に行っているか、映画を見ているか、あるいは女性誌を積極的に読んでいるかとか(笑)、そういうことの積み重ねの先にプロデュースワークっていうのはあるんですよね。

――最後に作詞家との関係をお聞きしたいのですが、邦楽では特に歌詞の占めるウェイトは大きいと思います。そこは作曲家としてどれほど意識するものなのでしょうか?

例えば「真夜中のドアstay with me」を世界の人が聴いて、その歌詞の意味を正確に理解している人はそういないじゃないですか。だからと言って歌詞がいらないかと言ったら、それはとんでもない話で。あくまで語感というか言葉も含めたサウンドとして魅力が伝わっているということだと思うんですね。同じように、僕らが洋楽を聴いて、全部はわからないけど、英語の慣用句みたいなものが耳に飛び込んできた時に、ああこれは恋愛の歌なんだなとかって認識はできる。でもやっぱり細かいところまではわからない。それは要るすにサウンドとして入ってくる。そう考えた時に、やっぱり僕は音楽人間なので、詞に対する認識の仕方っていうのは甘い部分があったかもしれないけど、ただ自分がプロデュースする場合は、必ず歌詞をジャッジしなければいけないという側面があるわけですよね。そうすると、仮に直しをお願いする場合は、自分がその歌詞をどこまできちんと深く読解しているかということを示さなければいけないので、ものすごく意識的になりますよね。作曲家の場合は、お互いのテリトリーがありますから、こちらからあまり口を出すということはないですね。そこは信頼関係というか。

――そうやって、康珍化さんや売野雅勇さん、秋元康さんといった才能ある作詞家の方達とヒット曲をものにしてきたというわけですね。

そうですね。

――今も当然ながら作曲は続けてらっしゃるんですよね?

ええ、続けています。ちょっとおこがましいんですけど、今の方がいい曲を書くと思いますよ(笑)。今までのキャリアの中で得た知識や技術、それと自分の人生の中で経験してきた感情、そういうものが合わさった今が一番いいですね。心技体で言ったら「体」だけはどうしても過去と比べたら劣ってしまうんですけどね(笑)。

――今年50周年を迎えたタイミングでご自身の作品やキャリアを振り返るのも、そうした日々の創作の刺激や糧として還元されているわけですね。

そうですね。冒頭にも言いましたが、5年ほど前から「Song File Live」というものをやり始めて、ヒット曲が中心にはなるんですけど、ヒットはしなかったけどこのアルバムの中のこの曲というものをセットリストの中に入れて披露したり、そうやって過去の曲を見つめる機会が増えたことは自分にとって良かったですね。

――11月のコンサートも楽しみにしています。

はい。ありがとうございます。

Text:谷岡正浩 Photo:山本佳代子

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<ライブ情報>
『ザ・シティ・ポップクロニクル 林哲司の世界 in コンサート』

11月5日(日) 東京国際フォーラム ホールA
開場16:00 / 開演17:00

チケット料金:全席指定15,000円(税込)
※未就学児入場不可
https://w.pia.jp/t/tetsuji-hayashi50/

出演:杏里 / 伊東ゆかり / 稲垣潤一 / 上田正樹 / エミ・マイヤー【NEW!】 / 菊池桃子 / 国分友里恵 / 佐藤竹善 / 杉山清貴 /杉山清貴オメガトライブ【NEW!】[杉山清貴Vocal)、髙島信二(Guitar)、吉田健二(Guitar)、大島孝夫(Bass)、廣石惠一(Drums)、西原俊次(Keyboards)、大阪哲也(Keyboards)、Juny-a(Percussion)]【NEW!】 / 鈴木瑛美子 / 寺尾聰 / 土岐麻子【NEW!】 / 林哲司 / 松城ゆきの【NEW!】 / 松本伊代 / 武藤彩未 / Little Black Dress

バンド『SAMURAI BAND』:今剛(Guitar)/増崎孝司Guitar)/富樫春生(Keyboards)/安部 潤(Keyboards)/髙水健司(Bass)/江口信夫(Drums)/斉藤ノヴ(Percussion)/高尾直樹・大滝裕子・稲泉りん(Chorus)/ルイス・バジェ(Trumpet)/アンディウルフSaxophone

予定演奏曲目(全曲作曲:林哲司):真夜中のドアstay with me / September【NEW!】/ 北ウイング【NEW!】 / ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER / 卒業 -GRADUATION- / 悲しみがとまらない / 思い出のビーチクラブ / 天国にいちばん近い島【NEW!】 / 悲しい色やね / SUMMER SUSPICION【NEW!】 / デビュー 〜Fly Me To Love / The Stolen Memories / 入江にて / 強がり / Just A Joke / 信じかたを教えて / If I Have To Go Away【NEW!】 / 悲しみがいっぱい / 逆転のレジーナ / 戀【NEW!】
and more……

『ザ・シティ・ポップクロニクル 林哲司の世界 in コンサート』公式サイト:
https://tetsuji-hayashi-live.com/

林哲司 公式サイト:
https://ht50th.com/

林哲司