一度何らかの過ちを犯した人に対し、寛容とは言い難いこの社会。そんな中で「やらかしてしまった」人々が再出発するには、どうすれば良いのか? 

 モラハラ・DV加害者が他者を尊重し、ケアの概念を身につけることを目指す自助団体「GADHA」を主宰する中川瑛氏と、漫画『キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』(竹書房)などの漫画で話題を呼んだ田房永子氏。

 自身のパートナーや仲間を傷つけていた「元加害者」の立場から、その反省と経験について発信を続けている二人が、加害者変容のあり方について語り合った。


◆自身のモラハラに気づいたのは、パートナーからの最後通告がきっかけだった

田房永子(以下、田房):中川さんの著書では、先に『99%離婚』(KADOKAWA)のほうを拝読していたのですが、妻子にモラハラをしていた主人公が、意識や行動を修正していく様子がすごく細かく描かれていました。中川さんご自身の経験に基づいているというだけに、リアリティがありました。

 私たちは幼稚園小学校の頃から、「相手の気持ちを考えろ」と叩き込まれるじゃないですか。自分の心が今、どうなっているのか見つめることを私たちは全く教わってないんです。そこを一つひとつ気づいていくことができるようになると、本当に変わったと自覚できると思います。

 中川さんは、どのようにして自身の加害に気づき、やめることができたのでしょう?

中川瑛(以下、中川):直接的なきっかけは、妻と仕事仲間から「もうこれ以上、一緒にいることはできない」と宣告されたことでした。恥ずかしいことに、それを受けるまで僕は自分の所業に気づくことができませんでした。

 そして気付かされた後に、助けになったのが学問でした。僕は大学時代から哲学と倫理学を学んでいて、ずっと絶対的な正義や平等が存在すると信じていたのですが、研究をすればするほど、答から遠ざかっていくのを感じていました。正義の定義は歴史や状況によって全然違うし、戦勝国や大国が押し付けて来ているようなものもある。現在、人権と呼ばれているものも所詮はここ200年〜300年間ぐらいの急ごしらえの概念に過ぎない。絶対的な真理はないのかもしれない……そう思うようになったら、その次の段階の話をしなきゃいけなくなったんです。

 この私の人生は1回きりで、今、そばにいるパートナーと何を喋るのか。彼女に対してどんな立場をとるのか、すべて私が決めなきゃいけないんだと気づいたんですよね。

 それが完璧に正しくなくても、自分が決めて発したことに対する責任と結果は自分が引き受けなきゃいけない。僕がモラハラをやめる上で、「パートナーとどう生きていきたいか」という意思や姿勢が格段に大事だったのです。そうした哲学的な立場の変化もあって、パートナーへの接し方が変わっていったんです。

◆「モラハラ」「パワハラ」という言葉は、加害を矮小化させてしまう

田房:そうなんですね。中川さんのもう一つの著書『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)は、中川さんが実践してきた、加害をやめてケアをする具体的な方法を理論化しており、こちらもすごくわかりやすくて面白かったです。特に、「モラハラ」という言葉を使わないことを意識されたように感じました。

中川:GADHAが扱っている「暴力」は幅が広く、誰もが加害者になりうるという考え方で活動しています。『孤独になることば』では、それを前提にした対策を提案したかったんです。

 モラハラ・DVは大抵、支配的な人や強権的な人がやっているイメージが強いと思いますが、必ずしもそうではない。たとえば、本書では4つの加害事例を挙げましたが、人にいい顔をし続けて、溜め込んで最後にキレる事例についても書きました。

田房:モラハラ」や「DV」などの言葉は、被害者が使うとすごく救いになる言葉だと思うんですよね。自分が「毒親」という言葉を知ったときも、自分に起きていた出来事がどういうことだったのかを端的に捉えることに役立ちました。

 ただ、この本にも書かれていたとおり、レッテル貼りになってしまう側面もある。ずっとその言葉を使ってると、被害者加害者の関係性から抜け出せなくなってしまう。

 親子関係は権力差があるけど、夫婦関係やパートナーシップだと対等な部分が多いから「私は夫にモラハラされてました」とあまりにも言い続けると、そこから発展していない感じがすごくある。

