19世紀末から世界の覇権を握る「アメリカ合衆国」ですが、その成り立ち・歴史について、実は「なんとなくしか理解していない……」という人は少なくありません。そこで今回『大人の教養 面白いほどわかる世界史』(KADOKAWA)の著者である河合塾講師の平尾雅規氏が、アメリカ合衆国のはじまりと発展にある歴史の“表と裏”を解説します。

「ホワイトハウス」の由来は「米英戦争」にあった!

アメリカ合衆国の初代大統領ワシントンは、フランス革命戦争に対し中立の立場を表明し、ヨーロッパ大陸諸国との貿易を継続しました。

※のちの孤立主義のさきがけ

その後、皇帝となったナポレオンイギリスを苦しめるため大陸封鎖令を発しましたが、ヨーロッパ大陸諸国でも日用品が不足してしまいました。

イギリスはこの状況を逆に利用して、アメリカとヨーロッパ大陸の通商を妨害して、一気に大陸諸国を締め上げにかかったんです。でも、こういった通商妨害はターゲットではない方のアメリカも苦しめることになりますから「英仏が戦争をするのは勝手だが、中立である我が国を巻き込むな!」と怒ったアメリカが宣戦しました。アメリカ=イギリス(米英)戦争の始まりです。

イギリス軍がワシントンD.C.に攻め込んで圧倒するものの、ナポレオンが没落して大陸封鎖が解かれ、イギリスと大陸が貿易を再開しました。すると、米英両国が戦う理由そのものがなくなり、自然消滅的に終戦します。

なお、戦争中にイギリスから工業製品を輸入できなくなったことをうけて、アメリカ北部の工業化がスタートしました。

ところで、アメリカ大統領の官邸はこの戦争中に侵攻して来たイギリス軍の焼き討ちにあい、ひどく損傷してしまいます。黒っぽくなってしまった外装を真っ白に塗装して修復したことから、ホワイトハウス」という呼称が定着したそうです。

「西部開拓」のスピリットを体現したジャクソン大統領

このあと、アメリカは西方に領土を拡大していきます。西部開拓のスピリットを体現した大統領ジャクソンで、彼は独立13州以外の出身

当時、独立13州は開発が進んでいき、法律家とか大地主といったエリート層が形成されていました。対してジャクソン「西部出身の叩き上げ」であり、庶民目線の政治を行います

※ 白人男性の普通選挙を普及させ、公立学校を充実させた

他方で、「開拓者」としての側面は先住民インディアン]強制移住法に表れ、先住民はミシシッピ川以西の居留地に追いやられてしまいました。

開拓者が西方へ進んでいくと、メキシコ領にぶつかります。アメリカ人がメキシコにガンガン入植して、メキシコ領のテキサスではアメリカ系住民がメキシコ人を圧倒……。アメリカ系住民はテキサスを独立させて、その後にシレッとアメリカへの合流を求め、アメリカがテキサス共和国を併合しました。

これにはメキシコもキレた。アメリカ=メキシコ(米墨)戦争が勃発しますが、アメリカに敗れてカリフォルニアまでも奪われました。そのカリフォルニアで金鉱が発見されて、一獲千金を夢見る者どもが殺到ゴールドラッシュ)し、西海岸の人口が急増します。

とくに1849年に多くの人がカリフォルニアに殺到したことから、「49er’s(フォーティーナイナーズ)」という言葉も生まれました。この呼称は、NFLのチームであるサンフランシスコ49er’s」というチーム名にも受け継がれています。

※ アメリカンフットボールリーグ

またこの時期、西部開拓における過酷な作業でも破れない、馬車の幌[ほろ]などに用いる丈夫な生地のズボンがデザインされました。これが現在のジーンズの起源でして、そのビジネスを立ち上げたのが現リーバイス社の祖であるリーバイ゠ストラウスです。ジーンズが藍色をしているのは「泥がついても目立ちにくい」という理由があるとのことですよ。

「北部:連邦主義」と「南部:反連邦主義」に分裂

東海岸の方では、北部と南部で方向性の違いが明らかになってきました。まず温暖な南部では、ヨーロッパでは栽培できない商品作物(タバコ・綿花など)を栽培できるので、イギリスなどヨーロッパへの輸出でカネを稼げます。

