NHK連続テレビ小説らんまん』が終わり、「らんまんロス」に陥っている方も多いのではないだろうか。そこで今回は、登場人物のなかでも人気が高かった、要潤が演じた田邊彰久教授のモデルと思われる矢田部良吉を取り上げ、『らんまん』の世界を振り返ってみたい。

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文=鷹橋 忍 

父は、伊豆韮山代官・江川英龍に仕えた蘭学者

 矢田部良吉は、幕末の嘉永4年9月19日1851年10月13日)、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市)で生まれた。

 父親は、蘭学者の矢田部郷雲である。

 郷雲は、武蔵国勅使河原村(埼玉県児玉郡上里町)の農家に生まれた。若くして長崎に行き、蘭学を修めたという(「矢田部良吉」昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 第4巻』所収)。

 蘭学に通じていたことに加え、その抜群の語学力が買われ、郷雲は伊豆韮山代官・江川英龍(通称・太郎左衛門、号は坦庵)に召し抱えられた(仲田正之『江川坦庵』)。江川英龍は、韮山の反射炉や品川砲台を築いたことでも知られる。

 郷雲は江川英龍から砲術を学び、のちに講武所の教授となったという(大場秀章編『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』)。

 矢田部の母親は、マスという。

 幕末の幕臣で、明治時代の官僚・大鳥圭介は、矢田部の母を「沼津藩士・原川氏の女」と記し(大鳥圭介「矢田部博士の少年時代」『英語青年』21(10)(317)所収)、前記の「矢田部良吉」では、「江川英龍の家臣・八田篤蔵の義妹」としている。

 母・マスは矢田部よりも長生きするが、父・郷雲は、安政4年(1857)に亡くなってしまう。

 

ジョン万次郎から英語を学ぶ

 前記の「矢田部博士の少年時代」によれば、矢田部は父・郷雲が死去する以前から、江戸に出て、芝新銭座にある江川氏の邸宅に寓居していた。

 だが、父の死により、母・マスの実家である沼津の原川氏の邸宅で暮らすこととなる。

 矢田部は沼津で漢籍を学び、元治元年(1864)2月、再び江戸に出た。

 江戸では、江川氏の邸内に居る八田篤蔵(大鳥圭介は、矢田部の「叔父」と記している)の元に、身を寄せている。

 このとき矢田部は、英語と数学を習った。矢田部を教えたのは、大鳥圭介、のちに日本最初の医学博士の一人となる三宅秀、そして、ドラマでは宇崎竜童が演じた中濱万次郎(ジョン万次郎)らであった。

 大島は矢田部を大成する逸材と見抜き、横浜語学所への遊学を勧めた。

 それを受け、矢田部は同年11月に横浜に移り、横浜語学所へ通うこととなる。ここでも学んだのは、英語と数学だった。矢田部13歳のときのことである。

 大島曰く、矢田部は数学に最も長じて居たという。

高橋是清と親しかった

 矢田部が横浜語学所にいたのは、慶応3年(1867)の初め頃までだという。

 横浜語学所を出てからの約2年間の動向は、わかっていない(国立科学博物館編『国立科学博物館研究報告 E類 理工学』第39巻 太田由佳・有賀暢迪「矢田部良吉年譜稿」)。

 矢田部は明治維新を経て、明治2年(1869)5月、開成学校の教授試補に任じられる。

 開成学校とは、官立の洋学校である。江戸幕府直轄の洋学校であった開成所を、明治政府が接収および、改称した。

 その後、開成学校は大学南校、南校、第一大学区第一番中学、開成学校、東京開成学校の改称を経て、東京大学の一部となる。

 矢田部は同年7月には小助教、翌明治3年(1870)には中助教に任じられた。

 小島憲之「開成學校敎授以來の矢田部博士」(『英語青年』21(10)(317)所収)によれば、この頃、矢田部は同校に出入りしていた、のちに日本銀行総裁・蔵相、首相などを歴任する高橋是清と親しかったという。

 高橋是清口述の『是清翁一代記』でも、兄弟同様の付き合いであったことが述べられている。

 この高橋是清との縁が、矢田部を渡米へと導く。

 

