「仏教」や「お経」というワードに、なんとなく堅苦しいイメージを抱いている人も多いのではないだろうか。僧侶(浄土真宗本願寺派)である近藤丸さん(@rinri_y)が2023年2月に発売した「ヤンキーと住職」は、とある寺の住職と仏教が大好きなヤンキーの交流を通して、誰でも楽しく仏教の教えを学べる漫画だ。

【漫画】本編を読む

今回は、同書から印象的なエピソードを抜粋・編集し、作者である近藤丸さんのインタビューとともにお届けする。

■お寺は本来開かれた場所

お寺の本来の意味としては、仏教のお話を聞いたり、修行をする道場という意味合いがあります。ですから、「仏教の話を聞いてみたい」と思ったときに訪ねて行かれることに、何の問題もありません。

ただ、本山のような大きなお寺でない限り、いつでも対応できる僧侶がいるとは限りません。また、住居を併設している場合が多く、お寺は寺院関係者の生活の場にもなっています。僧侶やお寺に関わる人たちにも生活があるので、現実的にはいつでも対応というのは難しいのです。

また、現代では多くの寺院が専業で運営することが難しく、住職や関係者も仕事で留守にしている場合も多いです。そういう意味では、いつでも気軽に行っていい場所であるというのは一つのタテマエにはなっています。

これらのことから、仏教の話を聞きたい、教えてほしいことがあるなどの場合は、ぜひ事前に「お参りしていいか」と連絡をしてから訪れることをおすすめします。

多くのお寺で法話会やイベントが定期的に開催されていますので、まずはこうした場に訪れてみるのがいいと思います。そしてそこから、住職と仲良くなってみてはいかがでしょう。あと、仏教の伝統宗派本山では、お寺が開いている時間なら職員にいろいろと質問することもできます。本山のイベントや法話会から行ってみるのは、かなりおすすめですね。

仏・菩薩の受け止め、解釈もさまざまです。私は浄土真宗本願寺派という宗門の寺院の衆徒ですので、浄土真宗の教えを聞く中で学んだことを中心にお話したいと思います。

浄土真宗では、「亡くなられた方は仏さま(諸仏)に成って私たちを見守ってくださいます」などと説かれることがあります。「諸仏」とは「無量・無数の仏たち」という意味ですね。

では、そもそも「仏」とは何なのでしょう。「仏」は目覚めた人、つまり、ブッダ(仏陀)のことです。人間はどうして苦しむのか、なぜ傷つけ合うのかに目覚め、同時に、どうすれば傷つけ合うことを超えられるのか、に目覚めた人ですね。最初「仏」はお釈迦さまのことを指していたのですが、お釈迦さまは真理(=法)に目覚めた人なのだと徐々に明確になり、お釈迦さまという一人の人間を超えて「仏」が使われるようになりました。つまり、真理に目覚めた人が「仏」なのです。そうすると「仏」は時代や場所を超えて誕生するため、「諸仏」と呼ぶようになりました。

仏教で「諸仏」が説かれる元には、「どんな人も仏に成ることができる」という、仏教の真理性がある。「事実に目覚める」「苦しみの原因に本当の意味で目覚める」ことができた人が仏で、誰もがなる可能性を持っているのです。諸仏という言葉には、「すべての人々に迷いの事実を教えて正しく歩ませたい」という、大きな願いが込められているのですね。

■「身近な人の死」に向き合うこと

私たちは普段、自分がどういう存在であるか知ったつもりで、自己中心的に生きています。私自身そうです。しかし時に僧侶として、重い病にかかった人の相談に乗ることや、誰かの死に出会うことがあります。そして目の前で苦しむ人の言葉、厳粛な命の事実に耳を傾け、絶句するしかできない場面も。そうしたときに浮かれている私の生き様に対して、「それでいいのか?」と問われます。

自分の生き方について今一度問い直す機会が、「身近な人の死」ではないでしょうか。またそれを「ご縁」に、仏の教えや言葉を聞く・尋ねるということも起こります。だから、亡き人を通して自分自身の事実に気づくとき、そこに「諸仏」が存在するのです。

仏教では、前に存在した仏に導かれて仏に成った人を「諸仏」と捉えます。中国の曇鸞(どんらん)という高僧が書いた「略論安楽浄土義」という書物の中に、「前仏によりて、後の仏まします」という言葉があります。意訳すると、「それぞれの諸仏は、前に存在した仏に導かれて仏になった人である」ということです。自分一人で仏に成ったのはお釈迦様だけ。だけど仏教の歴史の中で、大切なことに目覚めていった人たちがいる。その人たちは皆、他者の言葉や導き・生き様に触れて仏になったのです。

また浄土真宗を開いた親鸞という方は、「教行信証」という書物の中で次のように言っています。「前に生まれた者は後を導き、後に生まれたひとは前を訪ねなさい」。仏教の歴史は諸仏の歴史。そして私たちは、仏となる尊い命を頂いているのだと説かれているのです。

浄土真宗では浄土という仏の世界に往生し、仏となった者が菩薩の姿を取って私たちを教化してくれているとの考え方があります。この観点から、亡き人を諸仏・諸菩薩と捉えることもできますね。なにも幽霊のように行ったり来たりするのではなく、教えの中で私たちを教え導く、亡き人と出会い直すということではないでしょうか。

なお、あくまでこれは私なりの教えの頂きです。基本線は押さえているつもりですが、間違って自分勝手に捉えている部分もあると思いますし、常に頂き直していかなければならないと考えています。私としての一番の願いは、「ヤンキーと住職」をきっかけに読者が自分自身でお釈迦さまの書いたものや、仏教の伝統の中に生きた僧侶の言葉に直接触れて、深く考えてもらうことです。仏教の言葉は、自分の人生や悩みのうえで聞いていくべきだと思うんです。そういうことが本当に大切だと思っています。

ただ、学びをさらに深めていっていただければと思うのですが、なかには注意しなければいけない団体や情報もたくさん紛れ込んでいます。その団体や情報を発信している人が信頼できるのか、正体を隠して布教していたり問題性が指摘している団体ではないかなど、よく調べてみることが大切です。

もし、何から学んでいいのかわからない、今接している情報やグループが健全なものなのか判断がつかないときは、信頼できる寺院の僧侶・宗教者や伝統宗派本山などの職員に尋ねるということも、選択肢の一つとして持っていてほしいです。

一見異色な組み合わせの二人の対話を通して仏の教えを知ることができる「ヤンキーと住職」。仏教に馴染みがないという方は、まずはこの作品を通して仏の教えに触れてみてはいかがだろうか。

「ヤンキーと住職」7話より