ボケ担当の博多華丸(左)とツッコミ、ネタ作り担当の博多大吉(右)
ボケ担当の博多華丸(左)とツッコミ、ネタ作り担当の博多大吉(右)

1990年にコンビを結成。今や"朝の顔"としておなじみの博多華丸大吉が歩んできた33年。長い福岡での下積み時代から、35歳で東京進出したときの気持ち、そして長く続けられた秘訣。その芸人人生を振り返る。

【写真】芸人人生を振り返る博多華丸・大吉

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■竹山とおたこぷーがコンビ存続を促した

――1990年に結成し、2005年まで福岡を中心に活動されていましたが、福岡時代のターニングポイントは?

大吉 僕は(カンニング)竹山がいなくなったことですね。実は同じ福岡吉本の1期生で、一緒にイベントや稽古をいっぱいやってたんです。ただ、先輩がいないから、当時の事務所の所長にイチから基礎を叩き込まれたんです。

それがかなり厳しくて、新番組でMCに抜擢(ばってき)された竹山が突然消えたんです。福岡吉本には竹山のコンビ(ター坊ケン坊)と僕らの2組しかいなかったから、それで自動的に僕らが繰り上がった感じというか。もし竹山が福岡で続けてたら芸人を辞めてたと思う。それぐらいデカいことでした。

華丸 あと、おたこぷー(お笑いコンビ「プー&ムー」のボケ担当)って2コ下の後輩がいたのも大きかったね。すっごい人気があって、彼のおかげで一気に福岡吉本が認知されるようになったんです。

変な顔や動きですぐにお客さんをツカむ芸風で、スロースターターの僕らができないことを全部やってくれた。彼がいなかったら続いてなかったんじゃないかな。

――『吉本超合金』(テレビ大阪、1997~2000年)が福岡でも放送開始。大阪の笑いが入ってきたことに対する焦りはあった?

華丸 大阪の笑いが入ってきたのはそれよりもう少し前ですが、危機感はありましたね。

大吉 『超合金』と同時期に福岡に常設劇場ができて、大阪や東京からゲストが来るようになったんですけど、人気も実力も大きな差を感じましたね。

今考えても、中川家、やすとも(海原やすよ ともこ)、DonDokoDonとかすごいメンバーで。打ち上げに行っても、礼二くんとぐっさん山口智充)がミニコント始めるから「なんじゃこりゃ!?」と思いましたよ。

華丸 あれはすごかったね! もう見とれる感じでした。

大吉 悔しいとかじゃなく「すげぇな」っていう。『超合金』を大きなきっかけとしてドンッと福岡に若手芸人ブームが来たんですよね。

■『エンタ』に出たら帰るつもりだった

――そして05年に東京進出。35歳から新天地で活動することに不安はなかったですか?

大吉 めちゃめちゃありました。今でこそ30歳ってまだ若いですけど、僕らのときは「なんで今?」って山ほど言われましたし。

華丸 ただ、お笑いブームで福岡のお客さんの目が厳しくなったのもあるし、そんな中僕らがずーっとやってるのが偉そうに映ったのかもしれない。直接言われたわけじゃないけど、どっかで「東京じゃ無理なんだろ」って雰囲気を感じたんですよね。

東京に行く前から『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)でそれなりに結果(13勝4敗でゴールドバトラーに認定されている)を出してたから自信もあったし、ちょうど元・福岡吉本のヒロシや竹山がブレイクして比較されたこともあって「じゃあ『エンタの神様』(日本テレビ系)出るよ」ってなったんですよね。当時の福岡では、『エンタ』に出たらスーパーヒーローですから(笑)。

大吉 福岡在住だとオーディション受けられなかったので、1回住所移して『エンタ』に何回か出て認めてもらったら戻ろうってね。ただ、いざ準備して行ったら見事にオーディションで落ちて(笑)。

華丸 だからまだ東京にいるんですよ(笑)。『エンタ』に出たら帰るのに。ほかのネタ番組も受けたけど全部ダメでね。当時の『M-1』はコンビ歴10年以内が条件だから出られないし。

