どこぞの国の連中でもあるまいに、とにかく偏執的な地元自慢の身内贔屓が考察をねじ曲げている。九州だ、奈良だ、それどころか、いや邪馬台国朝鮮半島にあったのだ、などとと、やたらかまびすしい。まして、我田引水で観光振興のカネ儲けネタにしようと暗躍し、騙し騙されている有象無象の輩には、うんざりだ。だから、そういう連中とは別のニュートラルな視点で問題を再考してみよう。

古代史を考えるには、まず、現代の「国」という概念を払拭する必要がある。農業革命以降では、広大な農地を持つことが国家にとって必要だったが、それだって、現実にはそう簡単ではなく、「国」は城壁で囲まれた都市国家の大きさを超えることができなかった。くわえて、馬も車輪も無い時代には、都市の需要を満たすために、水運が不可欠。つまり、都市国家は、海岸か湖畔、川沿いにしか存在しえない。

この基本理解からすると、奈良説の中心となる纏向(まきむく)遺跡が都市国家であったとすれば、古代奈良湖が存在した時代でなければならない。ところが、これが意外に時代が限定される。というのも、京都側巨鯨湖経由での海運が可能だったとすると、湖面水位を海抜70メートルまで高かったことになり、大神(三輪)神社などはちょうどよい船着き場になるが、纏向はまだ水没している。邪馬台国かどうかはともかく、ここに都市国家があったとすれば、生駒山地を亀の甲から大和川が抜けて、海抜60メートルくらいまで水位が下がったころのことになる。しかし、ヤマト朝廷は、竹内街道という大阪側への陸路が開いた、さらに水位が低い50メートル時代以降。この間、この60メートルから50メートルへの奈良湖の水位低下の過程で、纏向から橿原(神武天皇畝傍橿原宮比定地)のあたりは一時的に、水運も陸運もできない、ぐちゃぐちゃで葦だらけの沼地干潟になり、縄文末期から大和時代まで、このあたりに大きな物資需要を持つ日本の中央都市国家が途切れずに存続することは不可能だ。

一方、九州説も、問題が多い。そもそも基本史料が三つあって、これらの関係がよくわからない。第一は、『後漢書東夷伝』。西暦57年に「倭奴国奉貢朝賀」「倭国之極南界也」「光武賜以印綬」と書かれていて、実際、その金印が福岡黒田家に保管されていた。そして、もう一つが、それより前に書かれた『魏志倭人伝』。だが、これは正確には『魏書烏丸鮮卑東夷伝』で、そもそも倭人伝ではなく、ただ、その中に倭国に言及した箇所があるにすぎない。それによれば、西暦238年に倭女王卑弥呼が魏の天子に朝献し、「親魏倭王」に任じられ、金印その他を下賜された、とある。そして、この後、『宋書』に、413年から502年にかけて、倭国王の讃、珍、済、興、武が次々と朝貢し、国王や将軍の号を得た、という記録がある。

問題は、これらの「倭国」が同一連続かどうか。金印という物証が福岡で見つかったとはいえ、それは争乱で同地に隠されたものかもしれず、漢書の倭奴国が同地にあったとまでは言い切れない。一方、宋書の倭の五王は、彼らの間に単独継承関係がある統一王朝だったかどうかはともかく、もはや大和時代であり、そのどこかからはもはや奈良に政権があったはず。それゆえ、その間の卑弥呼がどこにいたかは、大和朝廷成立を理解するのに、たしかに歴史的に重要な問題だ。とはいえ、卑弥呼の国は、倭人ながら、わざわざ「邪馬台国」と呼ばれており、これとは別に「奴国」だの「狗奴国」だのもあって、魏と国交がある倭人国だけでも三十もあった。

知ってのとおり、魏志倭人伝は邪馬台国までの行程も書かれているが、これもつながりがよくわからない。とりあえず、倭人は「帯方」(朝鮮半島北西部)の東南の大海の中にあって、山島に依って国邑を為し、かつては百余国もあった、とされているところから、海洋漁村の人々だったのだろう。しかし、すでに知られていた「韓国」(ソウル沿岸部)より東南、とではなく、あえて、それより北の帯方より東南、などと書かれている以上、韓国もまだ一帯支配が確立しておらず、朝鮮半島中西部から南部まで、つまり、ソウルから釜山まで、これらの半島沿岸の島々にも倭人国邑が点在していたのかもしれない。

その倭人の本地へは、はじめて一海千余里を渡って、対馬国に至る、とされる。ここでも、この対馬国がすでに倭人の国なのかどうか、わからない。「対海国」とある異本もあるが、いずれにせよ、半島沿岸を離れて最初の国を、今日の対馬と比定して問題はあるまい。とはいえ、この先の地理説明が並列なのか連続なのか不明で、方位距離が書かれていても、どこを起点にしての話なのか、さっぱりわからない。なんにしても、どこからから南に行くと、卑弥呼邪馬台国だ。ところが、さらにその南にはまだ、狗古智卑狗という男王の「狗奴国」があって、これは邪馬台国には属さない、とされている。

漢書において、「倭奴国」は倭国の中でも極南界である、とされていたことからすれば、邪馬台国ではなく、むしろその南の狗奴国こそが、57年に朝貢して金印を下賜された倭奴国であるということになる。くわえて、その倭奴国が、それより北の倭人の国々に阻害されず、後漢(黄河上流の洛陽が首都)に朝貢できた、ということから、それは北の倭人の国々、半島沿岸さえも通らずに直接に外洋に出られて、黄河河口の渤海沿岸まで直行できたことが推定される。

邪馬台国が九州かどうかはともかく、隣接する邪馬台国と狗奴国の両国の南北の方位関係にまちがいはなかろう。この南の狗奴国が、東海か四国か、鹿児島や熊本かはわからないが、それは、外洋に面した南岸ないし西岸であるだけでなく、逆にそのすぐ北に隣接して、同じく別途で朝貢しうるほどの力と外洋船を持った邪馬台国が存立しうる余地がなければならない。可能性があるところとしては、伊勢湾と若狭湾、高知と瀬戸内鹿児島と熊本または熊本と福岡などだろう。いずれにせよ、すくなくとも邪馬台国大和説はムリだ。あそこが奈良盆地の南のへりで、それより南は、もはや地形も険しい吉野山。海が無く、外洋船を持ちえないばかりか、狗奴国が成りたつ隙間すらも無い。

(水位地図は、谷謙二(埼玉大学)先生のWeb等高線メーカーによる)

邪馬台国の比定前提となる狗奴国:文明論の視点から