修学旅行は学校行事の中でも大きなイベントの一つであり、楽しみにしている人も多かったでしょう。

ではそんな修学旅行はいつ頃から行われるようになったのでしょうか?

比較的最近始まった行事のようにも思えますが、実は修学旅行は戦前の学校でも行われていました。

果たして戦前の修学旅行はどのようなものだったのでしょうか? また現在とはどのように異なっていたのでしょうか?

本記事では修学旅行がいつ出来たのか、また戦前の修学旅行がどのようなものであったのかについて紹介します。

なおこの研究は、人文地理 第65巻第4号に詳細が書かれています。

目次

  • そもそも修学旅行はいつ出来た?
  • 人気の行先は伊勢神宮
  • 今と変わらない詰め込み日程

そもそも修学旅行はいつ出来た?

明治大学高等予科の修学旅行、1904年に実施された
credit:wikipedia

そもそも修学旅行はいつ誕生したのでしょうか?

日本初の修学旅行と言われているのは、東京師範学校(現在の筑波大学)によって実施された軍隊風の「長途遠足」です。

この遠足は、1886年2月15日から25日にかけて行われ、99名の男子生徒が軍装で装備を持ち、東京から千葉県の銚子まで徒歩で行軍しました。

この遠足では気象観測、測量、動植物の採集、写生、名所巡り、貝塚の発掘、学校の見学など、理系・文系を超越した多くの実地研究が組み込まれていたのです。

この長途遠足は報告書にて「修学旅行」と表現されており、以後似たような遠足のことを修学旅行と呼ぶようになりました。

また1896年には長崎県立長崎商業学校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)が上海への修学旅行を敢行し、日本初の海外修学旅行として記録されました。

修学旅行は、日本の教育において知識の獲得だけでなく、実地経験や実践的なスキルの習得に重要な役割を果たしています。

人気の行先は伊勢神宮!

日時 行程
1日目 夕方 学校集合、夜行列車で東京発
2日目 朝 伊勢着、外宮・内宮参拝

午後 二見・鳥羽観光(二見興玉神社、日和山など)

夜 伊勢着 宿泊

3日目 朝 列車で伊勢発

昼 奈良着、観光(東大寺奈良公園など)

午後 列車で奈良発

夕方 桃山御陵参拝

夜 京都着 宿泊

4日目 朝~午後 京都観光(本能寺、京都御所、金閣寺北野天満宮平安神宮清水寺、八坂神社、三十三間堂など)

夕方 夜行列車で京都発

5日目 朝 東京着

戦前の修学旅行の行程の一例 昭和戦前期における伊勢参宮修学旅行の研究 (jst.go.jp)より自作

それでは戦前はどのような修学旅行が行われていたのでしょうか?

例として1937年6月に行われた足立区小学校の参宮旅行について分析します。

ちなみにこの旅行の一カ月後に日中戦争が始まりましたので、社会の雰囲気はまさに開戦前夜です。

この旅行は、伊勢神宮を中心に行われ、京都や奈良といった現在の修学旅行ではメインとされる名所はその付属とされました

というのも当時の政府は伊勢神宮を「我が国の宗門」として各神社のトップとしており、国民精神を統合するための国家的なシンボルとしていたのです。

その為日本国民は伊勢神宮へ参拝するべきである」という考えが強調され、修学旅行の行先として選ばれることが多くなりました

やがて1930年代半ばからは伊勢だけでなく、その近隣の奈良や京都も一緒に巡る関西修学旅行に発展しました。

この変化は、教員や親の思想や要望が反映されたもので、かつて江戸時代の庶民が伊勢参りを口実にして京都や奈良を巡って一生に一度の観光旅行を楽しんでいたことに類似しています。

現代でも修学旅行の定番といえば京都・奈良を連想する人が多いでしょうが、この習慣はここから始まったと考えられます。

伊勢神宮内宮、戦前は公的な側面から参拝することが推奨されていた
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この旅行では、2日目早朝に伊勢に着くとすぐに外宮に参拝しました。

その後内宮にも参拝し、そこで御神楽を奉納したのです。

旅行のしおりには「神域内では静粛に」や「参拝前に服装を整える」などと書かれており、時の人々にとって伊勢参宮がいかに厳かなものであったのかが窺えます

また京都では明治天皇の墓である桃山御陵を参拝しており、当時の皇国史観に基づいていることが窺えます。

このように、教育関係者や親の思いが旅程に反映され、子供たちに多くの体験と知識を提供することが意図されました。

交通手段に注目すると、この修学旅行は臨時列車を利用しており、「汽車は臨時列車で座席が決まっています」と明記されています。

子供たちは寝台列車に乗り、寝台板を用意して夜行列車に乗車しました。

この方式は、修学旅行専用列車や一般団体で利用される引き回し臨時列車の原型となったのです。

子供たちは長時間の夜行列車に乗車し、団体での参拝や見学、共同での食事、布団の共有などを通じて友情を深め、非日常の経験をしました。

この修学旅行は、戦前の時代において子供たちが日常生活圏から離れ、貴重な経験を積む機会でした。

今と変わらない詰め込み日程

京都御所、戦前より京都を代表する名所であったが、修学旅行生がゆっくり見物することは出来なかった。
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また修学旅行といったら詰め込み日程を想起する人も多いですが、こちらの面に関しては戦前も変わりません

伊勢神宮参拝がメインの2日目や奈良公園周辺の観光が中心の3日目は比較的に日程に余裕がありますが、4日目は京都市内の観光名所を1日かけて周ります。

先述の通り本能寺、京都御所、金閣寺北野天満宮平安神宮清水寺、八坂神社、三十三間堂などといった京都を代表する観光地をわずか1日で巡っており、詰め込み日程この上ありません。

このように戦前の修学旅行は小学生にしてはハードすぎる日程ですが、当時は現在のように気軽に旅行に行くことが出来なかったので、出来るだけ多くのものを見るために観光地を日程に詰め込んだのです。

こうして経緯を見ていくと、現代の修学旅行がなぜこのような内容になったのかという疑問の答えも見えてきます。

また意外と今と昔で大きく変わること無く、子どもたちが日常を離れて旅行を楽しむ点は類似していたことが伺えます。

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参考文献

昭和戦前期における伊勢参宮修学旅行の研究 (jst.go.jp) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg/65/4/65_283/_article/-char/ja/
学校行事の定番「修学旅行」はいつ始まったのか?戦前の修学旅行はどんなだった?