日本の近代化を支えた100年前の女性労働者たちは、どんなものを食べて、どんな日常生活を送っていたのだろうか。

女性労働者の「間食」に着目した歴史地理学者の湯澤規子・法政大学教授は、新著『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)で、女性労働者たちの外出が認められて、「買い食い」したものとして、「焼き芋」をあげている。

「焼き芋」から見えてくる、女性労働者たちの置かれた環境や、リアルな姿について、新著から一部を抜粋してお届けする。

●自由に外出する権利を獲得する

高井としを(『女工哀史』の作者である細井和喜蔵の内縁の妻で、『女工哀史』に描かれた女工の一人)が働いていた東京、亀戸の工場地域では、1927(昭和2)年5月に、日本で初めての女性労働運動が動き始めていた。東洋モスリン亀戸第一、第二工場に5021人の労働者のうち、4951人が集まり、待遇改善を要求した。要求は提出後わずか1日で認められている。

この要求の中に、「寄宿女工を自由に外出させること」という文言が含まれていた。ということは、それまでは、基本的に工場で働く女性たちは工場の外へ自由に出ることができなかったわけである。衣食住は工場によって用意され、女工たちの日常生活世界は工場という世界に限られていたことになる。女性労働運動史においてこの問題は、東洋モスリンに限らず、全国の紡績女性労働者にとっての「人権宣言」として、画期的意義を持つものであったとされている。

「自由に外出する」とは、社会とのつながりを自主的に持つことを意味している。社会とのつながりを持つと、当然ながら視野が広くなり、様々な刺激を受けて、自己を確立していくことができる。外出を禁ずるのには、そうした経験を女性たちがしないようにという意図も含まれていたのだろう。

近代日本では、女工に限らず早くから女性の政治活動に厳しい制限が加えられていた。1890(明治23)年に集会及政社法で女性の政治活動を禁じて以来、1900(明治33)年の治安警察法第5条がこれを引継ぎ、第1項で女性が政治結社に加入することを禁じ、第2項で女性を政談集会に集めること、発起人となることを禁じていた。

このうち第2項は1922(大正11)年3月に改められ、政談集会に参加したり、主催したりする権利がようやく女性にも認められるようになった。女工たちが外出する権利を手にすることができたのは、その前提として、こうした政治的な制限に対する粘り強い改変の要求があったからである。しかしながら、女性は普通選挙法案からは除外され、政党に加入して活動することは、未だ許されなかった。

●集会と焼き芋は喜びとささやかな抵抗

では、自由に外出する権利を得て、女工たちの日常生活世界にはどのような変化があり、彼女たちはどのような経験をするようになったのだろうか。ここでは2つのことに言及したい。1つは集会などに参加して学ぶ機会を得たということである。そしてもう1つは、自分で働いて得たお金を持って、自分で何かを買いに行くという経験を得たということである。

例えば亀戸の工場街に目を向けると、1929(昭和4)年8月22日、亀戸7丁目224番地に「労働女塾」が誕生した。中心になったのは、帯刀貞代という女性である。帯刀の言葉から当時の様子を見てみよう。

東洋モスリンの人たちは、27年6月、寄宿舎外出の自由を獲得しており、ときには選挙の応援にでかけることもあったように思う。(中略)
私は女工さんたちに裁縫を教える塾を開こうと考えた。はじめに移り住んだころとちがって、ともかく彼女たちはこの年6月30日をかぎりとして、つらかった深夜業からは解放され、午後2時の交替時間を境として、前番の人は午後2時以降、後番の人は午前中に、少しゆとりのある時間を持てるようになっていた。(注1)

教える科目は「学科(婦人と労働組合プロレタリア経済学など)」、「裁縫(和服、婦人子供洋服)」、「手芸(編物、刺?、袋物)」、「割烹」であった。裁縫を主にしたのは女工たちの要求に応えた結果であった。塾は前番、後番それぞれ15人前後、合わせて30人あまりの人たちが多少の出入りはありながら続いていった。

さらに、もう一つ、自分のお金で買い物に行くことについても触れておこう。女工たちにとっては、長らく工場の壁の中が生活世界の全てであったことを考えると、現在の私たちが想像する以上に、自由に外出して買い物をする喜びは大きいものだったに違いない。また、工場で用意される食事以外の饅頭や煎餅などの菓子を購入することによって、工場での生活世界や人間関係を立て直し、困難を乗り越えてきた。

