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婚約決定後の1989年9月、国際交流事業「東南アジア青年の船」の出港式に出席された紀子さま /(C)JMPA

“オールウェイズ・スマイル(いつでも笑顔で)”と、紀子さまは学生時代にしたためた手紙の末尾に添えられていたという。日本中を癒したそのほほ笑みは、いつしか“般若”と誹謗する者も出るほど、批判を集めるようになってしまった。

美智子さまをお手本に、皇室を支えるための奮闘を重ねてきたはずの紀子さま。だが、その強すぎる使命感が眞子さんの反発を招き、国民との距離を広げる端緒ともなった。

紀子さまのお顔には、いつものように、あのほほ笑みがたたえられていた。関東大震災から100年となる今年9月1日東京都墨田区東京都慰霊堂で執り行われた「秋季慰霊大法要」には、多くの遺族らとともに秋篠宮さま、そして紀子さまのお姿があった。焼香を行われた紀子さまは、秋篠宮さま以上に長く、深く頭を下げられていたのが印象的だった。

秋篠宮家をめぐっては昨今、国民が不安を抱くようなニュースばかりが、次々と報じられている。

30億円以上もの費用を投じて改修された秋篠宮邸に、次女の佳子さまだけが移らず、お一人で旧御仮寓所にお住まいになっている“別居”問題。さらに、長男・悠仁さまが、海外から来日した高校生との懇談の場で見せた“無表情”ぶりを心配する声もーー。

さかのぼれば長女・眞子さんの結婚についても、多くの国民から、心配や不満の声が上がっていた。静岡福祉大学名誉教授・小田部雄次さんも、沈んだ声でこう話す。

「眞子さんの結婚問題が浮上して以来、悠仁さまご進学の経緯、秋篠宮邸の改修と御仮寓所にかかった費用の変転など、秋篠宮家の私的活動での不透明さに批判が集まり続けています」

いっぽうで今月20日からご夫妻がベトナムへ、11月には佳子さまもペルーへの公式訪問と、秋篠宮家は筆頭宮家として皇室で最もご公務に臨まれている。にもかかわらず、秋篠宮家に対する厳しい指摘は、いっこうにやみそうにない。

「民間から皇室に入られ“気持ちがわかる”はずなのに、紀子さまが国民に理解を求めようとされていないように感じています……」

母校である学習院女子高等科のOGがこう嘆くように、紀子さまが批判の対象となることも少なくない状況になっているのだ。ほほ笑みについても、宮内庁関係者は「『アルカイックスマイル』などとやゆする者もいます」と眉をひそめる。

「以前から、『紀子さまの笑みは、顔の筋肉は動いてはいても、目は笑っていない』と指摘する者もいました。紀子さまは、美智子さまのなさりようを見習われて、いつも笑みを絶やさないようにされているのかもしれません。しかし、『表面的に模倣されているだけに思える』と手厳しい声もあります」

だが、紀子さまのそのほほ笑みに日本中が魅せられていた時代が、かつてあった。『秋篠宮』(小学館)などの著書があるジャーナリストの江森敬治さんは言う。

1990年、秋篠宮さまのご成婚により、『紀子さまブーム』が巻き起こりました。行く先々で大勢のマスコミに囲まれ、数多くの国民から祝福されておりました。私は、紀子さまの結婚によって、皇室と国民との距離がぐっと縮まったように感じました」

33年前、紀子さまは23歳。国民に向けて振りまかれたその笑顔は「紀子さまスマイル」と呼ばれ、一世を風靡した。美智子さまを見習われて、国民へ向け続けた「スマイル」は、いつ変貌してしまったのか。そして、“庶民出身のプリンセス”が、やがて皇嗣妃となるなかで、いったいどんな懊悩があったのか。

■かわいらしい笑顔の「キコちゃん」はブームとなった

1966年9月11日、紀子さまは川嶋辰彦さん、和代さんの長女としてお生まれになった。場所は和代さんの実家のある静岡県。ご成婚当時、母方の祖父・杉本嘉助さんは本誌に寄せた手記のなかで、紀子さまの誕生をこう振り返っている。

《生まれてきたばかりのあなたは2千850gの小さな赤ちゃん。全然泣きもせず、痩せていて目ばかり大きな子で、この祖父はちょっと拍子抜けしたものでした》(1990年7月17日号)

