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週2回、1回4時間ほどかけて仕上げた“傑作”の前で、漫画家や編集者など仲間に囲まれて笑顔がはじける蛭子さん(撮影:加治屋誠)

認知症公表から約3年、テレビ出演が激減し蛭子能収さん(75)だが、ただ今開催中の「最後の展覧会」展が連日の盛況を呈している。

蛭子さんの再婚は何を隠そう、本誌のお見合い企画から。以来、20年の付き合いがある本誌記者が、今回の展覧会に至るまでの裏側に完全密着。約1年をかけて新作絵画19点を描き上げた蛭子さんと、それを支えた旧友たちの愛と葛藤の物語。認知症700万人時代は、“助け合い”と“笑い合い”で乗り越えるのだ――。

「あれ〜、すごいですね。でも絵はちょっと雑なような……」

自分の作品が並んだ展覧会場で、タレントで漫画家の蛭子能収さんはこう口にした。

’20年7月に認知症を公表した蛭子さんが、今夏に描き下ろした絵画19点を展示する「最後の展覧会」(監修・根本敬)が、9月7日から30日まで、東京・南青山にある「Akio Nagasawa Gallery Aoyama」で開催されている。

開展日の前日、同じ会場で蛭子さんを古くから知る漫画家や編集者たちを集めたレセプションパーティが行われた。

パーティの少し前に会場に入った蛭子さんが、白壁に並べられた作品をひとつずつ見ていく。

かつてのタッチとは趣きが異なる蛭子さんの絵。色鮮やかなキャンバスに、クネクネと曲がりくねった線、無造作に打たれた点、不思議な形の物体、さまざまな色を使い自由闊達に絵筆で描かれた作品は、まるで抽象画のようだ。

「これは誰の絵ですか……?」

と蛭子さんはぽつり。

認知症の症状は、ゆっくりだが確実に進行していく。

「蛭子さんが描いたんですよ」

と、わたしが伝えると、蛭子さんは少し不安な顔つきをした。

昨年秋から今夏にかけて約1年間、展覧会に向けてキャンバスと向き合った記憶はすでに消えているーー。

やがて会場に、古くからの知り合いが集まりだした。

「蛭子さん、久しぶり。オレが誰だかわかる?」

すいません、まったく覚えていないんですよね……」

申し訳なさそうに頭をポリポリ。

集まったのは40年以上前からの仲間たち。覚えていないと言われた人は「ま、いいか」と複雑な笑みを浮かべるしかない。

認知症の代表的な症状はもの忘れ。記憶がすっぽり抜けること。タレントになる前の漫画家時代を思い出せないのかもしれない……。

それでも蛭子さんは、途切れた糸が再びつながるように、体調がいいときは、会話が通じ合い、古い記憶を語ることさえある。

展覧会場に、蛭子さんの絵を見た人たちの感想が聞こえてくる。「色づかいのセンスがいいよね」「タイトルの付け方が蛭子さんだ」。なかには「蛭子さんが楽しそうに絵を描いていたと思うとうれしいね」とつぶやく人もいた。

蛭子さんを包み込むふんわりとした空間。覚えていてもいなくても、かつての仲間たちに囲まれて、蛭子さんの表情が穏やかになる。

絵画展のために用意した作品のなかに、スケッチブックに描いた絵がある。《ギクッ》と銘打たれたその絵の前に立った蛭子さんは、ペンを握り、自筆のサインとともに空白の部分に男性の絵を描き加えた。それによって《ギクッ》というタイトルが際立った。

「蛭子さん、すごい!」

歓声があがる。気をよくした蛭子さんが持つペンは、紙をはみ出して白壁にまで。展覧会場のスタッフも苦笑するしかない。

かつての漫画家仲間や一緒に仕事をした編集者が囲み、語りかけ、一緒に写真におさまる。蛭子さんの周りに笑顔が咲く。

蛭子さんもおなかの底からうれしそうに笑う。人のよさそうなあの笑顔が満開に。

それだけで、わたしは蛭子さんの最後の展覧会を手伝ったことに満足した。

認知症を公表後、仕事は激減。見かねた旧友たちが“最後の展覧会”を計画

わたしは、本誌で連載していた「蛭子能収の人生相談」の担当記者。月1回、蛭子さんに話を聞いては記事にまとめていた。

蛭子さんとの最初の出会いは20年前。先妻に先立たれ、孤独に耐えられないと語っていた蛭子さんに「誌上お見合い」の企画を持ち掛けたのがきっかけ。蛭子さんはそのお見合いで今の妻である悠加さん(57)と巡り合った。初デートを演出したわたしは“愛のキューピッド”気取りだったが、その後、連載の打ち合わせで蛭子さんと会ったときには、わたしのことをすっかり忘れていた。

