日本では、高所得者と低所得者が同じ地域に住んでいることが多く、その地域の学校では同じクラスで高所得者の子供と低所得者の子供が一緒に学ぶことになります。このシステムについて、ノンフィクション作家・石井光太氏は、全員が一定以上の教育を受けられるという利点がある反面、欠点もあるといいます。どういうことか、石井氏の著書『世界と比べてわかる 日本の貧困のリアル』(PHP研究所)から一部抜粋して紹介します。

高所得者の子と低所得者の子が混在するクラス

日本には、慶應義塾のような幼稚舎からつづく私立の名門一貫校が存在する。富裕層が子供をエリートにするために一流私立校へ通わせるのだ。

ただし、名門私立校といっても、ほとんどは中学受験を経て入る中高一貫校か、大学の附属校である。そのため、富裕層の子供であっても、小学校までは地元の公立校に通っているのが普通だ(地域によっては中学受験が盛んでないため、中学まで公立というケースも少なくない)。

日本の都市は、高所得者と低所得者が同一の地域に暮らす「混在型都市」である。そのため、公立の小中学校には、学区内に暮らすいろんな階層の子供たちが集まっている。年収3,000万円以上の家庭の子供もいれば、年収500万円の家庭の子供もいるし、生活保護を受けている母子家庭の子供もいる。それらすべての子供が1つの教室で机を並べるのだ。

また、日本の公立の小中学校で行われているのは、標準レベルの生徒に合わせた授業だ。30人から40人くらいの学力の異なる生徒が理解できるような形で進められる。主要科目以外の教育も重視され、音楽、美術、図工、技術、道徳、家庭科などといった授業に割り当てられる時間は、諸外国と比べても長い。

筆者はこうした日本の教育を悪いものだとは思っていない。しかしながら、各家庭の親が学校とは別に子供に習い事をさせることによって、一段も二段も高いレベルに引き上げようとするとき、子供たちの間に経済格差による不平等が生じることがある。

そのことを踏まえて日本の教育の利点と欠点を示すと次のようになる。

・利点:全員が一定以上の教育を受けられ、チャンスをもらえる。

・欠点:子供たちの競争において、経済格差が有利不利を生み出す。

利点の面から考えてみたい。

日本の公立校では先述のように標準レベルの授業が行われている。高校や大学の入試問題は教科書の内容の範囲で出題されるため、子供たちが授業の内容を理解できていれば、そこそこのレベルの学校へは進学することができる。

また、親から習い事をさせてもらえなくても、主要科目以外の教科や部活動(クラブ)によって、その子が学力以外の才能や可能性を見いだす機会もある。その道のプロにならなくても、子供にとっては自尊心を高めたり、視野を広げたりすることに役立つだろう。

進学に際しては、貧しい家庭の子供のために奨学金や支援金の制度が用意されている。それを利用すれば、ゼロとはいかないまでも、家庭の負担は大幅に軽減される。

ここからいえるのは、日本の公立校では、どんな家庭の子供であってもある程度の学力をつけ、進学するだけの教育が行われているということだ。本人の努力次第で、そこから大きな企業へ就職するなどして貧困から脱することも夢ではないし、スポーツや芸術の道を切り開いていくこともできる。

途上国の貧困地域にある公立校は、基本的には義務教育で学業を終えることを前提とした指導をしている。それに比べれば、日本は子供のやる気によってどこまでも可能性が広がるような指導をしているといえるだろう。それは貧しい家庭の子供にとっては大きな利点だ。

チャンスを「自ら捨ててしまう」子供が一定数いる理由

しかしながら、公立校に通う貧しい子供たちがみなその恩恵を受けているわけではない。チャンスはたくさん用意されているのに、それを自ら捨ててしまう子供たちが一定数いるのだ。

なぜか。それは経済格差の中で子供たちの中に生まれる劣等感が深く関係している。貧しい子供たちは高所得家庭の子供たちと過ごし、競い合ううちに、持たざる者としての自分の立場を思い知らされるのである。

たとえば、公立学校では授業料こそ無償だが、給食費や修学旅行費の積み立て、部活動の諸経費などは各家庭の負担であり、子供たちの中には経済的な事情から支払いが困難な家庭もある。

文部科学省の調べでは、公立の小中学校の生徒の約1%が給食費(小学校が月平均4,477円、中学校が月平均5,121円)を未納しているとされている。こうした子供たちが、「うちの家は貧乏で恥ずかしい」とか「もう学校に行きたくない」といった否定的な気持ちを抱いてしまうのは仕方のないことだ。

