(町田 明広:歴史学者)

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◉薩英戦争160年―日本の近代化に与えた影響とは①
◉薩英戦争160年―日本の近代化に与えた影響とは②

薩摩藩はなぜ臨戦態勢を取ったのか?

 文久2年(1862)8月21日生麦事件が勃発した。イギリスラッセル外相は、薩摩藩に対しては、1名ないし数名のイギリス海軍士官の立会いの下にリチャードソンを殺害し、その他の者に危害を加えた犯人を裁判に付し処刑すること、被害に会った4名のイギリス人関係者に分配するため、2万5000ポンド(10万ドル)を支払うことを要求した。

 この内容が幕府にもたらされたのは、文久3年(1863)2月後半のことで、幕府はその英文を福澤諭吉、高畠五郎、箕作秋坪、大築保太郎、村上英俊の5名に翻訳させた。福澤らは、誤訳などなく訳すことができた。この内容を薩摩藩に伝達することになるが、そのためには14代将軍徳川家茂の了解が必須であった。しかし、運悪く、家茂は上洛しており、訳文は伝言ゲームのように上方まで伝えられた。

 その間に、訳文は変わってしまい、薩摩藩への要求は犯人の処刑ではなく、なんと島津久光の首級の差し出しとなり、京都留守居役に誤伝されたのだ。あれだけイギリスに友好的であった薩摩藩であったが、さすがに最高権力者の久光の首を差し出すことは不可能であった。この誤伝によって、薩摩藩はイギリスに対して臨戦態勢を取ったのだ。

英国艦隊の鹿児島到着と「スイカ売り決死隊」

 文久3年5月9日、老中格小笠原長行は生麦事件の賠償金10万ポンドを支払ったため、イギリス代理公使ニールは鹿児島に向かうことが可能となり、6月22日に横浜を出港して、27日には鹿児島湾に到着した。幕府は再三にわたって、鹿児島行きを断念するように求めたが、薩摩藩との戦争の可能性はゼロに等しいと判断していたニールは、その要求を謝絶したのだ。

 6月28日イギリス艦隊は鹿児島城下前の前之浜から約1km沖に投錨した。そして、薩摩藩の使者に対し、ニールは生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への賠償金2万5000ポンドをあらためて要求した。それを踏まえ、薩摩藩側は回答を留保した上で、翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案した。

 しかし、ニールは6月29日に城内での会談を拒否し、早急な回答を要求した。やや不穏な雰囲気を感じながらも、イギリス側にはまだ戦争に至らないという思いが支配的であった。

 ここで、薩摩藩側では奇想天外な作戦プランが浮上する。生麦事件でリチャードソンを斬った奈良原喜左衛門らがイギリス艦に奇襲攻撃を仕掛けることに決したのだ。奈良原に加え、海江田信義、黒田清隆、大山巌らがイギリスの要求に対する答使とスイカ売りに変装し艦隊に接近した。いわゆる、「スイカ売り決死隊」である。

 使者を装った一部は乗艦に成功したが、イギリス艦隊側に警戒されて、ほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は失敗に帰して奈良原らは退去した。薩英戦争まで、秒読み段階となったのだ。

捕虜になった五代友厚と薩英戦争の戦況

 文久3年7月1日、ニール代理公使は薩摩藩の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。翌2日には、イギリス艦隊は五代友厚や寺島宗則らが乗船する薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)を拿捕した。この際、イギリス側は乗組員を拘束せず、陸地に戻るように命じたが、五代と寺島は自ら進んで捕虜となった。

 そのため、五代らは幕府のみならず、薩摩藩からも追われることになるが、捕虜になったことに関して、まったく言い訳をしていない。恐らく、自らが指揮する艦船が拿捕されたことの責任感もあったであろうが、あえて捕虜になることによって、イギリス側の情報をつかみ、何らかの方法で鹿児島に伝えることを企図したものであろう。ちなみに、五代らはほどなく帰参し、2年後に薩摩スチューデントとして、ロンドンに向かうことになる。

 さて、汽船3隻の拿捕を宣戦布告ととらえた薩摩藩は、正午に湾内各所に設置した陸上砲台(台場)の80門を用いて、先制攻撃を開始した。イギリス艦隊は相変わらず、薩摩藩が戦争を仕掛けてくるとは夢想だにせず、緒戦では大打撃を受けた。

 そもそも、それまでの薩摩藩の対応から、戦闘を予想していなかったが、旗艦の応戦が遅れた理由としては、幕府から獲得した賠償金を弾薬庫前に置いていたため、戸が開けられずに2時間ほどは防戦に追われ損害を被ったのだ。しかし、その後体制を整え直して、鹿児島城下に艦砲射撃を実行し、形勢は逆転した。

 結果として、イギリス側の油断から互角の戦闘となったが、双方の損害の度合いを比較したい。イギリス艦隊の損害は、大破1・中破2、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長の戦死を含む死者13人、負傷者50人)であり、薩摩藩は人的損害こそ少なかったものの、鹿児島城、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻などが焼失した。双方が、甚大な損害を被ったのだ。

講和談判と薩摩藩の奇策

 島津久光をはじめ、薩摩藩の政権中枢は通商条約を容認する立場であったが、薩英戦争によって、即時攘夷を標榜する過激藩士も攘夷の無謀さを悟らされた。よって、藩の総意として戦争継続は困難との認識から、和睦談判を志向するに至った。

 文久3年9月28日、10月4・5日に横浜で講話談判が開かれた。そこには、幕府から立会人として目付も同席していた。5日には講和が成立し、薩摩藩は2万5000ポンドを幕府から借用して支払い、犯人は逃亡中として不問に付された。ちなみに、薩摩藩はその借用金を踏み倒している。

 ところで、薩摩藩は談判中に、戦艦や武器の調達を依頼し、さらには留学生の派遣まで打診しており、薩摩スチューデントに結実させている。今まで、戦争をしていた相手にそのような打診をすること自体、まさに奇想天外であるが、そのあまりに現実的で柔軟な発想の転換には驚くばかりである。それらはいずれも実現し、薩英間は急速に接近して友好国となるのに時間は不要であったのだ。

薩英戦争が日本の近代化に与えた影響とは

 薩英戦争およびその後の講話談判によって、雨降って地固まることわざ通りに、薩英関係は伸展した。慶応2年(1866)には公使ハリー・パークスが鹿児島を訪問し、また通訳官アーネスト・サトウは、多くの薩摩藩士と個人的な関係を築いた。

 その関係が、明治維新の原動力となったことは論をまたないであろう。その中心にいたのが小松帯刀であった。小松は、新政府の最も早い段階の外交を一手に引き受け、しかも、幕府が残した多額の賠償金や借財の整理にあたった。加えて、神戸事件や堺事件といった明治初年の外国人殺傷事件の解決にあたったが、その際に役立ったのがイギリス・パークスとの友好関係に他ならなかったのだ。

 薩英戦争は結果として、イギリスと薩摩藩を結びつけ、その友好関係を促進した。その事実を通じて、薩英戦争は幕末・維新期に極めて重要な意義を持ち、大きな影響を付与しつづけることになった。

 明治政府はイギリスとの関係を重視し、日英同盟(明治35年、1902)を結んだが、その礎は幕末期に確立した良好で親密な薩英関係に依拠していたことを忘れてはならない。

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