ドラマや映画でも有名な、ペリーによる「黒船来航」(1853年)。これにより鎖国が終わり、近代日本へと向かっていったことはなんとなくわかってはいても、この背景や詳しい中身についてはあまり知らないという人も多いのではないでしょうか。今回は、有名予備校講師で『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者の山中裕典氏が、1840~50年代の開国が日本にもたらした影響について解説します。

ペリーとプチャーチンの来航が「鎖国ニッポン」を変えた

【欧米列強のアジア進出と日本】

アメリカは、日本では田沼時代にあたる、18世紀後半に建国されました。

国土は大陸東岸(大西洋岸)から西岸(太平洋岸)まで拡大し(カリフォルニアでの金鉱発見によるゴールド・ラッシュも西岸への人口移動を促進)、19世紀半ばに北太平洋での経済活動(捕鯨や清[シン]との貿易)が活発になると、燃料・水・食料を入手する寄港地の役割を日本に期待しました。

ペリーは浦賀[うらが]来航の直前に琉球[りゅうきゅう]を訪れ、下田[しもだ] ・箱館[はこだて]の開港を定めた日米和親条約調印の直後に琉球と条約を結んでおり(箱館・下田・琉球は、ほぼ等距離に位置する)、アメリカの総合的な東アジア戦略がうかがえます。

また、欧米の対外進出の背景には、機械制生産の進展(産業革命)がありました。機械は人間の出せないパワーを休むことなく出し続けるので、原料不足と製品余剰を生じさせます。

こうして、原料供給地や製品市場が不可欠となり植民地・権益の獲得や不平等条約による経済進出を進め、その波が幕末の日本にも押し寄せてきたのです。

和親条約の不平等性は、どのような点にあるのか?

天保[てんぽう]の改革の直後、幕府は「鎖国」を理由に、オランダ国王の開国勧告1844)や、アメリカのビッドルによる通商要求(1846)を拒絶しました。

しかし、ペリービッドルの失敗を教訓に、軍事力を誇示して開国と通商を迫ると1853年、軍艦4隻で相模浦賀[さがみうらが]へ来航)、12代将軍家慶[いえよし]が病に倒れる状況下で幕府は決定を避け、ペリーを帰国させました(将軍は13代家定[いえさだ]に)。

「黒船」に蒸気船が含まれたことから、「太平の眠りを覚ます上喜撰[じょうきせん]たった四杯[しはい]で夜も寝られず」(「上喜撰」=上等の茶)という狂歌も登場しました。

翌年ペリーが再来航し、幕府は日米和親[わしん]条約1854)を結びました。伊豆下田[いずしもだ]と蝦夷地箱館[えぞちはこだて]を開港し、アメリカ船が望む物資は幕府が供給しました。政府の規制が無い自由貿易は許可せず、幕府のしたたかな交渉がうかがえます。

しかし、片務[へんむ]的最恵国[さいけいこく]待遇が規定されました。「近代国家の三要素」の一つである主権は、国内の個人や集団を支配し、国外からの干渉を退ける独立性・対等性を持ちます

他国よりも不利にならないように優遇する最恵国待遇について、それを与える義務が日本にのみ存在するのは(片務的)、主権の面でアメリカと対等とは言えません。

江戸幕府は、ロシアとどのように向き合ったのか?

ペリーと同じタイミングでロシアプチャーチン長崎へ来航し、翌年に結ばれた日露和親条約では、千島[ちしま]列島の択捉島[えとろふとう]得撫島[うるっぷとう]の間を日露間の国境としました(樺太[からふと]は両国の国境を定めず)。

こうして、日本は米・英・露・蘭の4カ国と国交を樹立し、「鎖国」体制を転換しました。

日米修好通商条約の「不平等性」

和親条約で許されなかった自由貿易を実現すべく、アメリカは通商条約の締結を日本に迫りました

下田に着任した総領事[そうりょうじ]ハリスは幕府と交渉を始め、アロー戦争イギリスフランスが清[シン]に仕掛けた戦い)の状況を幕府に説くと、幕府は日米修好通商[しゅうこうつうしょう]条約1858)を結んで自由貿易を許可しました。

