【東京・内神田発】この「千人回峰」の企画では、対談相手の公私にわたる過去・現在・未来について根掘り葉掘り聞くことにしている。その会話の先に、その人となりが鮮やかに浮かび上がるからだ。ただ、誰しも話したくない過去の一つや二つはある。けれども野呂さんは、あまり人前で口にしたくないであろうプライベートな深い話を語った。「私、けっこう正直なんですよ」と野呂さんは笑う。おそらくそれは、自身のことを語るために避けては通れない事柄だったのであろう。
(創刊編集長・奥田喜久男)

画像付きの記事はこちら




●父親の死をきっかけに

自分の意志で生きようと決意する



奥田 野呂さんは、ワークスアプリケーションズでようやく本格的なプログラミングの世界に足を踏み入れ、現在手がけられているビジネスに近づいていったのですね。

野呂 その後、2013年にはプロスタンダードという研修会社に取締役として入るのですが、方向性の違いからここは半年で辞め、その後はどこの会社にも所属せずに1年間、ビジネスモデルを考え続けました。

 実は就職してから起業するまでの12年間、ずっとストップウォッチを使った時間管理を続けており、このとき考えたビジネスモデルの多くも、時間管理に関するものでした。

奥田 なぜ野呂さんは、そんなに時間を測ることにこだわったのですか。

野呂 あまり人に話さないほうがよいとよく言われるのですが、私が中学2年生のとき、父は精神を病んで自殺未遂をし、私が22歳のとき、大学を卒業する少し前に亡くなりました。その自殺未遂を機に、厳格で強かった父親像が崩れ、少年期には嫌悪感や不安感を抱いたものでした。

奥田 つらい少年時代を過ごされたのですね。

野呂 でも、その父が亡くなってみると悲しみが押し寄せるとともに、自分自身は生きるか死ぬかの選択すらしてこなかったことに気づきました。どうせなら自分の意志で思い切り生きようと考え、限りある人生の時間を無駄にしないようにと、時間管理を始めたのです。

奥田 それで自分の時給を計算したり、生産性にこだわったりしたわけですね。

野呂 そうですね。でも、時間管理に関するビジネスモデルを300個考えたものの、それを実際のビジネスに使うことはしませんでした。起業家は未来に目を向けるべきであり、過去のデータばかりを追っていても新しいものを生み出すことはできないと感じたからです。

奥田 なるほど、ここでまた、ひと皮むけたのですね。


●IT教育だけでなく

IT人材を生かす方策を考える



奥田 現在、野呂さんが携わっているビジネスについて教えてください。

野呂 一つは、日本の社会人受講生を対象としたプログラミングスクールの運営です。この事業は創業時から8年間続けています。Rubyという開発言語で、Webアプリをつくる講座が人気ですね。

 もう一つはアフリカに関連する事業ですが、ODA予算を使ったJICA(国際協力機構)や経済産業省で公募したプロジェクトを受託して、現地での人材育成や人材発掘をするというものです。こちらは、ここ5年ほど続けており、徐々に伸びてきている状況です。

奥田 アフリカにはよく足を運ばれるとのことでしたが、具体的にはどんなビジネス展開をされているのですか。

野呂 たとえばルワンダでは、クラウドファンディングで500万円集めて現地に学校をつくり、その受講生を自社で採用したり、現地企業に就職できるプログラムを提供したりしました。ビジネスとしてはまだまだですが、当社の社内業務をアウトソースできる存在となっています。

 セネガルではJICAのプロジェクトで採択されて、アフリカ西部でのオフショア開発ができるかどうかの実証実験や調査をしました。なぜこの調査をしたかというと、実はルワンダで経験したのですが、IT教育を受けた人材が増えても就職できる道がないという雇用の問題に直面したからです。そこで私は、このアフリカが抱える大きな課題に対して、オフショア開発が有力な解決策になるという仮説を立てました。

奥田 いくら優秀な人材を養成しても、出口がなければ活用できないし、お金も回らないと。

野呂 そういうことです。それから、ベナンでもIT教育の場を提供して、それを就職につなげる試みを行っています。いま説明した三つの事業がアフリカでの私たちの代表的な活動ですが、その他の数カ国でも、同様の試みをしています。

奥田 アフリカでの一連の事業は、すべてODA予算によるものなのですか。

野呂 私が行ったルワンダクラウドファンディング以外は、ODA予算によるものですね。

奥田 ODA予算を使ってIT教育をしている会社はほかにあるのですか。

野呂 就職支援を目的にしたものはありません。

日本では私たちだけです。

奥田 ODA予算による事業は、その性質から、規模を拡大することは難しいですね。

野呂 そこは大きな課題ですね。ただ、さきほど少し説明しましたが、アフリカのIT人材が日本や現地で就職できる道を開くか、アウトソーシングの道をつくるかといった問題を乗り越えることができれば、ビジネスとして本格的に育っていくのではないかと考えています。

奥田 ところで、いまさらの質問ですが、なぜ事業の舞台としてアフリカを選んだのですか。社会的インパクトがあるから?