「博士と助手~細かすぎて伝わらないモノマネ選手権~」(フジテレビ系・『とんねるずのみなさんのおかげでした』内のコーナー)だけキャリア関係なく受けられて、そこで児玉清さんのものまねをやったら優勝したんですよ。それが東京に来て半年ぐらい。そして翌年の『R-1ぐらんぷり』でも優勝させてもらいました。

大吉 ただ、『R-1』決勝前にネタを巡ってけっこうな大ゲンカをしたんですよ。準決勝の児玉清さんのネタを見て「あれ、ひょっとしたら優勝するかも」と思ってたら、「決勝では〝博多のおじさん〟のコントやる」とか言い出して。「いや、それは絶対やめたほうがいい」って。

華丸 児玉 清さんのネタはとんねるずさんの番組でもうやってたし、とにかく全国ネットで博多弁を出したいと思ったんです(笑)。そもそも当時の『R-1』はピン芸人の大会って雰囲気が強く、僕みたいな人は優勝しちゃいけないって思いもあって。

大吉 華丸さんは、コンビの片割れが優勝した初めての芸人なんですよね。

華丸 僕の前の大会がほっしゃん。(現・星田英利)で、それはもう涙の優勝やったんです。次長課長の河本(準一)くんとか(千原)ジュニアさんとかは大会に出てたけど、決勝までは誰も受かってなかったんです。

でも、僕だけ決勝に残っちゃって「まさか優勝はない」と思ってるから、せめて一石投じたかったんですよ。それで「博多弁を出さんと福岡の人が喜ばんやろ!」って怒ったら、大吉さんが「いやいや、ダメダメ」と。そこから「おまえ、何東京染まったとや!」とかってワケのわからないケンカになり(笑)。

けど、今となっては止めてくれてよかったなと思ってます。

大吉 思えばそこからずっと順調なんですよね。漫才もずっとやってたし、レギュラー番組もすぐもらえたし。『R-1』優勝の数年後には『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の常連になって、12年に「華丸・大吉芸人」をやってもらえたり。

14年に『THE MANZAI』で優勝したときに「ようやくチャンスつかんだね!」みたいに言われたんですけど、正直「今までずっと出させてもらってたけどなぁ......」と(苦笑)。福岡にいたときから仕事が2週間ない、みたいなこともなかったんじゃないかな。

華丸 よっぽど僕ら下に見られてたんですよ(苦笑)。

――おふたりが東京進出した頃は、おぎやはぎアンガールズといったコンビが活躍し始めた時期とも重なりますよね。

華丸 静かというか落ち着いたコンビが好まれる時代だったのも運が良かったですね。東京に来て最初のうちは「ひな壇で立つのが遅い」ってめちゃくちゃ言われたんですよ。周りが「おーい!」って立ち上がってるのに、僕らだけ遅れるみたいな。

そもそも僕は、何が「なんでやねん」なのかもわからなくて。「あー、間に合わん」と思って、ふと横を見たら大吉さんもまだ座ってて(笑)。

大吉 僕は気づいてるんですけど、反射神経がないので出遅れちゃうんです。だから「どうせ遅れるなら、もう座っとこう」っていう(笑)。

華丸 福岡には東京や大阪ほど芸人がいないから、ひな壇の文化もなかったしね。そんな中、『アメトーーク!』は「落ち着いてるのがいい」って逆に僕らを面白く浮き上がらせてくれた。それからすごい気が楽になりましたね。

大吉 もうひとつツイてたのは、2005年の『M-1』王者がブラックマヨネーズだったこと。翌年の『R-1』王者が華丸さんだから、その2組でよくいろんな番組に回ったんです。

ひな壇の前列でブラマヨがギャーギャー絡んで笑いを取る中、後列の僕らは静かにたたずんでる(笑)。そのコントラストで僕らのキャラが勝手に立ったというか。

あとブラマヨが東京じゃなくて大阪で活動する道を選んだのも大きかった。あれがブラマヨじゃなくて僕らと似たチャンピオンだったら食われてたと思います。

■福岡での15年間も無駄ではなかった

――今年でコンビ結成33周年。ここまで長く続けられた秘訣(ひけつ)はなんでしょうか?