連載の人生相談は蛭子さんの“ゆるくて鈍い”回答がさえた。

たとえば、心通わせる愛猫を失ったあとのペットロスが怖い、という読者に、蛭子さんは、自ら猫を飼っていたことを明かしながらも、

「動物と人は、気持ちが通じ合いません。通じると思っているのは人間の思い込みですよ」

と、バッサリ切りつつ、死んだ猫の墓参りには毎年行っていることを付け加えた。

蛭子さんは、’14年認知症の一歩手前である「軽度認知障害」と診断された。取材でも人の名前を忘れたり前日のロケのことを覚えていなかったりと兆候はあった。しかし、興味がないことに無関心な蛭子さんの“味”だと思っていた。

’20年7月、蛭子さんは、アルツハイマー病とレビー小体型認知症を併発していることを公にした。

ボケても、仕事したい」

公表後にこう話していた蛭子さん。コロナ禍と重なり直接会う機会は減ったが連載は続いた。

ところが症状は思いのほか進行した。自分について語ることはできるが、人の悩みに答えるような言葉は出てこなくなった。

「今こそ蛭子さんに絵を描いてもらって、展覧会を開催できたらと思っているんです」

’21年秋、連載の担当編集者がこう切り出した。サブカルチャー好きの編集者は、タレントよりも漫画家としての蛭子さんのファン。認知症を公表後、テレビの仕事が激減した蛭子さんに、絵の仕事をしてもらおうという提案だった。

認知症をなめていると思った。

じつは、わたしの母も認知症だ。5年前に80歳直前でアルツハイマー型認知症と診断された。朗らかだった母から、昼夜問わず被害妄想にかられて「財布が盗まれた」「誰かが家にいる」と連絡が入った。読書が趣味だったが集中力がなくなり、本を手にすることもなくなった。母と接するとき、わたしの顔つきは、いつも怒りをあらわにするか無表情だった。

蛭子さんに母の姿を重ね、絵を描くことは難しいと考えていた。

それでも展覧会の計画は、蛭子さんの友人で特殊漫画家の根本敬さん(65)のサポートもあり実現に向けて動き始めた。

根本さんが語る。

認知症を公表したあとに蛭子さんから“絵を描きたい”と電話があったんです。蛭子さんの作品に衝撃を受けて漫画家になった僕は蛭子さんに絵の世界に戻ってきてほしかった。だから『協力するよ』と返したら『持つべきものは友やね』と。それまで蛭子さんは人に僕を紹介するとき“オレのことをおもしろおかしく書いて食っている人”と平気で言う人。蛭子さんから友という言葉が出てビックリ。

蛭子さんは絵を描くスピードがものすごく速いから、展覧会はできるなと思っていました」

根本さんが知り合いの画廊と話をつけて展覧会場と開催日が確定した。あとは蛭子さんが“やる気”を出すだけだが……、それこそが最大の問題だった。

■高校時代は美術クラブの人気者。’80年代サブカルチャーを席巻した鬼才の原点

’47年10月21日熊本県天草市で生まれ、すぐに長崎市に移り住んだ蛭子さん。父親は遠洋漁業船の乗組員で、年の離れた姉と兄はすでに家を出ていたため、末っ子の蛭子さんは、ふだんは母親のマツ子さんと2人暮らしだった。

長崎市商業高校を卒業後、地元の看板店に就職。その4年後の’70年、22歳のときに上京。広告代理店の看板部門で働きながら2歳年下の先妻と結婚。’73年、25歳のときに、白土三平水木しげるつげ義春が連載した漫画誌『ガロ』でデビュー。漫画家を目指したが、2人の子供を抱えていたため生活費を稼ぐためにチリ紙交換、ダスキンのサラリーマンを経験した。

蛭子さんが芸能活動を始めたのは’86年。蛭子さんは「素人の時代の波に乗って」とかつて語っていたが、タレントや俳優として八面六臂の活躍。怪しくて情けない笑顔、空気を読まない行動、不謹慎な発言が人気を集めた。あとは説明するまでもないだろう。

テレビを通して蛭子さんを知る人こそ多いが、ここでは絵の才能について振り返ってみよう。

長崎市商業高校の美術クラブで蛭子さんとともに絵を描いていた土平啞倭子さん(75)が語る。

「グラフィックデザイナーの横尾忠則に憧れていた蛭子君は、グループ展ではギラギラ光るような絵をよく描いていました。でもそんなサイケデリックな絵は、県や市が主催するコンテストでは落選してしまうんですよ。そこで蛭子君は『市長賞を絶対とる』と審査員のことを調べ上げて『精密に描けば賞はとれる』と審査員の好みに合わせて木々を細かく描いていました。賞をとるためといえばしたたかだけど、憎めないんです」