野呂 日本だけを見るのではなく、世界全体を見て、一番困難な状況で、かつ受け取れる価値を最大化させるという大きなことをやりたい、根本的に重要なことをやりたいという思いがあったからですね。

奥田 困難な状況で、価値を最大化ですか。

野呂 もともとは、人が一番困難なことを成し遂げたときに人は感動するものであり、その状況を見たい、そういうストーリーをつくりたいと思っていました。

 資本主義の下でGDPが低く、奴隷制度などによって歴史的にも虐げられてきた国やその国の人々にIT教育を持ち込んだら、その逆境を跳ね返すことができるのではないか、下剋上のようなストーリーが生まれるのではないか、ひいてはみんなが希望を持てるようになるのではないかと考えたことがアフリカを選んだ理由です。

奥田 野呂さんが、志高く突き進んでいることがよく感じられますね。私も似たようなところがあるのですが、やりたいことにはつい没頭してしまう。でも、経営者という立場では、やりたいこととやらなければならないことがありますよね。

野呂 もちろん、その部分については気をつけないといけないと思っています。でも、24時間ビジネスのことばかり考えるのではなく、理想も追う経営者でありたいですね。私は、お金だけではなく、意義を感じないと動かないタイプなんです。

奥田 私も長年事業をしてきたのに、よく「経営者の匂いがしない」と言われるのですが、野呂さんも同じようなタイプなのかもしれませんね(笑)。

まさに意義あるアフリカでの事業、これからも頑張って、続けていただきたいと思います。


●こぼれ話



 記者という職業柄、多くの人と面会し、さまざまな話を聞く。当たり前のことだが、人との出会いは一様ではなく、その中に“人となり”が潜んでいる。それは出会いの瞬間に伝わってくる。いわゆる第一印象というものである。剣道でいえば、切っ先を交えた瞬間だ。私は、「その一瞬が勝負」だと思って緊張する。この一瞬で見立てた“人となり”で、インタビューの質問内容というか骨組みが組み上がるからだ。『千人回峰』でお会いした方は野呂浩良さんで337人目になる。振り返れば、お会いした数にのぼる“人となり”をこれまで感じてきたわけだ。出会いはいつもそうだが、毎回、新鮮な一瞬を味わってきた。私は、この瞬間の感覚が好きなのかもしれない。

 野呂さんとは、「そうなんですか」で会話が進んだ。切っ先を交えた瞬間から、十年来の友人のようなオーラをお互いが醸し出しながら話しているような感じだった。こんな出会いもある。時折ある。話をしながら、お互いが自分との同質性を感じるのだ。野呂さんは隠すことなく家庭の今と、昔からの歩みを語り始めた。「そこまで立ち入った話を…」と、思わず話の腰を折ろうとした。それでも屈託なく、当たり前の出来事のように微笑みながら、回顧談を披露してくれた。話を聞きながら考え続けた。いま、この原稿を書きながらも考え続けている。

 自分と家庭、家族のあり様を、第三者の出来事のように突き放しながら、社会の中でかつ自分の中で、これは他人事だと心の中で腑に落とし、平静さを保つ――。もしかすると、そんなふうに心の中に納めたのかしら。この心境にたどり着くまでには何年かかったのだろうか。それを考えると“ぞっ”とする。こうした出来事を知るにつけても、なんだかフワフワと感じる野呂さんの存在感は相も変わらずだ。ありのままを受け止めて生きるって、とっても難しいはずなのに、肩に力が入らないままで生きておられる。というか、お気楽な様子なのだ。とても難しい生き方の一つなのに…。

 人は生きながら自分をつくり込んでいく。まずは、生まれた境遇あるいは育った環境。これは人のあり方を強く決定づける要素だ。なかでも幼児期については、家庭と社会を自由に選ぶことができない。まさに決定的な出来事だ。こう綴りながらわが身をふと思った。13歳までは笑いといたずらをしたことしか思い浮かばない。そして母親の死。半年ほどの闘病期を経て目の前から消えた。そんな意識しかない。寂しさが込み上げてくるのは20歳を超えてからだった。育った神社の杜はいつも通りなのに、母親(かあちゃん)は消えた。その存在感のなさをこの歳になっても、腹落ちしていない自分がいる。「いなくなる」とはどういうことなのか。『千人回峰』のテーマである「人とは何ぞや」はこんな土壌からが芽生えてきた。

 野呂さんと話し込むほどに、同質なものを感じた。こうして、対談のシーンを反芻しながらも深く感じる。彼は30歳年下だ。心のあり方には年齢差がないことを確信している。ひょっとすると、10代にも同じ仲間がいるかもしれない。“年の功”があるとすれば、それはわが身を理解し、そのあり方を語ることができる年功ということだろう。そろそろ『千人回峰』も次の世代にバトンタッチするお年ごろだ。その時期が近づいてきたからなのか、自分の心の風景を綴ってしまった。ツーショットでは野呂さんに無理を言って譲っていただいた同じシャツを着ている。アフリカ大陸の54だか55カ国だかのイラスト入りである。「人とは何ぞや」のお題がようやく楽しいものになってきた。(直)

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第337回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
2023.6.22/東京都千代田区のBCN会議室にて