人類はこれまで数多くの武器を発明しましたが、中で最もクールかつ絶大な人気を誇る武器といえば「剣」でしょう。

剣は何千年もの間、人類の主要な武器として狩りや戦闘に用いられました。

しかし一方で、剣は銃に比べて射程は短く、持っているだけで強力な兵器ではありません。

使いこなすために相当の技量を要し、その道を極めるためには長く厳しい戦いの世界を生き抜く必要があります。

それでも世界史を振り返ってみれば、各時代ごとに名剣士たちは存在しました。

そこで今回は、歴史に名を残している「伝説の剣豪7人」をご紹介します。

目次

  • 歴史に名を残す「伝説の剣豪7人」
  • その5:日本が誇る剣聖「塚原卜伝

歴史に名を残す「伝説の剣豪7人」

その1:若き天才剣士「源義経」

「侍(サムライ)」の言葉が世界に浸透しているように、日本には剣の達人がたくさん存在しました。

中でも有名な剣士の一人は、源義経です。

義経は1159年に、平安末期の武将・源義朝絶世の美女といわれた母・常盤御前(ときわごぜん)の間に生まれました。

父・義朝は1160年の平治の乱で敵対する平氏によって殺されています。

義経もこのときに殺されるはずでしたが、敵将の平清盛が美しき常盤御前に一目惚れ

彼女を愛人にする代わりに、幼い義経(当時の幼名は牛若丸)は命を救われました。

しかし義経が7歳のとき、将来武士になって平氏に反旗を翻さないよう、京都の鞍馬寺に出家させられます。

義経は寺で学問に打ち込み、孫子の兵法などを貪るように読んだという。

中尊寺(岩手県)所蔵の義経像
Credit: ja.wikipedia

ところが15歳のときに自らの出自を知り、平家を倒すために、夜ごと寺を抜け出して剣術の訓練を始めました。

16歳になった義経は鞍馬寺から姿を消し、流浪の旅に出て、挑んでくる剣士と戦うことで自らの剣術を完成させます。

義経の剣は相当な腕に達したとされ、『義経記』では18歳にして、怪力無双の武蔵坊弁慶を打ち倒し、家来にしたと記されています。

また戦術の極意が書かれている中国の兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を読破する、天才的な戦術家でもありました。

義経はその後、再会した腹違いの兄・頼朝とともに平氏の多くを一掃していきますが、その戦術の才が発揮された一戦が「一ノ谷の戦い」です。

義経の率いる騎馬隊は、一ノ谷の裏手にある断崖絶壁の崖から一散に駆け降りて平氏の裏をかき、見事勝利を収めました。

この戦法は「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」として知られます。

弁慶との一戦「五条大橋の決闘」(作・歌川広重)
Credit: commons.wikimedia

しかし鎌倉幕府が開かれたのち、義経は兄であり将軍の頼朝の裏切りに遭い、およそ3万の軍勢を向けられることに。

打つ手を無くした彼は、持仏堂の中で妻と娘を刺した後、自らも切腹して息を引き取りました。

享年30歳だったと言われています。

その2:イタリアが生んだ名剣士「フィオレ・ディ・リベリ」

リベリの肖像とされる
Credit: ja.wikipedia

フィオレ・ディ・リベリは、中世ヨーロッパが生んだ最高の剣士の一人であり、フェンシングの名手として記憶されています。

リベリは1350年頃にイタリアのプレマリアッコという小さな町で生まれました。

地元の領主の息子で、比較的贅沢な暮らしをしていたらしく、幼い頃からフェンシングの練習に打ち込んでいたようです。

その後、地元を離れて各地を巡り歩き、当時のイタリアドイツの名剣士たちに師事して、剣の腕を磨いたという。

決闘においては一切の刀傷を受けることなく、常に勝利を収めたと言われています。

リベリの剣術は貴族の間にも知れ渡り、イタリア貴族のニッコロ3世・デステ1383〜1441)のマエストロ(宮廷剣術指南)に任命されました。

そして彼は晩年にFlower of Battle』(Fior di Battaglia, Flos Duellatorumという剣術に関する本を著し、これは現存する最も古いフェンシング・マニュアルの1つとなっています。