そんな蛭子さんは美術クラブの人気者だったという。

「みんなは蛭子君のことが好きでした。しかめっ面を見たことがありません。毒気のあるひと言を言って笑わすんですが、わたしもよく“おまえは(肌が)黒かね”と言われました。あのヘラヘラした顔で言うから、みんな笑ってしまうんですよね」(土平さん)

看板店に勤めながら、友達が作った漫画クラブに参加していた蛭子さん。NHK長崎放送局に

「働きながら漫画を描いている青年」として取り上げられたこともある。

長崎市出身の漫画家でツージーQこと、辻村信也さん(68)が振り返る。

「中学1年生のときにテレビで紹介されたのが蛭子さんの漫画。長崎のシンボルの稲佐山の地下に宇宙船の基地があるというストーリーでしたが、きれいに色が塗られ、コマ割りも斬新。当時の主流だった手塚治虫さんの娯楽という範囲にとどまらない蛭子さんの漫画に驚きました。長崎にこんなすごい人がいるんだ、と衝撃を受けて、蛭子さんの漫画クラブに顔を出して教えてもらったことがあります」

漫画誌『ガロ』の編集者で、現在は、雑誌『アックス』を出版する青林工藝舎の手塚能理子さん(67)はこう話す。

「蛭子さんが『ガロ』に入選した’73年、私は一読者でしたが、不条理な展開、いらだちと妄想が入り交じる笑いで、それまでの漫画にはないパワーに圧倒されました。ヘタウマ漫画の祖といわれる湯村輝彦さんも、蛭子さんの入選作に影響を受けたと話していたくらい。

とくにコマのどこを切り取ってもポスター作品になるほどのデザイン力は天性のものでしょうね」

“いつもやる気がない”がトレードマークの蛭子さんには別の顔があったと手塚さんが続ける。

「’80年のあるとき、漫画だけでは食べられないから長崎に帰ると、蛭子さんが編集部を訪ねてきたことがありました。当時の社長が蛭子さんの才能を惜しんで『単行本を出してあげるから売れなかったら長崎に帰ればいい』と引き留めたんです。初の単行本『地獄に堕ちた教師ども』が発売されたら話題になって売れに売れました。蛭子さんも中央線沿線の書店を巡って『オレが描いたんです』と一生懸命に営業していました」

そう、蛭子さんは、’80年代のマイナー系の漫画の世界において旗手と目されていた。しかし、蛭子さんはその後、喜び勇んでテレビの世界に飛び込んでいった。

■描きたくないものは描かない。認知症になっても変わらない“自由を愛する本質”

早く死んでくれないかーー。家族が親の死を願うのが認知症という病気だ。少なくとも、わたしはそう考えていた時期がある。

そのころ、悠加さんからこんな話を聞いた。

認知症を公表したあと、所属事務所の社長と仕事を整理していく話をしたら、主人は思いのほかショックを受けてしまったんです。その帰り道、気分を落ち着けようと海浜公園に寄りました。

望んでもいないのに不本意な状態になってしまったうえ、仕事ができなくなることが主人にはそうとう身にこたえたようです」

誰も認知症になりたくてなったわけではない。もっとも苦しみ、悔しい思いをしているのは本人なのだ。悠加さんはこう続けた。

「海をボーっとしながら見ている主人の背中を見ていたときに、認知症になっても働きたいと思うなら応援しようと決めたんです。病気を売り物にして、と非難されるかもしれません。おかしな言動を笑われるかもしれません。でも、主人が人を喜ばせることが好きなら、認知症になってもやらせてあげようと」

悠加さんの覚悟は決まった。

テレビの世界では認知症の人は扱いづらい。漫画のようにストーリーなど考えずに、ただ筆を手にして絵を描く才能は今でもある。絵は蛭子さんにとって最後の“武器”なのかもしれない。

今回、絵の制作は、かつて蛭子さんの漫画が載っていた『アックス』を出版する青林工藝舎の一室で、体調がいい昼から夕方に行われた。根本さん、手塚さんらかつての仲間たちに見守られながら蛭子さんは絵を描くが、筆が止まることがたびたび。絵の具の色を選ぶのにも時間がかかる。