紀子さまが1歳のとき、経済学者で、のちに学習院大学の教授になる父・辰彦さんの海外留学のため一家はアメリカに渡り、6歳までを同国で過ごされた。紀子さまが小学生のころの川嶋家は、辰彦さんの研究活動のために、国内各地やオーストリアなど外国を転々とする多忙な生活を送っている。

その後一家は帰国し紀子さまは学習院女子中等科に編入。そのまま高等科、大学へと進まれた。そこに運命の出会いが待っていた。

学習院大学文学部に入学早々、紀子さまが大学構内の書店で出会われたのが、当時法学部の2年生でいらした秋篠宮さまだった。

出会いから時を隔てずに、秋篠宮さまが東宮御所にお招きになると、すぐに紀子さまは上皇さまや美智子さまとも打ち解けられた。上皇ご夫妻は紀子さまを「キコちゃん」と親しく呼ばれていたという。

そして、1986年6月。大学近くの交差点の信号待ちのさなか、ふと振り向かれた秋篠宮さまから「私と一緒になってくれませんか」と告げられた紀子さま。突然のことに驚かれ、「少し考えさせてください」とお言葉を返された。初々しいやりとり─このプロポーズの逸話は、のちにすっかり有名になった。

お二人のご結婚は、1989年9月12日に開かれた皇室会議で正式に決定。学習院大の教員住宅から皇室に嫁ぐ紀子さまは「3LDKのプリンセス」とも呼ばれ、平成改元後初めてとなる皇室の慶事に、日本中が沸き立った。前出の江森さんはこう述懐する。

「皇室会議後の記者会見で秋篠宮さまは、紀子さまの魅力について次のように語っています。『話をしていて楽しい人。また、どことなく愛嬌があるというか……』『付け加えると、非常に話題が豊富な方じゃないかと思っております』。

紀子さまの好奇心旺盛な性格に加えて、外国でのいろいろな国の人たちとの交流や人に対する深い思いやり、話題の豊富さ、こうしたところに秋篠宮さまは引かれたのではないでしょうか」

1990年6月29日に執り行われた結婚の儀には、祖父の杉本さんも参列した。見違えるように美しくなった孫の十二単姿を目の当たりにして、手記にこうつづっている。

《静岡の祖父と祖母の前ではいつもお転婆ではしゃぎまわっていたあなたが、こんなにも立派になって礼宮さまのもとに嫁いでいくなんて、まるで夢のようなことです》

こうして、愛くるしい笑顔の「キコちゃん」は、皇室の一員「紀子さま」になられたのだ。

■一時は“雅子さまより皇后にふさわしい”と称賛も…

ご成婚の翌年には眞子さん、1994年には佳子さまと、続けて内親王を授かった秋篠宮家。国民からの祝福は続き、国際親善の場では、筆頭宮家の妃殿下という大役を務められ、世界のVIPにも「紀子さまスマイル」は大好評だった。

佳子さまがお生まれになる前年の1993年、天皇家に“もう一人のプリンセス”が加わった。当時、皇太子妃となられた雅子さまだ。

二人のプリンセス、雅子さまと紀子さま。お二方とも国民から絶大な人気を集めたが、2000年代になると、雅子さまのご健康問題を端緒に、明暗が分かれていく。

雅子さまは、愛子さまご出産後の2003年に帯状疱疹を発症、翌2004年には適応障害と診断され、長期の療養に入られた。東大卒、外務省での勤務と、輝かしいキャリアを持ちながら、宮中の慣れない環境に苦悩し体調を崩され、思うようにお務めを果たせなくなった。

対して紀子さまは、結核予防会の総裁といった名誉職なども務められ、ご公務も活発にこなされていた。紀子さまが早くから皇室になじむことができたのは、“美智子さまを範とした”ためだとも言われている。

「ご結婚前に東宮御所でお会いして以来、紀子さまはたびたび上皇ご夫妻と交流を重ねられていました。この親密なご関係が、妃殿下となられたのちの紀子さまの大きな支えとなったのだと思います。

紀子さまは、秋篠宮さまはもちろんのこと、上皇ご夫妻からも多くを学び、吸収されたのです。とくに美智子さまは紀子さまの大きなお手本だったのでしょう。

直接、教えを請われたり、あるいは美智子さまのなさりかたをご覧になりながら、妃殿下としての理想像を追求されました」(江森さん)

