イギリスのケンブリッジ大学がとんでもないWebサイトを作っていました。

中世の殺人マップと題されたそのサイトは、中世後期、主に1300年代前半のロンドン、ヨーク、オックスフォードといった大きな都市で起きた多くの殺人事件を掲載しています。

実際に地図を見ながら武器のアイコンをクリックすることで、殺人事件が発生した日時、使用された武器や傷の深さ、加害者と被害者の名前、事件の経緯などの情報を驚くほど詳細に見ることができます。

まるで日本の某事故物件サイトと同じような感覚で、地図を見ながら、学生たちの大乱闘による殺人事件から、学者による暗殺まで、様々な殺人事件の詳細を見ることができてしまうのです。

思わず次から次へと殺人事件を見てしまうサイトですが、なぜ約700年も前の多くの殺人事件の詳細がわかるのでしょうか。

そして、そもそもケンブリッジ大学はなぜこのようなサイトを作ったのでしょうか。

目次

  • 中世の殺人マップを見てみよう
  • 詳細に記される殺人事件の数々
  • オックスフォードでは学生が多くの殺人事件を起こしていた

中世の殺人マップを見てみよう

さっそく中世の殺人マップとはどのようなサイトなのか見てみましょう。

中世の殺人マップTOPページ
Credit:University of Cambridge – MedievalMurderMap

上部の絵は少し可愛らしくも見えますが、よく見ると皆が武器を持っているようにも見えます。

説明書きには「中世に繁栄した3つの都市(ロンドン、ヨーク、オックスフォード)の殺人事件などを見つけてください。ピンをクリックすることで検視官名簿の記録を読むことができます」といった内容が記されています。

約700年も昔の殺人事件などの情報が詳細に残っているのは、検視官の名簿が保存されていたからのようです。

このマップを作成したのはケンブリッジ大学の暴力研究センターで、その目的はマップを探索して歴史上の暴力犯罪を学ぶことだといいます。

では、実際のどのような事件があったのか見てみましょう。

1300年代のロンドンで起きた殺人事件

まずはイギリスを代表する都市、ロンドンを選択してみます。

画像
Credit:University of Cambridge – MedievalMurderMap

当時のロンドンに関する情報の他、画像右側に殺人事件に使用された武器のアイコンが描かれています。

使用された武器は下記の種類に分類されています。

  • 長刀
  • 短刀
  • ポールアックス(長柄斧)/ パイクスタッフ(槍のような尖った杖)
  • 弓矢
  • 不明

ゲームの中でしか見ないような武器も使用されていたようです。

また、事件の種類も様々です。

殺人事件以外では、事故、病気、教会、刑務所というカテゴリに分かれており、教会では犯罪者が逃げ込んで罪の告白をした情報や、刑務所では服役中に死亡した人の情報が掲載されています。

なお、殺人事件以外の情報があるのは3都市の中でもロンドンだけのようです。

それでは次に、実際にアイコンをクリックしていくつかの殺人事件の詳細を見てみます。

詳細に記される殺人事件の数々

魚屋がギルバートの手を長柄斧で刺す

驚くほど事件の詳細が記されています
Credit:University of Cambridge – MedievalMurderMap

ちょうど700年前、ギルバートという名前の男が刺されたようです。かなり詳細に事件の内容が記してあります。

1323年9月29日ロンドンの検視官と保安官は、ギッティントンのギルバートがブロード・ストリート区のイヴォ・パーセヴァルの家で死んでいるという報告を受け、現場へ向かいました。検視官と保安官は現場に到着後、周辺3区の陪審員を任命して調査を開始しました。

調査により、ギルバート9月21日にイヴォの家で食事をした後、宿へ戻ろうとしていた途中で魚屋のロジャーとレジナルド・ローレンツと口論になりました。口論は暴力沙汰に発展し、レジナルドがナイフギルバートを襲いましたが、ギルバートは棒で対抗しました。

しかし、ロジャーが斧でギルバートの手を攻撃し、ギルバートは重傷を負いました。

ギルバートはイヴォの家に戻り、治療を受けましたが、数日後の水曜日、朝6時に斧で受けた傷が元で亡くなりました。この事件はリチャード・ペラーズローレンス・アット・ゲート、およびギルバートの弟ウィリアムによって目撃されました。

犯人とされるロジャーとレジナルドは事件後に逃走しました。

この事件の証拠品として、使用された竿とナイフは押収され、ブロード・ストリート区に保管されました。

殺人事件の調査に陪審員が任命されていますが、中世後期のイギリスでは、殺人の疑いがある被害者が発見されるとまず検視官が呼ばれ、地元の廷吏が陪審員を集めて調査を行うのが通常だったようです。

陪審員は、地元で評判の良い人物で構成されており、彼らの仕事は、目撃者への聞き込み、証拠の補完、そして容疑者を捕まえて事件の経過を明らかにすることでした。

ストリートミュージシャン、怒った家主に黙らされる

騒音問題は昔からあったようです
Credit:University of Cambridge – MedievalMurderMap

吟遊詩人という名のストリートミュージシャンが騒音問題を引き起こしていたようです。なお、黙らされたのはストリートミュージシャンですが、殺されたのは怒った家主のようです。