また、学校内外でのクラスメイトの何気ない付き合いから、子供たちが家庭環境の違いを痛感することも少なくない。富裕層の子供が誕生日に高価なプレゼントを買ってもらっていたり、夏休みに海外旅行へ行っていたり、最新のゲームやスマートフォンを持っていたりすれば、貧困層の子供たちは家庭環境の違いを痛感するだろう。

習い事においても明確な差がある。たしかに日本の公立校もそれなりのレベルの授業をしている。だが、富裕層の子供は、小さな頃から学校以外にも学習塾や英会話に通っており、より高いレベルの教育を受ける機会に恵まれている。これはスポーツや芸術などにおいても同じだ。そうなれば、本人の努力だけではなかなか埋められない差が生じることもある。

事例から、よりリアルに考えてみよう。

●美菜が進学を諦めた理由

美菜は、兵庫県内で水商売をしている母親の娘として生まれた。母親は仕事が終わった後も朝まで客と飲み歩いて帰って来ず、実質的に同居していた祖母によって育てられた。

祖母は母から養育費を受け取っていなかったので、自身のパート代でやりくりしていた。友達はよく地元のプールやスケートに行こうと誘ってくれたが、美菜は祖母にお小遣いをせがむことができず断ってばかりいた。遠足のときも、お菓子を持参できないのが恥ずかしく、仮病を使って休んだこともあった。

中学に入ると、美菜はこれまで以上にお金のことを気にする機会が増えた。制服や上履きが小さくなっても買ってくれといい出せず、虫歯になっても歯医者へ行かずに痛みに耐えようとした。おしゃれな服がなかったので、外出の際は常に制服だった。

クラスメイトたちの中には塾を掛け持ちして受験勉強に励む者もいた。だが、美菜には高校へ行くことにためらいがあった。受験のためにはお金がかかり、進学した後も何かと出費が重なる。この頃、祖母は体調を崩しており、自分のために無理をさせるわけにはいかないという事情もあった。

美菜は悩んだ末に進学を諦め、中学卒業後はアルバイトをして生きていくことにした。自分で選んだこととはいえ、高校生になった同級生たちが輝いているように見えた。美菜は彼らと距離を取り、同じような境遇のフリーターたちと付き合うようになっていった。自分は日陰の存在で、変に夢を抱いてはいけないという気持ちがあった。

18歳のとき、彼女はフリーターの男性との間に子供ができた。幸せな家庭を夢見て結婚し、出産したが、1年も経たずに離婚。それから6年が経った今は、生活保護を受けながらシングルマザーとして生きている。

「劣等感」が低所得家庭の子供に与える「影響」

美菜のような低所得家庭の子供は少なからずいる。幼い頃から貧しいことが原因で何度も傷ついた体験を重ねているうちに、いろんなことを諦めていってしまうのだ。

彼らの中にあるのは大きな劣等感だ。「うちは貧しいから、これ以上迷惑かけちゃいけないんだ」「努力したって無駄なんだ」「自分は普通の人と比べて劣っているんだ」。そんな気持ちが生まれるのである。いくらチャンスがあっても、心が削られてしまうと、そこから抜け出せなくなる。

ある高校の教師はこう語っていた。

「経済的に豊かではない家庭の生徒は、親に負担をかけまいとして大学受験をしない傾向にあります。彼らは日常的にお金のことで親を困らせているという罪悪感を抱いています。だから、これ以上負担になってはいけないとか、自分が早く親を助けなければならないと考える。それで大学進学を諦めてしまうのです。うちの高校の場合は、入学当初から就職を希望する生徒の8割以上が所得の低い家庭の子供です」

もう一度いうが、筆者は日本の教育システムを否定したいわけではない。ただ、高所得者と低所得者が同一の地域に暮らす混在型都市の中では、低所得家庭の子供たちは、自分たちが抱えるハンディーを感じやすく、それによって劣等感が生じると、子供自身が身の回りにある様々なチャンスを放棄することがあるのだ。それだけ、彼らの中に植えつけられた劣等感が足枷になるのである。

昔、アフリカギニアの出身である有名外国人タレントと貧困についてのトークイベントをした際に、彼がこんなことをいっていたのが印象的だった。

「僕は大人になるまで、自分が貧しいって思ったことなかったよ。周りがみんな大変だったから、それが当たり前だって思っていた。だから、つらいとか大変だったっていう記憶がないの。けど、日本はそうじゃないでしょ。子供のときから自分は貧乏だとか、頭が悪いとか植えつけられる。こんなのかわいそうだよ。僕だったら嫌になっちゃうもん」

教育格差のもっとも恐ろしいのは、子供たちのメンタルにまで入り込み、人生を壊すことなのである。

石井 光太

作家

(※写真はイメージです/PIXTA)