当時の皇室担当記者のなかには、「驚くほどたたずまいや身のこなし方が、お若いころの美智子さまに似てこられた」と話す者もいた。

「療養生活に入られて以降、雅子さまに対して批判的な報道が相次いでいました。雅子さまと紀子さまのご公務数をあえて比べる記事、読者アンケートの結果として“皇后にふさわしいのは雅子さまよりも紀子さま”と伝える記事など、次代の女性皇族のリーダーにふさわしいのは紀子さまではないのか、という論調の記事が多かったのです」(前出・皇室担当記者)

2006年、紀子さまの運命を変える出来事が起こる。この年の9月6日、皇室では夫の秋篠宮さま以来、じつに41年ぶりの親王・悠仁さまを出産されたのだ。

皇室典範では、皇統に属する男系男子が皇位を継承することが定められている。“お世継ぎ”の誕生に、再び国民は沸いた。悠仁さま誕生直後の読売新聞夕刊は、帝王切開の手術を担当した愛育病院の中林正雄院長による記者会見を報じている。

記事中には紀子さまが「男の子はどうやって作ればいいのでしょう」と、中林院長に冗談で語られていたエピソードも掲載されている(※同年9月15日に中林院長は発言を取り消した)。

悠仁さまご誕生前の2004年には、政府内に「皇室典範に関する有識者会議」が設けられるなど、女性・女系天皇容認の議論が活発に行われていた。そのような状況に紀子さまはある種の“使命感”を抱かれていたのだろう。前出の宮内庁関係者がこう証言する。

「秋篠宮さまは、弟宮として兄である当時の皇太子、現在の天皇陛下がお子さまをもうけることに期待されていました。ですが、その見通しが難しいという状況や、次世代の後継者がいないことを憂慮される上皇さまを安心させたいと、秋篠宮ご夫妻は妊活を決意されたのです。

なにより、紀子さまご自身、敬愛してやまない上皇ご夫妻を安心させたいと強くお考えでした。それが紀子さまの、言うなれば使命感だったのであり、お覚悟であったのではないでしょうか」

紀子さまのお心の中で、“美智子さまのように、人々に愛される国母になりたい”というお気持ちが芽生えていたのだろうか。だが、“将来の天皇の母”として使命感を確立されていくいっぽうで、その姿勢が国民との距離を微妙に広げることになったのも、紀子さまにとっては“誤算”だったのだろう。前出の小田部さんは、次のように指摘する。

「紀子さまは当初、庶民出身のプリンセスということで、国民と近い距離を保っておられた印象があります。しかし、悠仁さま誕生後の秋篠宮家には、“将来の天皇家である”という意識と強い責任感が芽生えたように感じています。

責任感に縛られるあまり、ご公務なども従前の形を踏襲するという、形式的なことにより強くこだわられるようになったのです。かつての気さくな形で国民生活に寄り添うといったスタイルが、薄れていった印象を受けました」

■眞子さんの結婚で逆風が…強すぎる使命感が深めた周囲との溝

秋篠宮家への国民からの風向きが大きく変わったのが、2017年の長女・眞子さんの結婚問題だった。同年9月の婚約内定会見の約3カ月後、お相手の小室圭さんの母・佳代さんが抱える金銭トラブルが発覚。小室家のさまざまな問題が報じられ、結婚は延期。秋篠宮さまが納采の儀を行う前提としていた「多くの人が(結婚を)納得し、喜んでくれる状況」にはほど遠く、儀式は見送られた。

そして2021年10月、眞子さんは女性皇族としては異例の、一連の儀式も結婚式も行わないまま入籍し、皇籍を離脱した。小田部さんは、このときの秋篠宮さまの姿勢に、次のように疑問を呈する。

「そもそも秋篠宮さまが、眞子さんの結婚の可否について、国民の声の大切さを述べておられながら、最終的には国民が納得しないまま結婚を認めてしまわれました。また眞子さんと小室さんは結婚会見で、人々の理解を求めるのではなく“反対する人は敵”という姿勢すら見せたのです。そのことは、秋篠宮家と国民との距離を広げる一因となっていきました」

小田部さんは、悠仁さまがお生まれになって以降に強まった紀子さまの使命感が、眞子さんと佳子さまを困惑させたように感じているという。

「秋篠宮ご夫妻は、眞子さんと佳子さまの将来について、自由恋愛でお好きな方と結ばれ、皇室を離れたのちは自由に暮らしてほしいと願われていたと思います。

しかし、皇位継承権を持つ悠仁さまのご誕生で芽生えた秋篠宮ご夫妻の“将来の天皇家”という意識と責任感は、従来の自由度までも薄めてしまったようにお見受けします。お二人は、幼いころから抱いていた将来への見通しとのギャップに苦悩されたはずです。こうした未来像の不一致が、ご家族の関係に影を落としてしまったことは否定できません」