1324年5月3日ロンドンのコーンヒル地区で毛皮職人のトーマス・リンが死亡しているのが見つかりました。

検視官と保安官が速やかに現場に向かい、周辺の区から陪審員を選出し、事件の調査を開始しました。

調査の結果、前日の夕暮れ時、吟遊詩人のトーマス・ソマーが、トーマス・リンの家の前で音楽を演奏していたことが判明しました。

これに怒ったリンは棒を手にしてソマーを追いかけ、ソマーの頭を叩きました。ソマーは反撃としてナイフでリンの胸を刺し、致命傷を負わせました。

リンは傷を負いながら家に戻り、真夜中に亡くなりました。

トーマス・ソマーは直後に逮捕され、ニューゲート刑務所に収容されました。

陪審員は他に目撃者や犯人がいないことを確認し、保安官はソマーが裁判が開かれるまで拘留されるよう指示しました。トーマス・リンの死体は検視され、傷の状態も確認されました。

このような街中の喧嘩から発生した小さな殺人事件でも詳細な記録が残っていることに驚きます。

しかし、ロンドンでは上記のような喧嘩や騒音問題から発展した殺人事件が目立ちますが、「学びの首都」と呼ばれるオックスフォードでは、ロンドンとは違い、殺人事件に特徴があるようです。

オックスフォードでは学生が多くの殺人事件を起こしていた

オックスフォード大学で有名なイングランド東部の都市オックスフォードですが、中世の時代からパリと並ぶ学習の中心地であり、ヨーロッパ中から学生が集まっていました。

時の人口は7000人程度で、そのうち1500人程度が学生だったと考えられています。

しかし、オックスフォードの人口当たりの殺人率は、ヨークやロンドンのような他の人口の多い都市に比べて4~5倍ほど高いものでした。

換算すると年間10万人あたり、約60人から75人が殺人事件の被害者となっている計算になり、今のイギリス40倍近くにも及びます。

殺人事件の犯人の75%は「クレリカス」という人たちでした。クレカリスとは、当時新しく設立されたオックスフォード大学の学生やスタッフを指すのに使われていた言葉です。

そして被害者の72%もまたクレカリスの人たちで、絶え間なく学生間の紛争があったことが考えられます。

当時のオックスフォード大学の学生は全員男性で、特に14歳から21歳の間の暴力や危険な行動に走りやすい年齢でした。

彼らは家族、教区、ギルドなどの厳しい管理から解放され、酒場に入り浸っているような血気盛んな男たちだったのです。

中世の殺人マップにもそれを象徴する下記のような事件が多数掲載されています。

スクールストリートで学者の一団が仲間の学者を殺害

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Credit:University of Cambridge – MedievalMurderMap

こちらは学者同士の小さないざこざから起きた殺人事件のようです。

1303年2月21日、ダラム司教区の書記官ウィリアム・ド・ルールが、聖ミルドレッド教区の下宿で真夜中に亡くなりました。金曜の朝に、検視官トマス・リセワイが彼の体を検視しました。

陪審員たちの証言によると、門限の時間に、ノース・ウェールズ出身の書記官ルイとウェールズ出身の書記官デイヴィッド・アブ・オウェイン、そして他にも氏名不明の数人がスクール・ストリートという通りにいました。

その時、ウィリアム・ド・ルールの2人の仲間が通りにやってきて、通りを歩こうとしましたが、ルイたちが彼らに向かって暴行を始めました。これにより、すぐに現場で騒動が巻き起こりました。

この騒動を聞いたウィリアムは、宿舎にいたため、仲間を助けようと杖を持って通りに出てきましたが、返り討ちにされて亡くなりました。

この他にもオックスフォードの殺人マップには、学者たちによる暗殺や、弓矢、剣、スリング、石などを手に暴れ回る学者たちが起こした殺人事件など、多くが掲載されています。

バイオレンスだが無法地帯ではなかった

当時のイギリス、特に都市部は荒くれ者が多く、また、ナイフを始めとした武器が身近だったため、命に関わる争いごとが頻繁に起きていたようです。

しかしそれは当時の都市部が決して無法地帯だったというわけではないようです。

小さな事件でも陪審員による調査が行なわれ、犯人は法のもとに裁かれていました。そしてその事件の詳細は記録され、今もなお語りづがれているのです。

これらの記録を通じて、当時の社会の秩序や法律、そして人々の生活の側面を垣間見ることができます。

中世の殺人マップは、ただ過去の殺人事件を参照するだけでなく、時を超えて社会や法のあり方を学ぶ興味深いツールなのかもしれません。

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参考文献

MedievalMurderMap https://medievalmurdermap.co.uk/ Oxford Was The Murder Capital of Late Medieval England, And It Was All Because of Students https://www.sciencealert.com/oxford-was-the-murder-capital-of-late-medieval-england-and-it-was-all-because-of-students
中世英国の驚くほど詳細な事件ファイルがプロットされた『中世殺人事件マップ』