「もし秋葉原事件がなければ、まったく違う人生を歩んでいたと思います。ふたたび罪を犯さないように支援する仕事は、目に見える数字に現れませんが、自分なりに模索しながら、予防的に芽を摘んでいきたいです」

東京・秋葉原の「無差別殺傷事件」で、殺人などの罪に問われて、昨年7月に死刑執行された加藤智大・元死刑囚と同じ会社で働いていた大友秀逸さん(47)がこのほど、保護司となった。今年9月中旬、法務省で研修を受けたあと、筆者の取材に応じた。(ライター・渋井哲也)

●死刑執行の際、被害者の1人から電話をもらった

保護司とは、罪を犯したり、非行に走った人の立ち直りを支援する仕事だ。法律に基づいて、法務大臣から委嘱された非常勤の「国家公務員」とされているが、給与はなく、実際には「ボランティア」である。

秋葉原事件前だったと思いますが、飲み屋で隣になった人と保護司について話したことがあります。それまでも存在は知っていたんですが、『ほごつかさ』と間違って覚えていました。

その人が『ほごし』と読むと教えてくれたんですが、やたら詳しい話だったので、今にして思えば、そのときに、より保護司に関心を持ったのかもしれません」

大友さんが保護司になろうと思ったのは、秋葉原事件のあと、保護司に関連する書籍を読んだり、ドキュメンタリーを見たりするようになってからだ。

「(ある保護司の)ドキュメンタリーを見た感想は、すごいの一言でした。ときには、支援中の人に裏切られても、手を差し伸べ続ける。そんなこと、僕にできるかな? できないかな? できないだろうなと考えたり。そのうち『いつか保護司になりたい』と漠然と思うようになりました」

どうして、今のタイミングで保護司になったのか。

「昨年7月の死刑執行に際して、被害者の1人から電話をもらいました。覚悟していたつもりですが、さすがに耐えきれないくらいの言葉でした。そのときに『被害者の処罰感情って、これほどまでも強く、重たいものなんだ』と思いました。

その方も、僕に執行のタイミングを言ったところで仕方がないということは、誰よりもわかっていたと思いますが、それでも感情を抑えられなかった。それがきっかけになって、加害者が生まれなければ、被害者も生まれない、加害者を減らしていくために今できることは何かと考えて、保護司はその一つだと思い出したんです」

●「僕は僕なりに、その人と同じ土俵で悩みたい」

加藤の元同僚・友人として秋葉原事件を語ってきたことで、更生保護に携わる人たちとのつながりもできていた大友さん。いよいよ保護司の面接に挑むことになった。

「仕事を退職して、65歳くらいから始めるつもりでしたが、20年くらい前倒しです。地区の保護観察所に連絡して、面接することになりました。面接では、日中に時間がとれるかどうかを心配されました。どんなに意欲があっても、日中に時間が取れないと当事者に会えず、担当になれません。

僕の場合、基本は夜勤の仕事をしているので、終わったあとに寝なければ、日中の時間があります。ほかにも、資産家や経営者じゃないと保護司になれないのかなと確認したら、そこは『大丈夫だと思うよ』と言ってくれました。それも勝手なイメージでしたね」

法務省によると、2023年1月現在、保護司数は全国4万6956人、平均年齢は65.6歳で上昇中。女性の比率は26.8%と増加傾向にある。最近は、女優・有村架純主演の映画『前科者』の影響を受けて、保護司に関心を持つ若者も増えているという。

「『前科者』という作品に影響を受けて保護司になった人の中には、自身が描いていたイメージとのギャップに悩まれる人がいると聞きますし、実際は作品のようにはいかないこともあると聞きます。そんな感動ストーリーはまずない仕事で、映画やドラマのようにはいかないようです」

そんな保護司は、研修などに参加して知識を得ることは大切だが、心身ともに健康であることが大切だそうだ。

「面接でも、研修でも言われたのですが、お金や時間があっても、健康じゃない人は活動できません。そのため、保護司になろうと手を上げたあと、食生活と睡眠時間を見直しました。その結果、体重が12キロも落ちました。内臓系の薬を飲んでいたのですが、医者に『もう飲まなくてもよい』と言われました」

同じ地区の先輩・保護司からは、変に気負わず、あえて淡々とこなすようにというアドバイスをもらったという。

「加藤の元同僚・友人として、Twitter(現在のX)で情報発信することで、いろいろな相談がくることがあります。専門家の中には『黙って、頷いて、傾聴する』という人もいます。その方法は否定しませんが、僕は僕なりに、その人と同じ土俵で悩みたい。そのため、知識だけに縛られず、他の専門家と違うアプローチを模索していきたいです」

加藤智大元死刑囚の友人が更生支援の「保護司」に 「秋葉原事件がなければまったく違う人生だった」