眞子さんの結婚問題以来、国民の厳しい目が注がれるようになった秋篠宮家。学習院大学OGで昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員の藤澤志穂子さんは、次のように話す。

「悠仁さまがお茶の水女子大附属中から筑波大附属高に進まれたのも、『提携校進学制度』という一般的ではないルートでした。

紀子さまが、“なんとしても悠仁さまを東大に入れたいと思われている”と言われてきました。もしそれが事実だとしたら、“紀子さまは雅子さまや愛子さまに負けずに存在感を発揮したいのか”という印象を国民に広げてしまうのは、無理もないように思えます。

こうしたご姿勢が、“皇嗣家としての特別扱いをうまく利用されている”という批判につながっているのでしょう」

また、紀子さまのご熱意が、周囲に緊張感を生じさせているようだ。皇嗣家となった秋篠宮家は、職員数も20人から50人以上へと倍増。しかし、離職率が高く、職務に支障が出ているという指摘もある。

「皇嗣妃となられた紀子さまは“私が皇室を支えなければ”という思いが強くなられたのです。その結果、仕事への要求水準が高くなられて指示も細かく、職員はいつも戦々恐々としています。退職する者も後を絶たないという状況が続き、“ご難場”と呼ばれていることがたびたび報じられてきました」(前出・宮内庁関係者)

かつての「紀子さまスマイル」が、いつしか「アルカイックスマイル」と呼ばれるようになったことは先述したが、ご表情について苛烈な誹謗の言葉もーー。

「お車でのご移動中、渋滞にはまると紀子さまは機嫌がとても悪くなられるといい、皇宮警察本部の護衛官には、そんなときの紀子さまのお顔を“般若”と誹謗している者がいる、という証言が週刊誌で報じられたことがあります」(前出・皇室担当記者)

学生時代にしたためた手紙には、最後に必ず「オールウェイズ・スマイル(いつでも笑顔で)」と書かれていた紀子さま。それは、笑顔こそ周囲の人々や自分を幸せにするという父・川嶋辰彦さんの教えだったという。紀子さまはいまも覚えていらっしゃるはずなのだがーー。

■「次代のトップが受ける洗礼」

現在も引き続き物議を醸しているのが、巨額の公費が投じられた秋篠宮邸の改修と、その新しくなった宮邸に佳子さまがお住まいになられていないという問題だ。

「佳子さまがお一人でお住まいになっている旧御仮寓所の改修工事が今秋に始まります。宮内庁や皇嗣職は“ひとり暮らし”とは関係がないと強調していますが、予算について不透明さが残るという指摘もなされており、問題は依然として尾を引き続けています」(前出・皇室担当記者)

3LDKのプリンセスとして愛されたころのように、人々に敬慕される皇嗣妃になるため、紀子さまがなさるべきこととはーー。

「天皇家をお支えする、いち宮家であるという意識を再確認されることではないでしょうか。“将来の天皇家”という意識を一度捨てて、“現在の天皇家のサポーター”という一歩下がったスタンスを徹底されることで、状況が打開できるように思えます」(小田部さん)

いっぽう「これは、次代のトップが受ける洗礼」という意見もある。前出の宮内庁関係者は言う。

「皇室は常に、天皇皇后両陛下を頂点にいただいているため、それに次ぐ立場の方が、まるで洗礼を受けるかのように逆風にさらされてきたのです。昭和天皇崩御後は、美智子さまへのバッシングが起き、“失声症”になられたこともありました。

平成には、“ご公務が少ない”という理由で、雅子さまが執拗に批判され、さらには“皇太子さまは皇位継承を辞退すべき”という“廃太子論”を公然と打ち出す論客すらいました。それと同じことが、秋篠宮家に対して起こっているようにも思えます」

小田部さんは、現在の“逆境”を乗り越えるためのよきお手本は「紀子さまのお近くにいらっしゃるのでは」と話す。

「批判やバッシングを受け止めるのは、心身にたいへんなご負担を強いることとは思います。美智子さまと雅子さまは、国民の象徴・天皇家の一員として、猛烈な批判から目をそらされず、毅然と受け止めてこられた。その姿勢が大事なのだと思います」

批判をも毅然として受け止められ、周囲の人々を幸せにするための笑顔を取り戻すーー。そうしたご姿勢が、紀子さまが“愛される国母”となられる道を開くと信じてやまない。