2008年11月、国税庁はクレディスイス証券の従業員など約300人に「一斉税務調査」を行い、そのなかのひとりに強制調査をかけました。しかし裁判所は、被告人の「脱税の意図はなかった」との主張を認め、無罪を言い渡したのです。刑事裁判の有罪率は99.9%といわれるなか、この証券マンが無罪を勝ち取れたのはなぜなのか、“元マルサの税理士”上田二郎氏が解説します。

マルサの強制調査…長ければ1案件「2年以上の調査」も

マルサは強制調査によって脱税額を確定し、検察官に告発して刑事罰を問うための組織だ。脱税額が量刑を左右するため、脱税の証拠を集めて1円単位まで正確に確定しなければならない。そのため、長いときには2年以上の日数をかけて調査を行うケースもあり、一般的な税務調査とは比較にならない。

法人税法や所得税法には個別に罰則規定が定められているが、すべて刑罰を科している。よって、本来、租税犯の捜査は刑事訴訟法の規定に従って、検察官などの捜査機関が捜査をし、裁判で審理すべきものだろう。

しかし、国税犯則事件の調査には税法の専門的知識が必要で、証拠収集にも特別な経験と知識が必要なことから、日ごろ国税の調査を行い、課税物件や納税義務者に接触している税務職員にあたらせたほうが効率的であるため、査察制度が設けられている。

「ストックオプション事件」と脱税の意図

量刑は犯罪行為の意図によって大きく変わる。たとえば人を死に至らせた場合、殺すつもりだったのか、そうではなかったのかによって量刑が違ってくるのと同様、マルサでも「脱税の意図」が大きな問題になる。

この問題を表面化させたのが「レディスイス証券集団申告漏れ事件」だ。

2008年11月、国税局はクレディスイス証券の従業員などに一斉税務調査を行った。対象者は約300人にのぼったが、そのほとんどがストックオプションで受け取った海外給与を申告していなかったことが判明したのだ。

マルサはそのうちのたったひとりに対し、2年間に給与の一部として得た株式報酬などを申告せず、約1億3,200万円を脱税したとして強制調査をかけたのだが、対象者は「源泉徴収されていると思っていた」と脱税の意図を否認した。

その後、地検特捜部が在宅起訴して法廷闘争が続き、東京地裁は「脱税の意図はなかった」とする主張を認めて無罪判決を言い渡した。続く東京高裁も無罪判決。東京高検が上告をあきらめたため無罪が確定した

刑事裁判は“疑わしきは罰せず”…しかし、マルサの狙いは別に

一般的には、多額の給与を調査権限がおよばない海外口座で受け取り、源泉徴収されていると思っていたとの主張は通らない。申告しなかった額が3年間で3億5,000万円もあれば、20%の源泉徴収としても7,000万円にもなる。

マルサからすれば、これだけの差額に気づかないのは外国為替の変動を考慮しても納得できない。しかし、刑事裁判の原則は「疑わしきは罰せず」だ。

このケースでは、外国に開設した自分の口座で給与を受け取っていただけで、そこにはなんら仮装、隠ぺい行為はない。しかし、マルサは「脱税の意図」を見つけ出すために強制調査が必要と判断した。

結局、確たる証拠を見つけ出すことができずに敗訴となるが、調査対象者が300人もいるなか、いかに申告漏れが突出しているからとはいえ、ひとりだけに刑事罰を負わせるのは公平の観点からも問題があると裁判官が判断したのだろうと筆者はみている。

ところがマルサの真の狙いは別にあった。当時、ネットの普及によって、FXで巨額の所得を得ながら故意に申告をしないケースが散見されていた。海外証券にFX口座を開設し、資金を海外に保管していれば見つかる可能性は小さい。

もし見つかっても、自分名義の口座でトレードしていれば「仮装、隠ぺい行為をしていない。脱税する意図はなかった」と言い逃れができる。これで罪に問われないなら、課税の公平の観点からあまりに不合理だ。

「故意の申告書不提出」による脱税犯

そこで、国税庁査察課が5年越しで要望し続けた対応策が「故意の申告書不提出によるほ脱犯(単純無申告ほ脱犯、懲役5年以下、罰金500万円以下)」だ。これにより、仮装、隠ぺい行為がない無申告でも取り締まることができるようになった。

セットで整備した国外財産調書に記載がなければ即アウト。「脱税の意図あり」と判断(ほ脱犯)され、懲役10年以下、罰金1,000万円以下の罰則が適用される。

つまり、すべてがマルサの想定内。仮にストックオプションで実刑判決が出なくても、裁判で海外取引の問題点をあぶり出し、法改正につなげることが狙いだったのだろう。

マルサの最高会議である強制調査の着手前検討会で、もし「脱税の意図」が見つからなければ、厳しい結果になることを議論している。なぜなら「無申告ほ脱犯の構成要件」は、査察官全員が必ず受ける研修のメインテーマであり、偽りその他不正の行為がない単純無申告犯を裁くことができないことは、国税査察官の共通認識だった。

転んでもただでは起きないのがマルサだ。税法のほころびを見つけ出して行われる脱税。その網の目を封じるための強制調査だったと考えれば、すべて合点がいく。

上田 二郎

元国税査察官/税理士

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