
秋は旅行の季節ということもあって、予定を立てている人も多いことだろう。ただ場合によっては、旅先で不測の事態に見舞われてしまう場合もある。
鉄鋼メーカーで事務職をしている野中萌さん(仮名・32歳)は、旅の途中で乗ったタクシーで「忘れたくても忘れられないような体験」をしたという。
◆人当たりの良さそうなタクシー運転手だったが…
「自由気ままに行きたいところに行けるのが好きで、年に4回は一人旅に行っています。その時は、秘境にある温泉につかり、景色を楽しむことが目的の旅行でした」
問題は旅行の2日目。きっかけはちょっとした予定の狂いだった。
「温泉に行った後に、景色が美しい渓谷に向かう予定でした。でも、温泉が気持ち良くて、つい長居をしてしまい……。温泉を出た時は夕方近くでバスで行く予定だったのですが、本数が少なくて帰ってこれるか心許ない状態だったので、タクシーを呼ぶことにしたんです」
やってきたタクシーの運転手は、人当たりの良さそうな40代くらいの中年男性だった。
「『一人旅とは良いですねえ。私もそういう旅行がしてみたいもんですよ』なんて気さくに話しかけてくれる運転手さんでした。私が『仕事に疲れて旅行に来たんです』と話すと、『若いのに、ご苦労されているんですねえ』と気遣ってくれました」
◆「少し変な様子」に若干の違和感
目的の渓谷に着くと、他に観光客はおらず、どこか寂しい雰囲気だったという。
「運転手さんが、道に迷うと危ないからって、道案内を買って出てくれました。それで、渓谷を眺められる場所に着いたんですが、運転手さんの様子が少し変でした。柵にもたれかかるようにして、崖の下をじっと覗いているんです。気になりましたけど、こうした場所は見飽きているので、『ただボーッとしているだけなのかも』とも思いました」
野中さんが声をかけると、運転手は一転して笑顔になり、タクシーまで案内してくれた。その後はホテルに戻る予定だったのだが……。
「運転手さんに、『もう一箇所、紹介したい場所があるんですが、行きませんか?』と言われました。そこも綺麗な景色が見える渓谷で、ガイドブックにも載っていない穴場だそうで。せっかくのお誘いですが、あまり旅の予算もなかったので断ると、『お金はいいので』と言われて、メーターを止めてその場所に向かうことに」
◆「一緒に楽になりませんか」の一言に背筋が凍った
その道すがら、しばらく黙っていた運転手が、ポツリポツリと語り出した。
「境遇についてのお話でした。『自分がこの仕事をしているのは、社長をしていた会社が潰れて、借金を返さなきゃならないからなんです。でもねえ、コロナになって観光客も減って、からっきしなんです。だからもう嫌になってしまってねえ。ああいう高いところに行くと、ここから飛び降りたら楽になれるのになあと思うんです』と……」
運転手は多額の借金を背負い、家族にも去られた。子供たちとももう何年も音信不通の状態だという。
「運転手さんに『大変だったんですね』と共感する言葉をかけたんです。そうしたら、『分かってくれますか? あなたも都会で疲れてここに来てるんですよね? なんなら、一緒に楽になりませんか……』と言われました」
走っているのは崖沿いの山道で、少しハンドルを切れば、切り立った崖から車を落とすこともできるような場所……。
「背筋が凍るような思いのなか、必死にフォローする言葉を考えました。『何言っているんですか、運転手さん。さっきの綺麗な景色を見たら、疲れなんて吹っ飛んじゃいましたよ。もう、そんな冗談言わないでくださいよー』って」
◆運転手が向かおうとした場所は…
車内に嫌な沈黙が流れた後、運転手が口を開いた。
「気まずそうな様子で『そうですよね。いやー、冗談ですよ』と言いました。私は『お言葉に甘えたいところなんですが、ホテルの夕飯の時間が決まっているので、ホテルに向かってください』と告げました」
タクシーは、ホテルに向かう道を進むことに。
「帰りの道中、私はこれまでに経験した笑える失敗談を話し続けました。暗い雰囲気になるのが怖くて必死で……。ホテルに無事着いて料金を払い、運転手さんを見送る時は、足がガクガクと震えていました……」
その後、運転手が向かおうとした場所を調べてみると、有名な自殺の名所だったことがわかった。せっかく楽しみにしていた夕食も、残念ながら一口も喉を通らなかったという。
<TEXT/和泉太郎>
【和泉太郎】
込み入った話や怖い体験談を収集しているサラリーマンライター。趣味はドキュメンタリー番組を観ることと仏像フィギュア集め

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