戊辰戦争によって旧政府を倒した明治政府は、欧米を参考に近代化をはじめ、資本主義国家を目指しました。それまで続いていた封建的な社会ががらりと変わった時代ですが、新政府は具体的にどのような方法で改革を実行していったのでしょうか。『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者で有名予備校講師の山中裕典氏が、1860~70年代における明治政府の成立過程について解説します。

戊辰戦争後、旧幕府勢力はどのように力を失っていったのか?

勝てば官軍負ければ賊軍」と言います。討幕派が「王政復古」で樹立した新政府旧幕府との戊辰戦争(1868~69)を勝ち抜き、権力を握りました。新政府は鳥羽・伏見の戦いで「官軍」として勝利し、徳川慶喜が降参して江戸城無血開城すると、旧幕府直轄地を没収しました。

新政府に反発した東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成したものの、その中心の会津藩(藩主松平容保)が敗北して会津若松城が落城し、最後は箱館五稜郭に立てこもった幕臣の榎本武揚が降伏して、戊辰戦争は終結しました。

新政府は、どのように成立していったのか?

戊辰戦争と並行して、新政府は体制を固めました。1868年、基本方針として天皇が神々に誓う形式の五箇条の誓文を公布し(長州の木戸孝允が最終的に内容を確定)、「広ク会議ヲ興シ」の文言に始まる公議世論の尊重や、列強の支持を得るための開国和親を示しました。

一方、民衆支配の方針として各地に掲げた五榜の掲示では、徒党・強訴やキリスト教の禁止など、江戸幕府の支配を踏襲しました。さらに、政府組織を規定した政体書を公布し、中央では太政官に権力を集中させ、地方では旧幕府直轄地に府・県を置いたものの、大名が支配する藩は残りました。これを、のちの版籍奉還・廃藩置県で解消します

また、元号を明治として一世一元の制を採用し(天皇在位期間と元号が一致)、翌年に京都の天皇御所を東京の旧江戸城に移転しました(東京遷都)。

中央集権体制

大名の領地・領民の返上には、どのような意味があったのか?

家臣と主従関係を結び、藩の領地・領民を支配する大名は、自らの軍事権と徴税権を持つ存在でした。いきなり藩が廃止されたら、領地を拠点に家臣を率いて抵抗するかもしれません。

そこで、新政府は版籍奉還(1869)を実施し、将軍から御恩として与えられた藩の領地(版)と領民(籍)を天皇へ返上させました。そして、旧大名は同じ藩の知藩事に任命され、引き続き藩内の統治にあたりました。

藩の枠組みは残りましたが、旧大名が新政府の地方長官になったことで、大名と家臣の主従関係は無くなり、廃藩置県を容易にしました。

明治新政府による政治的統一は、どのように達成されたのか?

1871年、新政府は廃藩置県を断行しました。抵抗を防ぐため薩長土3藩から御親兵を集め、知藩事を罷免して東京に居住させました。新政府が任命した知藩事を新政府が辞めさせるという巧みな方法で、旧大名の力を喪失させたのです。

そして、藩を廃止して県を設置し、府知事・県令を政府から派遣して、中央集権体制を確立しました。また、各藩に属した軍事権・徴税権を新政府が接収し、統一的な軍制・税制(徴兵制・地租改正)実施の基盤が整いました

そして、政府中央組織は、太政官の正院(太政大臣・左右大臣・参議)が最高行政機関となり、薩摩・長州・土佐・肥前の下級藩士出身者が参議や各省の卿(長官)などの地位を握って、藩閥政府が確立しました。

近代的な軍隊には、どのような特徴があるのか?

フランス皇帝ナポレオンの「国民」軍の強さは、よく知られています。「近代国家の三要素」の一つである国民は、全員の平等が法により保障され自分自身と国家を同一視する存在です。近代的な徴兵制は、特定身分による軍事力独占の否定と、ナショナリズムに基づく国民の統合を前提に成立しました。

政府は列強の東アジア進出に対抗するため、こうした近代的な軍事制度を整備しました。大村益次郎(長州)の立案を山県有朋(長州)が継承して徴兵告諭(1872)を発布し(兵役を「血税」と表現)、翌年に徴兵令を公布して国民皆兵の原則を掲げました。

しかし、戸主などには兵役を免除する免役規定があり、負担が増えた農民が中心となり徴兵反対の血税一揆を起こしました。

身分制改革

近代的な身分制度と戸籍制度は、どのように形成されたのか?

「国民」の形成には、家ごとに職が世襲的に決まる近世的身分制度の解体が必要でした。そこで、政府は公家・大名を華族、武士を士族、百姓・町人を平民としたうえで、平民に字を許可し、華族・士族と平民との結婚の自由や職業選択の自由を認めました(四民平等)。

一方、えた・非人を平民と同様に扱う身分解放令が発されたものの、社会的な差別は続き、のちの大正時代の被差別部落解放運動につながります

そして、古代律令制以来の全国的戸籍として壬申戸籍(1872)が作成されました。国民が国家に把握されると、統一的な徴兵・徴税も可能となりました

近世以来の士族の特権は、どのように失われたのか?

政府は華族(旧大名)・士族(旧武士)に対し、江戸時代の俸禄(御恩として与えられた米)に代わる家禄を含めた秩禄(ちつろく)を支給しました。廃藩置県後も、彼らの収入は一応保障されたのです。しかし、徴兵制により、軍事力を保持していた華士族の役割は薄れます。

そこで、財政負担となった秩禄の支給をやめ(秩禄処分1876)、代わりに金禄公債証書を与えました。士族が受け取った公債の額は少なく、不慣れな「士族の商法」に手を出して失敗する者もあり、士族授産北海道開拓の屯田兵など)も不十分でした。また、同年の廃刀令で帯刀が禁止され、江戸時代以来の武士の特権はすべて失われました

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)