2023年10月1日(日)から、新国立劇場のオペラ 2023/2024シーズン が開幕する。オープニングは東京で一から作られるニュー・プロダクション、しかもダブルビル(二本立て)で、20世紀初頭に書かれた傑作オペラが同時に二つ上演となる。プッチーニ修道女アンジェリカラヴェル《子どもと魔法》だ。ここでは、ラヴェル《子どもと魔法》の稽古場の様子を紹介する。

ラヴェルといえば『ボレロ』『ラ・ヴァルス』などの管弦楽曲は知っていても、オペラを観たことのある人は少ないのではないだろうか? でも実は、フランスらしいエスプリの効いたラヴェルオペラは非常にユニークで、誰でも楽しめる音楽と内容を持っている。フランス小説家コレット(代表作は「青い麦」「シェリ」など)が台本を書いた『子どもと魔法』は、ラヴェル自身がファンタジー・リリック(抒情的なファンタジー)と呼んだ、オペラバレエが融合した50分にも満たない小品である。

このオペラのいちばんの魅力はその題材だ。小学校一年生くらいの男の子が、勉強を強要するお母さんに対してかんしゃくを起こし、周りのものにさんざ八つ当たりをする。すると、これらの物や、彼がいじめた動物、傷つけた植物などがつぎつぎと彼に復讐してくるのだ。子どもの想像力がそのままオペラになったようなコレットの台本に、ラヴェルが書いた音楽はなんとも新鮮な力に満ちている。

この物語に出てくる生きた人間は、子どもと、最初にほんの少しだけ出てくる母親だけ。その他の登場人物は、肘掛け椅子、安楽椅子、柱時計、ティーポット、中国茶碗、火、本の中のお姫様、壁紙の中の羊飼いたち、りす、猫、庭の木、とんぼ、雨蛙など、人間でないものばかり。登場人物の数が多すぎて演奏会形式で上演されることも多いが、新国立劇場はこのオペラが作られた意図に忠実に舞台化している。

ストーリーは、前半が子供が勉強をしている部屋、後半は家の庭が舞台となる。このレポートのために訪れた日は、前半部分を稽古中だった。

指揮は沼尻竜典、演出は粟國淳。2019年にもツェムリンスキー《フィレンツェの悲劇》、プッチーニジャンニ・スキッキ》のダブルビルを手がけた二人は、お互いに全幅の信頼を置いていると公言している、息がぴったりのベテラン・コンビだ。粟國淳の『子どもと魔法』は、横田あつみによるデザイン画が絵本のように空想力を掻き立てる美術に加えて、映像も使うことで、台本の指示をうまく実現したしかけがたくさんあるようだ。バレエやダンス(初演時にはジョージバランシン振付けだった)のパートにもかなり力を入れている。

横田あつみによるデザイン画 (提供:新国立劇場)

横田あつみによるデザイン画 (提供:新国立劇場)

(右端)演出の粟國淳

(右端)演出の粟國淳

まず歌手で注目は子ども役のクロエ・ブリオだ。この役はすでに200回くらい歌っているというフランス人の若手ソプラノ。演技が自然すぎてまるで本当の子どものよう。彼女の声の出し方や、動きを見ているうちに、普段全く思い出すこともない、自分が子どもだった時代に思ったこと、感じたことなどがふっとよみがえってきたのは驚きだった。

クロエ・ブリオ

クロエ・ブリオ

ラヴェルの音楽については、当時流行した音楽に言及しているのが興味深い。ウェジウッドノワールのティーポットと中国茶碗のデュエットなどはスイングのリズムに乗って、英語と、日本語の単語も混じった怪しい中国語のやりとりになっていたりと滑稽だ。沼尻マエストロの指揮もノリノリで楽しそう。

指揮の沼尻竜典

指揮の沼尻竜典

子ども役のブリオ以外は日本の歌手たちが出演。フランス語歌唱が得意な歌手も多く、中でもフランスに長く住んで活躍している齊藤純子がお母さん役に出演しているのは贅沢だ。その齊藤に話を聞いた。ちなみに彼女は、来日が叶わなくなったピッツォラートの代役としてプッチーニ修道女アンジェリカ》の公爵夫人役にも出演することになり今回は大活躍である。