神奈川(実際は横浜)・長崎・新潟・兵庫(実際は神戸)の開港と下田の閉港が規定されたものの、新潟と兵庫は開港が遅れ、横浜・箱館・長崎で貿易が始まりました。一方、外国人の居住を開港場の居留地[きょりゅうち]に限定し、日本国内での外国人の内地雑居[ないちざっきょ]を認めなかったことで、欧米の経済的侵略を防ぎました。

しかし、協定関税[きょうていかんぜい]制領事裁判[りょうじさいばん]権の承認が規定されました。

安い外国の品が輸入されると日本の品は売れませんが、関税をかけると日本の品は売れるようになります。関税は国内産業を保護する機能を持ち、輸入側が一方的に関税率を決めることは主権の行使に該当するので(関税自主権[かんぜいじしゅけん])、関税率を日米で定める協定関税制は日本の主権が独立していないことになります。

また、日本でのアメリカ人の犯罪を領事がアメリカの法で裁く領事裁判は、日本にいるアメリカ人に日本の法が及ばず治外法権[ちがいほうけん])、日本の主権が侵害されていることになります。

最終的に、日本は米・蘭・露・英・仏と通商条約を結びました(安政[あんせい]の五カ国条約)。そして、批准[ひじゅん](各国政府の承認)の書面交換のための使節をアメリカへ派遣する際、咸臨丸[かんりんまる]勝海舟[かつかいしゅうが艦長)が同行しました。

「対欧米貿易」の開始から「尊王攘夷運動」へ

国内産業への影響

1859年に始まった対欧米貿易は、開港場の居留地で取引する形態で(横浜での取引が他を圧倒)、イギリスが相手国の中心となり(アメリカは国内を二分した南北戦争[1861~65]が展開した時期)、全体として輸出超過でした。

輸出品は生糸が中心で(日本は室町時代から中国産生糸の輸入国だったが、江戸時代中期以降に生糸の国産化が進んだ)、蚕[かいこ]の繭[まゆ]から生糸をつくる製糸業は、輸出に伴う生産増でマニュファクチュア(工場制手工業)が進展しました。

しかし、生糸から絹織物をつくる絹織物業は、原料の生糸が不足して衰退しました。また、輸入品は毛織物綿織物が中心で、いち早く産業革命が進展したイギリスの綿製品との競争に負け、国内の綿織物業や、綿糸の原料の綿花を栽培する綿作[めんさく]は衰えました。

こうして、輸出産業の中心となった製糸業の発展と、衰退した綿産業の回復が、明治期以降の殖産興業の目標となりました

国内社会への影響

農村の在郷商人[ざいごうしょうにん]は、江戸の問屋商人[といやしょうにん](同業組合の株仲間[かぶなかま]を結成)を通さず、開港場の横浜へ輸出品を直送しました。

品不足での物価上昇を抑え、株仲間を通した流通統制を維持するため、幕府は五品江戸廻送令[ごひんえどかいそうれい](1860)で、生糸などの江戸経由を命じましたが、効果は上がりませんでした。

また、金と銀の交換比率(金銀比価[ひか])が、日本では金1:銀5、外国では金1:銀15だったので、大量の金貨が海外へ流出しました。幕府は慌てて万延小判[まんえんこばん]を鋳造しました(1860)。

金貨のサイズを3分の1にして、日本の金銀比価を金1/3:銀5、つまり金1:銀15としたので、外国と同じになって金貨の流出は止まりました。しかし、貨幣の額面は同じなのにサイズが3分の1になって貨幣価値が下落し、物価は上昇しました

物価上昇は庶民の生活を圧迫し、農民の百姓一揆[いっき]や都市下層民による打ちこわしが増加しました。一方、列強の圧力による対外的危機感や開国への不満から、外国人殺傷や公使館襲撃などの攘夷[じょうい]運動が激化しました。

こうして、天皇を「王者」として尊ぶ尊王[そんのう]論に、外国排斥を唱える攘夷論が結合した尊王攘夷論は、現実の政治を動かす尊王攘夷運動として高まっていったのです。

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)