中川:モラハラ・DVという言葉ばかり使うと、そのことを矮小化したり、限定的に捉えてしまうのではと思いました。特に親からの、「あなたのためを思って」という名目で行われる暴力は相当見過ごされてしまう。ですから、いろんなバリエーションを意識して書きました。GADHAに被害者として来ている方々の中にも、これを読んで「これで加害なら、私もやってるかも」って思った人が結構いたと思うんです。

◆孤独になる人は、孤独になる言葉を使っている

田房:そうした本質を、書籍ではきちんと分解して書かれていました。「モラハラとは何か」ではなく、そこで何が起きてるのかということを、しっかり捉えて解説してくださっている。私の母親も、この本で解説されている「孤独になる言語化」をする人でした。

(※孤独になる言語化:『孤独になることば、人と生きることば』では、人とともに生きるための言葉の使い方を「現実の言語化」「尊重の言語化」「共生の言語化」の3つに分割して定義した。これと対をなす形で、人との繋がりが絶たれ、孤独になる言語表出パターンである「孤独になる言語化」の形式として「妄想の言語化」「軽蔑の言語化」「支配の言語化」を挙げた)

 私自身も「孤独になる言語化」をしそうになる場面もあるし、読んでいていろんな自分自身を発見できる本でした。

 元カレとは関係の修復をしないまま別れてしまったので、話し合う機会があればよかったと思います。逆に自分自身も「孤独になる言語化」をしそうになる場面もあるし、読んでいていろんな自分自身を発見できる本でした。

中川:GADHAが主張したいのはとにかく、「ケアの欠如はすなわち加害である」ということです。ケアをしないことは、人と生きていく上では加害になりうる。なので、一般に言われるモラハラやDVという領域を超えて、気づかない些細なところまで捉えると相当広範なことまでが加害になるし、加害とみなされてないものもあると思っているんですよ。

 あとは、加害自体を問題視するのではなく、その結果として「孤独になる」ということを知らせたかったんです。

田房:なるほどですね。

中川:手法を問題視すると、人は責められたように感じると思うんです。ですが、「孤独」を問題視するときは、その人への慈しみが少なからず含まれています。「今、あなたがやっていることは、幸せになるコースから離れていくことですよ」ということ。それを本人が認めることができれば、「人と共に生きていきたい」ということにフォーカスが当たるようになる。責めれば責めるほど、むしろ加害者加害者たらしめたトラウマが再燃して、本人が防衛反応のモードに入ってしまうと思います。

◆『キレる私をやめたい』発表から7年、今だに届く批判

田房:本当にそうなんですよね。

 私の場合、7年前に出した漫画『キレる私をやめたい』に対して、一部の人から今だに強く拒絶反応を示されていて。この作品は、私の「やらかし」の後に、人との関係や自分の中の歪みをどう修正していったかについて描いているのですが、酷いことをやらかした人間が描いていること自体が許せないと批判する人が少なくないんです。

『キレる私をやめたい』:夫に対して事あるごとに激怒し、暴力を振るっていた作者が精神療法を通じその言動のルーツを探り当て治癒・矯正し、夫との関係改善に至るまでの過程を描いた作品

「何かをやらかした奴を罰する」というばかりで、人が改善を重ねて変化できる存在であるという概念がないのは、そう教えられてきているからかもしれない。変わることを怖れているのか、自分は被害者なので変化しなくて良いとかたくなに思っているのかもしれない。

中川:よくわかります。僕も、なぜ元加害者の自助団体なんて立ち上げたんだと言われることがあるのですが、前提として、僕は暴力に対する既存の手法に4つの課題があると思っているんです。

 一つ目が、暴力の解決が心理学ベースとしていることが多いため、社会変革をあまり目指していないこと。どうすれば加害しなくて済むようになるかを問うときには、まず所属している文化や社会を見直し、問い直す必要があると思うのですが、既存の団体でそうしたアプローチをしているところを見つけられなかったんです。