「実はフランスの子どもたちは今でも、学校からの宿題が毎日出てその量もとても多いんです。現代のフランスのお母さんたちは仕事をしている人が大多数なので、親子の関係はラヴェルの時代とはかなり違うかもしれませんが。でももちろん、子どもにとって母親の存在は大きいと思います」

齊藤純子

齊藤純子

「お母さん役はオペラの最初に少し登場するだけなので寂しいんです。分からないように大勢の場面でこっそり少し登場したいくらい(笑)。このプロダクションは舞台にしっかり手をかけて作り上げていて、大勢の登場人物に合唱や児童合唱もあり、バレエもあり、助演(俳優)の出演もあり、装置も衣裳も凝っていて、このような《子どもと魔法》の上演は本当に豪華だなと思います。素晴らしい皆さんと共演できることを誇らしく思っています」

「私は音楽大学時代に師事したメゾソプラノの高木浩子先生がフランス音楽のご専門でした。その高木先生が《子どもと魔法》のお母さん役を日本の最初期に歌った方なのです。先生の生徒として恥ずかしくないような“お母さん”を歌わなければいけないと思っています」

声楽的に難易度が高いコロラトゥーラが出てくる火、お姫様、夜鳴き鶯(うぐいす)の三役を歌うソプラノの三宅理恵にも話を聞いた。

「この三つの役を一人の歌手が歌うというのはラヴェル自身の指定なんです。火と鶯の二つの役はコロラトゥーラの技巧的な歌唱が必要で、一方、お姫様はまったく違うキャラクターです。お姫様は子どもが読んだ本の登場人物で、彼の淡い初恋の対象なのですが、今回のイメージは鏡の中の触れられないお姫様。綺麗なフレーズをはかなく歌って消えていきます。このオペラの中で唯一、子どもと会話らしい会話を交わす相手でもあります。ラヴェルがどうしてこの三つの役にわざわざ同じ歌手が歌うことと指示しているのか不思議なんです。しかも火を歌ってからお姫様を歌うまで3分しか時間がありません! ラヴェルさん、もう少し後にしてくれてもいいんじゃない?と思うこともあります(笑)」

三宅理恵

三宅理恵

「粟國淳さんは大好きな演出家です。新国立劇場の本公演でご一緒させていただくのは初めてですが、以前、粟國さんの演出でメノッティの《アマールと夜の訪問者》というオペラで私が子ども役を歌った時には、彼の子ども目線に立って作られた世界観が大好きでした。今回も、ご自身の少年時代の体験談などのお話を話してくださいながら稽古が進んでいます。どんな舞台に仕上がるのかとても楽しみです。沼尻マエストロも初めてご一緒させていただきますが、素晴らしい経験豊かなマエストロが、ラヴェルの音楽の中から聴こえてくる特徴を教えてくださるのが興味深く、一緒に音楽を作っていけたらと思っています。ファンタジーの世界というか、見て聴いて楽しめる素晴らしいプロダクションになっているのでお客様にも思いっきり楽しんでいただけたら嬉しいです」

最後に、今回、新国立劇場にデビューするというバスバリトンの田中大揮にも話を聞いた。

「これまではイタリア語オペラを中心に歌って来たので、慣れないフランス語で新国立劇場のオペラに初めて出演するのは緊張します。しかも僕は肘掛け椅子と木という二つの役を演じるのですが、オペラの冒頭で、子どもが初めて現実的ではないキャラクターと出会うのが肘掛け椅子なんです。ご覧になっている方を幻想の世界に引き込まなければいけないのでプレッシャーは結構感じています」

田中大揮

田中大揮

「椅子を蹴っ飛ばしたり、木をナイフで切ったり、僕も子どもの時にやったな、という思い出があります。それからやはり子ども時代に、その日に蹴飛ばした機関車に夢の中で追いかけられる夢を見たことも覚えているんです(笑)。このオペラは子どもが観ても面白いと思いますし、大人も物語に懐かしいものを感じるのではないかと思います」

ラヴェルのこの作品はオペラの中でもよりバレエに近いというか、物語の流れがスムーズでコミカルで楽しいです。最後にお母さんのところに戻っていくという、ストーリー全体がつながっているのも魅力的です。このファンタジーの世界を楽しんでいただけたらと思います」

もう戻れない子ども時代。でもこのオペラを観ると、あの頃の自分を思い出すことができるかもしれない。

取材・文:井内美香  写真撮影:寺司正彦 

《子どもと魔法》稽古場