森有礼に随行し、アメリカへ

 高橋是清はかつて、のちに初代文部大臣となる森有礼の書生をしていた。森有礼は、ドラマでは、橋本さとしが演じていた。

 その森有礼は、明治3年(1870)、少弁務使としてアメリカ赴任を命ぜられ、渡米することとなった。

『是清翁一代記』によれば、このとき是清は森有礼から、「おまえもできる限りアメリカに、連れていくようにしよう」と告げられた。

 ところが是清は、「私よりも矢田部君を連れていってください」と頼み、森有礼に矢田部を紹介した。矢田部はかねてから、熱心に洋行を望んでいたという。

 その結果、矢田部は「文書大礼使」に任じられ、外務省の役人として森有礼に随行し、渡米したのだった。矢田部、19歳のときのことである。

外務省を辞任して、コーネル大学に留学

 念願の洋行が叶った矢田部であったが、明治5年(1872)9月、ニューヨーク州のコーネル大学の入学試験に合格し、外務省を辞任。

 公費留学生となり、日本人として初めてコーネル大学に入学。植物学を専攻した。

 ドラマの田邊彰久教授は、中田青渚が演じた妻の聡子に、シダ植物が好きであることを語っているが、在学中、矢田部はシダ植物も研究したとされる(大場秀章編『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』)。

 矢田部は明治9年(1876)6月、コーネル大学を卒業。理学士号(バチュラー・オブ・サイエンス)の学位を取得し、帰国の途についた。

 

東京大学理学部の教授に

 帰国後、矢田部は同年9月に東京開成学校の五等教授に就任、11月には東京博物館植物園兼務、12月には東京博物館長に任じられた。矢田部は25歳になっていた。

 翌明治10年(1877)4月、東京開成学校と東京医学校が合併、「東京大学」に改組されると、矢田部は、東京大学理学部の植物学の教授に任じられた。

 理学部における日本人教授は、矢田部を含めてわずか三名であり、他は外国人であった。

最初の結婚

 矢田部は明治11年(1878)2月末、金澤良斎の娘・録(録子)と結婚している。

 金澤良斎は岐阜県出身の陸軍医で、勝海舟の家庭医を務めた(佐井村編『佐井村誌』)。

 勝海舟の三男・梅太郎と国際結婚したアメリカ人女性・クララ・ホイットニーの日記(『勝海舟の嫁 クララの明治日記』)の明治11年1月31日には、録はとても小柄で、10年以上、英語を勉強していたことが記されている。

 なお、このクララの日記には、矢田部もたびたび登場する。クララは矢田部に「梳き上げて、上でまとめた髪型と、金髪が好きだ」と言われたと綴っている。

 

非職

 東京大学の教授となった矢田部は、全国各地へ赴いて植物を採集し、分類、標本化するなど、植物分類の研究に邁進した。

 大学の講義は、英語で行ったという。

 明治17年(1884)には、牧野冨太郎の植物学教室の出入りを許している。

 明治19年(1886)3月に帝国大学帝国大学令により、東京大学から改称)理科大学教授兼教頭となり、12月には訓盲唖院(東京盲啞学校の前身)の校長を兼任した。

 明治20年(1887)10月3日、妻の録が30歳の若さで死去している。

 明治21年(1888)3月には、東京高等女学校の校長も兼任となった。

 同年5月には理学博士号が授与され、鳩山和夫夫妻の媒酌で、柳田順(シユン)と再婚した。柳田順は、ドラマの田邊教授の妻・聡子のモデルと思われる。

 順調にキャリアを重ねていった矢田部だが、明治24年(1891)3月、理科大学教授を非職(身分・地位はそのままで、職務を解かれること)となり、明治27年に免官となった。

 だが、矢田部はここで終ったのではない。

 明治28年(1892)からは高等師範学校の教授となり、明治31年(1898)4月には高等師範学校附属音楽学校の教授を兼任し、6月には高等師範学校長に任じられている。

 ところが、明治32年(1899)8月、夏期休暇中に、ドラマでも触れられたように、鎌倉で溺死した。

妻が語る矢田部良吉

 最後に、矢田部の妻・順が語る矢田部良吉をご紹介したい。

 先出の「矢田部良吉」によれば、順は矢田部のことを、「自分が思ったことをどしどし行ない、物事を徹底的にした人」と述べている。

 ドラマの田邊教授は、家で洋酒を傾ける姿がよく描かれていたが、順が言うには、矢田部は家で酒は一滴も口にしなかった。

 煙草は好きで、葉巻の大箱がいくつもあったが、高師の付属中学校で英語を教えるようになると、生徒が煙草を喫んではいけないと言うので禁煙し、その後、煙草を嗜むことはなかったそうだ。

 また、音楽学校の音楽取調係となって声楽の練習をしていたが、調子はあまりよくないが、声量は大きく豊かだったという。

 順の語る矢田部良吉は、ドラマの田邊彰久教授に、どこか重なる。

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