一方、イギリス人としては世界一の工業製品をアメリカにも買ってもらいたい。「お互い自由に貿易をしようぜ! win-winだ」と利害が一致します。

逆に、寒冷な北部は商品作物も栽培できず資源も乏しい……。でも米英戦争の頃から工業化がスタートしていて「いつかはイギリスのレベルに追いつきたい……」と高い志を持ちました。そこで北部は合衆国全体を1つの経済圏としてとらえ、国全体で保護貿易を推進しようとしました

そうすればイギリス製品を遮断して北部の製品を南部に売り込み、北部の資本家が力を伸ばせます。でも、南部の人間は反発しますよ。「なぜ世界一のイギリス製品の価格を関税でつり上げて、粗悪な国産品を買わなきゃいかんのだ!」と考えますからね。

続いて、「連邦主義」がカギになってきます。アメリカの連邦政府に関税を課す権限を認めれば、合衆国全ての州に流入する外国製品に関税がかかります。北部はこれを求めました。

しかしアメリカでは「州政府の独立性を尊重し、連邦政府の権限は制限されるべき」という考え方が根強かったですから、南部は「関税を課すかどうかは州レベルで決める。連邦政府がイギリス製品に関税を課した結果、我々南部の人間が品質にも劣る割高な国産品を買わされるのは不当だ!」と訴えました。

「北部はアメリカ全体で保護貿易を行いたいから連邦主義」、「南部は自由貿易を行いたいから反連邦主義(州権主義)」という構造が分かればOKです。

「奴隷制」を巡り対立…「南北戦争」が開戦

続いて奴隷制の問題。奴隷制に対するニーズが高かったのは、単純な肉体作業が求められる南部のプランテーションでした。

一方、黒人奴隷を用いることが定着していなかった北部は、人道的な観点から奴隷制に反対します。

このいざこざからホイッグ党を前身とする共和党が成立し、1860年の大統領選挙ではその共和党リンカが当選しました。

※ 民主党は、1820年代にジャクソン支持派が結成

南部はついに合衆国から離脱してアメリカ連合国の成立を宣言しますが、リンカンはこれを認めませんでした。北部製品を南部に売り込むためには、南部を合衆国(の連邦政府内)にとどめておく必要があるからです。

ついに、合衆国史上で最大の犠牲者を出した南北戦争が開戦。前半は南軍が優勢な中、リンカンは考えました。仮にイギリス南北戦争に介入するとしたら、自由貿易を推奨する南部に加勢するのではないかと。

そこでリンカンは奴隷解放宣言を発して、奴隷問題をクローズアップさせ、「北は奴隷制を否定する正義の味方であり、南はいまだに奴隷制を続ける悪の勢力である!」というイメージを国際社会に植えつけた。

こんな情勢で、イギリスは南部を支援できるはずもなく、戦局は北部有利に傾き、ゲティスバーグの激戦も制してなんとか勝利につなげました。

南北戦争後の状況ですが、解放された黒人への差別は続きます……。憲法レベルでは黒人の市民権も認められるのですが、そこは州が自立している合衆国。州法によってあの手この手で参政権を制限します

※ 投票税を払わせたり、読み書きテストを課したりした

黒人農民には土地を買うような経済力もなく、地主に対する高額の小作料に苦しみ、またKKK(クー=クラックス=クラン)のような黒人を迫害する組織も生まれました。

19世紀末に早くも「世界一」となったアメリカ

経済面では、大陸横断鉄道も開通して、国内市場が成熟していきますね。アメリカの工業力は飛躍的に成長し、19世紀末にはイギリスを抜いて世界一となりました。企業同士が合併したり、ライバルを買収したりして、ロックフェラーカーネギーに代表される巨大企業(独占資本)が登場。

しかし少数の企業が業界を牛耳ったことで、企業が水面下で協定を結んで価格を操作するなど、消費者に不利益が生じました。まさに資本主義の「光と影」です。

※ カルテ

1890年頃にフロンティア(開拓地と未開拓地の境界線)が消滅し、国内開拓が飽和状態になると、アメリカはついに海外進出へマッキンリー政権は、キューバスペインからの独立運動が高まると、これを支援する名目でスペインと戦い、フィリピンなどを獲得。

※ 米西戦争に際して、アメリカは独立を約束していた

またハワイを併合して中国への中継地を整えるのですが、中国分割には間に合わず、門戸開放宣言で分割に抗議。続くセオドア=ローズヴェルは高圧的な「棍棒外交」を掲げました。コロンビアからパナマを独立させてパナマ運河建設に着手したのは、その象徴ですね。

平尾 雅規

河合塾

世界史科講師

(※写真はイメージです/PIXTA)