リベリの没年はよく分かっていませんが、定説では1409年以降とされています。

『Flower of Battle』の一ページに描かれた剣術の説明
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その3:スコットランドの野獣「ドナルド・マクベイン」

剣の達人には、技の研究に身を捧げ、敬虔な生活を送った者が多いですが、ドナルド・マクベインは”野獣”のごとく純粋に戦いを愛しました。

マクベインは1664年にスコットランドインヴァネスの生まれで、史上最も多くのデュエル(決闘)をした一人として知られます。

若い頃から剣の道に入ったマクベイン1687年に故郷を飛び出し、イギリス軍に入隊。

スペイン継承戦争など幾つもの戦いに参加しましたが、上官と口論するなど、軍の規律に馴染めずに除隊します。

それから独りで戦いの中に身を置き、”野獣の剣”を磨き始めました。

マクベインは短気な性格だったらしく、その気質を反映した荒々しくパワフルなスタイルで敵を屈服させたという。

マクベインの肖像
Credit: en.wikipedia

彼の最も有名な技は「ボアズ・スラスト(The Boar’s Thrust=猪の一撃)」と呼ばれ、片膝をついた状態で猪が牙を突き刺すように剣を突き上げるものでした。

マクベインはその後、アイルランドに渡ってフェンシングの学校を開きますが、驚くことに、その学校は売春宿としても機能していたといいます。

彼は1732年に亡くなりますが、生涯で100戦以上のデュエルに勝利したと伝えられています。

その4:混血の紳士「ジョゼフ・ブローニュ」

ジョゼフ・ブローニュ
Credit: ja.wikipedia

本名ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュという長い名前を持つ彼は、先のマクベインとは対照的なジェントルマンでした。

ブローニュは1745年にカリブ海に浮かぶグアドループ島で、農園主の白人の父とアフリカ人奴隷の母との間に「混血児」として生まれました。

彼は8歳のときにフランスへ送られ、紳士的な教育を受けて、早くからバイオリン奏者や作曲家として優れた才能を発揮します。

しかし彼が最も情熱を注ぎ、非凡な才を示したのはフェンシングでした。

フェンシングの名手に師事し、10代ですでに相当な剣の腕前を誇りました。

彼の浅黒い肌をバカにする相手は剣によって完膚なきまでに叩きのめしたといいます。

フェンシングの試合をするブローニュ(左)を描いた絵画
Credit: ja.wikipedia

その後、ブローニュはヨーロッパの王族が主催する多くの試合に出場し、たちまちヨーロッパで最も有名な剣士の一人になりました。

一方で彼は軍人としての一面もあり、フランス革命の際は、共和国のために1000人の黒人からなる部隊「サン・ジョルジュ軍団(St. George Legion)」を結成し、戦いに参加しています。

しかし、王室とのつながりが原因で軍を追われ、投獄。

出獄後は剣の道から退き、もっぱら作曲家として活躍し、「黒いモーツァルトと呼ばれるようになりました。

彼は1799年に54歳で亡くなっています。

その5:日本が誇る剣聖「塚原卜伝」

日本が誇る最強の剣士の一人といえば、塚原卜伝(ぼくでん)です。

卜伝は1489年に茨城県鹿島市に生まれ、幼い頃から実父のもとで鹿島古流を、義父のもとでは天真正伝香取神道流を学びました。

17歳になった卜伝は家を出て、他の浪人や剣士と対決し、自分の剣術を磨くようになります。

卜伝は数十回の真剣勝負と合戦への参加を経て、少なくとも200人以上を斬ったという。

そして「幾度もの真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により、後の世に”剣聖”と謳われるようになりました。