大吉 やっぱり福岡の15年がデカかったですね。ギャラ単価にしても、東京で「安い」って言ってる人の額聞いて「高っ!」って普通に思いましたし。後から東京の人としゃべって、「とんでもない環境にいたんだな」って痛感することばっかりでしたから。

華丸 あれが耐えられたからなんでも我慢できるというかね。「よくそんなひどい仕事しますね」って言われても、「何が?」っていうのはかなりありました。

大吉 あと人生に無駄なことってないんだなと思ったのが、華丸さんのドラマ好きですね。20代の頃から僕が基本的にはネタの骨格を作ってるんですけど、ある日まったくアイデアが浮かばなくて「何かヒントくれないか」って言ったら、華丸さんドラマに夢中で全然話を聞いてくれなくて。

そのときは「僕はこんなに頑張ってるのに!」って腹を立ててたんですけど、『あさイチ』が始まってから、そんな華丸さんにめちゃめちゃ助けられてる。 

僕はドラマをまったく見てこなかったから、ゲストの俳優さんや女優さんとの会話は全部華丸さんに丸投げですよ。華丸さんが「あそこのシーンが好きで」って細かい話までできるから、視聴者の方も「あの名作のあんなシーンを華丸さん覚えてるんだ!」って喜んでくれてるみたいだし、本当に何がどこで生きるかわからんなと。それは年を取ってわかったことですね。

――華丸さんは舞台で座長を、大吉さんは『M-1』で審査員を担当されています。人へのアドバイスで心がけていることはありますか?

大吉 僕がいつも言うのは、「お望みとあれば全部言うよ。ただ、今から僕が言うことは全部今の時代に通用しない」ってことです。

「僕らはこうやってネタ作ったよ」「こんな番組はこう心がけてやってるよ」とか全部言えるけど、もう今はその常識がまったく通用しない。だから、伝記を読む感覚で聞けるなら言ってあげられるよって感じですね。もしかしたらヒントがあるかもしれないけど、基本的には昔話だと思って聞いてくださいって(苦笑)。

だって動画とか配信の時代になってきて、ある程度みんなそこでコツつかんだりしてるじゃないですか。そんなの僕に相談されてもわかんないし、教えようがないですからね。

華丸 僕は、そこまで座長の経験もないのにやらせてもらってるのでアドバイスが合ってるのかわからないですけど「サイドメニューのよさってあるよ」ということは伝えていますね。

僕、実は吉本新喜劇に1年半だけ所属してたときがあって、セリフが「うどんちょうだい」とか「カツ丼3つとって」とかしかなかったんですよ。ただ、そのときに「これ僕の言い方でウケ方が違うんだな」って気づいて。だから、お芝居に関しては「脇役にも面白みがあるから」って。

今は座長の立場だから偉そうに聞こえちゃうかもしれないけど、本当に僕が思ったことを言ってます。実際に僕、らっきょ好きですし。らっきょがなかったら、私カレーは食べないですから。

大吉 いやいや、それで「なるほど」とはならんよ(笑)。

華丸 あら、福神漬け派ですか。どうりで響かん(笑)。まぁとにかく脇役にもよさがあるって話ですよ。

――来年2月には、大型イベント「博多華丸・大吉 presents 華大どんたく」が控えています。

大吉 僕らの単独イベントではないので(苦笑)、そこは強く言っておきます。

華丸 出演者は今交渉中みたいです。ドーム単独公演なんて背負えないですよ(笑)。

大吉 オードリーぐらい人気ないとね(笑)。基本的には吉本の芸人がネタや企画モノ、ゲームをやって歌ったりもする吉本博覧会みたいなイベントです。僕らは要所要所で出ますので、お時間ありましたらぜひ遊びに来ていただければと思います。

博多華丸 
1970年4月8日生まれ、福岡県出身。ボケ担当。2006年に『R-1ぐらんぷり』優勝。俳優としてはドラマ『めんたいぴりり』、映画『マスカレード・ナイト』、大河ドラマ『青天を衝け』などに出演。舞台「羽世保スウィングボーイズ」では座長を務める。

博多大吉 
1971年3月10日生まれ、福岡県出身。ツッコミ、ネタ作り担当。2008年に『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の「中学の時イケてないグループに属していた芸人」で注目される。2016、2017、2022年には『M-1』で審査員を務める。プロレス好き。

取材・文/鈴木 旭 撮影/渡辺凌介

ボケ担当の博多華丸(左)とツッコミ、ネタ作り担当の博多大吉(右)