当時の女工たちが置かれていた状況をふまえると、「間食」や「嗜好品」の世界は単なる娯楽というよりもむしろ、企業や工場の管理下でなお、自らの力で生きていることを実感できる喜びとささやかな抵抗という意味があったように思えるのである。そうだとするならば、女工たちの外出時の行動や、食べていた物は、働く女性自身による日常生活世界の一部として、等閑視できない重要な意味があったのだといえる。

先に見たように、例えば愛知県尾西織物業地域では、女工たちが小遣いをもって外出した際に立ち寄るのは、工場の近くにある菓子屋、うどん屋、八百屋などで、うどん、あられみたらし団子、果物、大判焼き鯛焼きを食べ、みかん水やラムネを飲むことを楽しんでいた。亀戸の東洋モスリンの南側には千葉街道と竪川、北側には都電が通り、食べもの、着物、下駄、化粧品の店ができ、五の橋館という映画館もあった。(注2)

外出による「買い食い」の中で、近代において興隆した象徴的な食べものの一つに「焼き芋」がある。大豆生田稔『お米と食の近代史』(吉川弘文館)には「焼き芋屋の繁盛」という記述がある。それは工場労働者たちの空腹を満たす食事でもあり、間食の楽しみともなるものであった。各地の女工たちも焼き芋を好んで食べていた。例えば実際に、次のような具体的な事例がある。

現在の兵庫県尼崎市域内の南東部にはかつて小田村という村があった。そこに大阪合同紡績会社ができたのは、1913(大正2)年のことである。(注3)1931(昭和6)年には東洋紡績会社が大阪合同紡績神崎工場を吸収合併して、東洋紡績神崎工場となっている。そこにはたくさんの若い女性が集まってきた。むろん工場で働くためである。

工場周辺の集落は賑わい、工場の西側には社員用の住宅地が、北側には通いの職工用の長屋が林立した。また、「杭瀬」という地域周辺の東西の道は商店街として賑わった。この辺りには市場、映画館、芝居小屋などもあった。女工たちは工場での仕事を終えると、外出の許可をとり、杭瀬へと出掛けるのを楽しみにしていた。

まず正門を出て左へ曲ると私の大好きな杭瀬市場がありました。今でこそ市場は珍しくもありませんが当時は珍しくて焼芋をよく買いに行きました。(注4)
杭瀬の町に小さな市場がありましたが、なか程にお菓子屋がありました。「動物ピスケット・砂糖付」「いも松葉」(注5)「花林糖」などをガラスの蓋をしめたり開けたり、店の人は大きなブリキ箱を片膝を立ててザアーとあけており、そのお菓子を買うのは、とっても楽しみでした。時に、20銭くらい買ったのでしょうか。
その並びに呉服屋さんがあり、部屋の人達と一緒に行って、洋服の布地を買ってきました。(注6)

焼き芋を買う場面は、東洋紡績神崎工場で働いていた女性たちによってこんな風に回想されている。工場での仕事を終えたあと、あるいは休日の外出先は工場近くの商店街や市場であり、彼女たちの楽しみは、そこで工場内での食事以外のものを食べることであった。焼き芋はその代表的な食べものの一つであり、近代日本における労働者と工場との関係を表す、一つの象徴でもあったのである。

[注釈]
1 帯刀貞代『ある遍歴の自叙伝』草土文化、1980年、66、71頁。. 2 小畑精武「東京下町女性労働史を歩く・戦前(二)東洋モスリン争議」『先駆』(966)、2018年、30頁。
3 以下、松井美枝「紡績工場の女性寄宿労働者と地域社会との関わり」『人文地理』52(5)、2000年、59〜73頁による。
4 東洋紡績神崎会『続続神崎工場物語 ─糸切りの花咲けど今は嘆かじ』東洋紡績神崎会、1982年、9頁。
5 サツマイモを短冊状に切り、油で揚げて砂糖を絡めた菓子、「芋けんぴ」のこと。
6 東洋紡績神崎会『続続続神崎工場物語 ─哀歓・想い出の煙突女学校』東洋紡績神崎会、1983年、104頁。

近代化を支えた女性労働者たちが好んだ「焼き芋」、垣間見える労働環境のリアル