明治時代から活躍した発明家「藤岡市助」は、鉄道界でもまた「第一人者」のひとりと言ってもいいでしょう。日本での電車運行の立役者でもあります。どんな人物だったのでしょうか。

山口県出身の「エジソン」日本に鉄道をもたらす

1875(明治8)年、岩国藩(山口県)出身からやってきたひとりの青年が、開校したばかりの工学寮(後の工部大学校、帝国大学工科大学)に入学しました。彼の名は藤岡市助。国産電気研究者、技術者の第一世代筆頭といえる人物です。

彼は学問の世界で電力黎明期を牽引しただけでなく、東京電力の前身である「東京電燈」(戦前の電力の用途は電灯が中心だったため多くはそう呼称した)や、東芝の前身のひとつであり、当時の一般向け白熱電球の生産をほぼ独占していた「白熱舎」を設立するなど、様々な事業に関係したことから「日本のエジソン」と呼ばれた人物です。

さらに藤岡は我が国における「電車」の誕生に関わった人物であり、現在でいう「新幹線」の概念を発案するなど、鉄道黎明期の立役者と言っていいでしょう。どんな経歴の持ち主なのでしょうか。

藤岡は甲武大学在学中、すでに発電機模型と白熱電球を試作するなど、才能の片鱗を見せていました。その後日本初の電燈会社である「東京電燈」の設立に尽力し、1882(明治15)年に米国製発電機を用いて銀座で2000の電燈を灯し、市民に電力時代の到来を知らしめました。

同社設立から技術顧問の立場にあった藤岡は、1884(明治17)年に米フィラルフィアで開催された万国電気博覧会に派遣され、発電所や電燈会社を視察するとともに、「本家」エジソンにも面会しています。帰国後の1886(明治19)年、29歳の藤岡は正式に東京電燈の技師長に就任しますが、すぐに二度目の海外視察へ出発。最新の技術を学びました。

その間、1887(明治20)年に東京電燈は火力発電所を完成させ本格的な送電を開始し、東京市内に広く電気の明かりを灯しました。

「電車ってなんだ?」謎の存在を東京に紹介

藤岡は再度の洋行で「その先」の可能性に出会います。彼が着目したのは黎明期の電気鉄道でした。

電気を動力とする世界初の車両がベルリンの博覧会で公開されたのは1879(明治12)年のこと。その2年後にベルリン路面電車で営業運転を開始しますが、本格的な普及はアメリカの技術者フランク・スプレーグによる、現在と同様の「スプレーグ式」が完成してからのことです。

スプレーグ式はトロリーポールによって架線から電気を取り入れ、レール経由で変電所に戻す方式です。スプレーグが関わったバージニア州リッチモンドの路面電車は1888(明治21)年に開業し、大きな成功を収めました。

藤岡の視察はまさにスプレーグの事業が具体化しつつあるタイミングに行われたものでした。彼は帰国後も電気鉄道に関する技術や経営の調査研究を進めると、1888(明治21)年に日本初となる電気鉄道の敷設を出願しました。

しかし海のものとも山のものともつかぬ電気鉄道に対し、政府は一切の知識を持っておらず、法的な位置づけや技術的見地がなく、申請は電力事業を所管する逓信省、馬車鉄道を所管する内務省、そして鉄道局をたらいまわしにされた結局、「不許可」の結論となりました。

そこで電気鉄道敷設の機運を盛り上げるべく、藤岡らは1890(明治23)年に上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会において、アメリカから輸入したスプレーグ式電車を展示運転し、300mの距離ながら実際に乗客を乗せたのです。約3か月で約30万人が乗車する好評ぶりでした。

日本の都市の「電車」実現に向け奔走

同年には、後に大師電気鉄道(現在の京急電鉄)設立に関わる雨宮敬次郎や立川裕次郎、阪神電気鉄道初代社長の外山脩造、日本車輛製造を設立した奥田正香、そして1895(明治28)年に日本初の電気鉄道として開業した「京都電気鉄道」(後の京都市電)の設立者である高木文平などと共に、「電気鉄道期成同盟会」を組織し、働きかけを強めました。

京都電気鉄道の開業に前後して東京市内で多数の電気鉄道が出願されますが、その中には圧縮空気や蒸気機関、蓄電池、ケーブルを動力とする方式が含まれるなど、技術的な模索が続いていました。最終的には実績のある架空線電気式の採用が決まります。

しかし電線が1本の架線単線式は地中に埋設された金属管を腐食させ、電信電話に障害を及ぼすことから、電力を取り入れる電線と変電所に戻す電線を2本張る架線複線式とすることになりました。しかし障害対策の研究が進み、大正期以降順次、架空単線式への切り替えが進み、藤岡が推進したスプレーグ式の優位性が証明されたのです。

こうした中、藤岡は東京馬車鉄道の嘱託顧問に就任し、電化計画を推進。また京浜電気鉄道(現在の京急)、阪神電気鉄道の技術顧問にも就任しています。

続いて鉄道業界の有力者が合同して「東京市街鉄道」が設立されると、東京馬車鉄道改め東京電車鉄道の嘱託顧問を辞職し、東京市街鉄道の技師長に就任。こうして1903(明治36)年に東京馬車鉄道改め「東京電車鉄道」、東京市街鉄道、翌年に東京電気鉄道の3社が東京市に開業しました。

今や当たり前の鉄道風景も「発明済み」

電気鉄道の導入に尽力した藤岡は1905(明治38)年に技師長を辞職し、新たな分野に挑みます。鉄道関係で注目すべきは、藤岡が追い求めてきた電気鉄道の集大成として1907(明治40)年に出願した、東京~大阪間を結ぶ高速電車「日本電気鉄道」です。直接的な連続性はないものの、後の東海道新幹線に繋がる最初の構想と言えるでしょう。

日本電気鉄道は品川を起点とし、松田(神奈川県)、静岡、名古屋、亀山(三重県)を経て野田(大阪)に至る約480kmの路線で、直流3000ボルト第三軌条式の電気機関車が客車5~6両を牽引し、東京~大阪間を6時間で結ぶ計画でした。半世紀後の1958(昭和33)年に運行を開始する東海道本線でビジネス特急「こだま」と同等の速度で東京~大阪を結ぶ壮大な構想だったのです。

とはいえ日本初の電車が走り始めてまだ12年のことであり、国有鉄道と並走する上、あまりにも壮大な構想は受け入れられませんでした。1916(大正5)年までに計7度の出願を繰り返しますが、結局頓挫しています。

もうひとつ注目すべきは、日本初の都市高速鉄道として出願された「日本高架電気鉄道」です。1906(明治39)年の渡米中に高架鉄道の有用性を目の当たりにした藤岡の発案によるもので、経済性を重視し、「地盤の良い山の手は地下線、悪い下町は高架線」として、新宿から錦糸町、品川から千住の、十字の路線とする計画でした。

こちらも時期尚早として認められませんでしたが、都市間・都市内ふたつの「高速鉄道」の提案は、常に海外の最新技術、鉄道経営を学び、日本に導入し続けてきた藤岡の先見性を証明しています。

「大東京三十五區」より1932年の上野駅周辺(画像:東京都)。