わたしは何度もじれったくなって手を差しのべたくなる。そのたびに、根本さんから「手伝ったら、蛭子さんの絵じゃなくなる」とたしなめられる。

かつて蛭子さんは、締切り間際に編集部を訪れ、8ページの漫画を小一時間ほどで描き上げて雀荘に消えていった逸話がある。絵を描くスピードは速かったが、その面影はない。

蛭子さんが、筆を持って自ら描きだすのをただただ待つしかない。ようやく描き始めても、集中力がないためすぐに止まってしまう。

大好きなどら焼きとコーヒーを用意して、制作時間よりも長く休憩を入れながら、展覧会の絵ゆっくり描き進められていった。

気づいたことがある。認知症になっても、蛭子さんは自分が描きたいものしか描かないこと。

「この空白の場所に、なにか描いたらおもしろいと思いますよ」

と言ってもまず描かない。蛭子さんは命令されるのが今も嫌いだ。

「絵を売ればお金になりますよ」

と誘っても筆は1ミリも動かない。あれほど関心があったお金だが、今は揺らぐことはない。

なんとなく絵を描き進めるコツが見えてきた。蛭子さんを囲んで、周囲が笑い話に興じていると、スイッチが入ったように、絵筆が滑りだし、絵を描いていく。周りが楽しそうにしていると、蛭子さんの筆もどんどん進むのだ。

出展する最後の作品を仕上げた日、蛭子さんを車で送ったわたしは、バックミラーに映る蛭子さんの様子がおかしいことに気づいた。

「なんか、みんなに親切にしてもらって、オレ、本当に……」

と、顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。認知症の人はなにかの拍子に感情の起伏が激しくなることもあるが、わたしは蛭子さんの涙と言葉が心にしみた。

■展覧会場には笑顔が満開。“笑い合い”こそ認知症700万人時代にさす希望の光

制作を見守った手塚さんは、訪れる蛭子さんに、いつも「初めまして!」と声をかけた。

「わたしのことはすっかり忘れているようです。だったら、毎回初対面と考えて、また新しく関係を作り上げればいいだけ。明日、忘れたら、また『初めまして』で関係を築けばいいでしょう」

認知症の母にいつもイライラしているわたしは、介護するヒントをもらった気がした。

手塚さんは、こう続けた。

「漫画家にとっての生命力は、一人でも多くの人におもしろいと思わせたい、という気持ち。漫画家は、それを背負いながら生きます。その気持ちを失ったときに、漫画家として命は終わりです。

蛭子さんが『絵を描くのが楽しい、またやりたい』と話していたことがあります。認知症になっても人を喜ばせたいという気持ちがまだまだ残っているんです」

かつて蛭子さんは、絵を描くことについてこんな話をしていた。

「小学校のときは長屋に住んでいたんですけど、近所の子を集めて画用紙に描いた紙芝居を見せたらすごい人気になったことがあるんですよ。もっと小さい子には船とか動物の絵とか描いたりしていましたね。あとは父親がいつも留守で家では母ちゃんと2人っきりでしたから、絵を描いて母ちゃんを喜ばせていました」

20歳で父親を亡くした蛭子さんは、上京するにあたって何よりも気に病んでいたのは、母のマツ子さんを1人で故郷に残すこと。

マツ子さんは、こう言って蛭子さんの背中を押した。

「好きなごとせんね」

長崎の方言で「好きなように生きなさい」という意味の言葉。おまえの好きなように……。

蛭子さんの持論は「芸術よりもサービス業」だ。人を喜ばすのが好きなのは、認知症になっても変わらない。だって蛭子さんの展覧会場は笑顔がいっぱいだ。レセプションにいたツージーQこと辻村さんも大分県から駆けつけた。

「蛭子さんの頭の中に流れる映像を見ているみたいだよ」

と、笑顔を見せた。

美術クラブで一緒だった土平さんは、50年前からやりとりしている蛭子さんの年賀状をすべて持ってやってきて、こう笑った。

「新しいステージにいる蛭子君の絵を見た気がする。これからが楽しみになった」

認知症の人がいるのが当たり前になる社会はやってくる。そのとき笑顔があれば、認知症の人も、介護する家族も肩の力が抜ける気がする。わたしもこれからは笑顔で母と接してみようと思った。

8月4日。蛭子さんは埼玉県所沢市にある蛭子家の墓参りに行ってきたという。悠加さんが語る。

「最初は、どこに行くのかわからない様子でしたが、お墓参りを済ませたあと、主人が『いつも悠加ばかりに任せて申し訳ない』と言ったんです。そして『また墓参りに来たいな』とも。認知症になる前は絶対に言わなかったこと。

仲間たちと一緒に絵を描いたのがよかったのか、最近は表情も明るくなったようです」

蛭子さんが絵を制作中にいつもかぶっていたキャップには、

「All’s well that ends well」(終わりよければすべてよし)

と書かれている。

蛭子さん、これからも“好きなごとせんね”。

(取材・文:山内太/編集:吉田健一)