 二つ目に、意識したのはスティグマを減らすこと。モラハラやDV加害者ナラティブの中で「変わらないモンスター」としてしか表象されない社会では、加害者であることを認めるのはかなり困難です。変われないなら、認めるメリットが本人にはありません。むしろ頑なに自分は加害者じゃない、モンスターじゃない、と思ってしまいます。だから「加害者は変われる」ことをメッセージとして発信していきたいと思いました。

 三つ目に、「加害をやめる=ケアをする」ことであって、加害をやめること「加害を止めること」はできないと思いました。ケアができるようにならないといけないんです。。それが、既存の専門家集団では難しいと思ったんです。なぜなら心理士や精神科医はプロだから。プロとクライアントという関係の場合、ケアをする責任はプロ側が持っている。お互いにある程度、水平で対等な関係で「言葉を選びあって関わる責任があるような」関係性がないと、位置づけがないと、ケアの練習はできないと思って自助グループを作りました。

 そして、四つ目が最も重要なのですが、加害者の償いについて追求することです。例えばアンガーマネジメントを学んで人を傷つけなくなったとしても、それが謝罪や償いになるとは限りませんよね。これまで傷つけてしまった人がいるから、、加害してしまった人はそれでOKにはならない。人を傷つけてしまった人は、どう生きていったらいいのか。そもそも生き続けて良いのか、ということを考える必要があったからです。

◆社会から追放することが、はたして加害者の贖罪になるのか

田房:私も、『キレる私をやめたい』を読んだ方から「夫に謝罪しろ」と言われるんです。私が夫に謝罪するシーンを見せなければ、納得しないと。

中川:社会から離脱することが責任の取り方であると思ってる人からすると、そのように見えるようですね。日本社会の不祥事の責任の取り方って、全部首切りじゃないですか。田房さんでいうと、筆を折ることが償うことにされている。しかし、それは僕からすれば真逆で、首を切ったぐらいで責任を取ったことになるとは思えないんです。

 たとえばDV加害者の中には子連れで避難されて、逆恨みを募らせ暴れた挙句、自殺する人もいますよね。それは側からみれば加害の責任を取ったかのように見えますが、自己憐憫の最終形ですね。最後の最後まで、加害している。もちろん場面によりますが、相手に最も強い罪悪感を与える強烈な加害と言えます。

 僕は、加害者の責任の引き受け方を変えていきたい。だから、自分自身の加害者変容のストーリーを社会に発信する責任があると思っているんです。

田房:私も本気でそう思っています。『キレる私をやめたい』は、「キレちゃってたけど、こういうふうに幸せになりました」とか「キレちゃったけど離婚しなくて済みました」といったタイトルでも成立したと思います。ただ、私はそういう描き方をしたくなかった。きちんと自身のやらかしたことを描くことで、その責任と向き合いたかったんです。

 たとえばタレントが何かをやらかした後、それまでとは全く別のジャンル、例えば格闘技プロレスで世の中に再登場したりするケースがあります。あとはその「やらかした行為が笑えるかどうか」も復帰と深く関わってる。ある程度時間が経ったり、本人が自分で笑いにして話したりすると、それが禊のようなものになっていて、ようやく世間が認めるといった雰囲気がある。本人の内面や行動がどう変わったのかより、「世間が引いちゃうか、引いちゃわないか」が重視されてる。

 そもそも、私の最も人と違うおかしなところは「キレる」という恥部をわざわざ自分で描いて発表しているところだと思ってます。でも批判的な人は、そこは変だと言いません。ただ「夫に謝罪しろ」の一辺倒で……テレビワイドショーとかに影響を受けているのかな、と思ったりもします。

中川:日本には、「償い」と「許し/赦し」についての蓄積された議論や、教育がないと感じています。

【田房永子】
1978年生まれ、東京都出身。漫画家コラムニスト。第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。2012年、母からの過干渉に悩み、その確執と葛藤を描いたコミックエッセイ『母がしんどい』(KADOKAWA/中経出版)を刊行し、ベストセラーとなる。ebook japanにて『喫茶 行動と人格』を連載中。

【中川瑛(えいなか)】
DVモラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。

【えいなか】
DVモラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティGADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッターえいなか

過ちを犯したら、謝罪するだけで済むのか? 一度、加害者側の立場になったことがある二人が「償い方」について語り合った