剣豪として知られる室町幕府13代将軍足利義輝あしかがよしてる)」も卜伝に師事して剣を学んだと伝えられています。

塚原卜伝像(茨城県鹿嶋市)
Credit: ja.wikipedia

ところが卜伝は歳を重ねるにつれ、己の力を誇示したいとの気持ちがなくなり、平和主義に傾いていきました。

彼の有名な逸話に次のようなものが残っています。

ある日、老いた卜伝は琵琶湖の船中で、年若い剣士と乗り合いになった。

相手が卜伝だと気づいた剣士は決闘を挑んでくるが、卜伝は取り合わない。

しかし、血気にはやる剣士は「逃げるな、臆病者!」とばかりに卜伝を挑発し、罵倒する。

卜伝は周囲に迷惑がかかることを気にし、決闘を承諾して、剣士と2人、小舟に移り乗る。

近くの川辺に着き、剣士が船から飛び降りた途端、卜伝はそのまま小舟を漕ぎ出し、岸を離れていった。

喚き散らす剣士を横目に卜伝は、「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と笑いながら去っていったという。

卜伝は1571年に、83歳で亡くなっています。

若い剣士を置き去りにする卜伝
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その6:貴族のおてんば女剣士「ジュリー・ドービニー」

偉大な剣士はすべて男性というわけではありません。歴史の中には女性の剣の達人もいました。

その一人が、17世紀のフランスで名を馳せたジュリー・ドービニーです。

ジュリーは1673年、ルイ14世に仕える宮廷貴族の娘として生を受けました。

非常にやんちゃでエネルギッシュな性格だったらしく、幼い頃からフェンシングに熱中して、訓練を受けていたといいます。

ジュリーは10代半ばで結婚しますが、夫には何の愛情も抱いておらず、すぐに逃亡。

家を飛び出して、フェンシングの名手と関係を持つようになりました。

ジュリーは彼から剣術を教わるかたわら、居酒屋で男性と決闘したり、剣術のお披露目会を開いて生計を立てます。

ジュリー・ドービニーの肖像
Credit: en.wikipedia

また彼女は優れた美声の持ち主でもあり、まったく訓練を受けていないにもかかわらず、歌の才能を発揮して、オペラ歌手としても活躍しました。

決闘の合間を縫っては「マドモアゼル・ド・モーパン」という芸名でステージに立っていたという。

ジュリーは世間に対して反抗的であることを常に楽しんでいました。

最も有名な事件は1695年に起こったものです。

仮面舞踏会に出席したジュリーは、客人たちの顰蹙(ひんしゅく)を買おうと、大胆にも皆の前で若い女性に突然口づけをしました。

(彼女はバイセクシュアルだったという説もある)

その娘には3人の求婚者がおり、激怒した彼らは女性の名誉を守ろうとジュリーに決闘を申し込みました。

そして、ジュリーは完膚なきまでに3人の男たちを打ち負かしたという。

しかし、ジュリーは早いうちにエネルギーを使い果たしてしまったのか、その後フェンシングオペラもやめてしまい、1707年に33歳の若さで亡くなるまで、修道院で過ごしたといいます。

その7:60戦無敗の剣豪「宮本武蔵」

やはり、歴史に名を残す伝説の剣豪として、この人を抜くわけにはいきません。

宮本武蔵は1584年に播磨国(現在の兵庫県)で生まれた、日本史上最も有名な剣士です。

父については諸説ありますが、少年期から剣の達人・新免無二(しんめんむに)を父として(養父の説も)剣術を習いました。

13歳にして初めて名のある剣士と勝負をし、勝利を収めたと言われています。

しかし、新免無二とはことあるごとに衝突する関係だったらしく、やがて実家を飛び出し、武者修行をしながら名を上げていきました。

宮本武蔵肖像(島田美術館蔵・熊本県)
Credit: ja.wikipedia

合戦にもたびたび参加し、関ヶ原の戦い(1600)や大坂夏の陣(1625)にも居合わせたようですが、手柄は分かっていません。

しかし、13歳から29歳までに60余の決闘を行い、すべてに勝利したという伝説が残っています。

最後の試合とされる剣豪・佐々木小次郎との「巌流島の決闘」(1612)は誰もが耳にしたことがあるでしょう。

巖流島(山口県下関市・関門海峡にある島)の決闘
Credit: ja.wikipedia

その後は一線から退き、ひたすら剣の道や兵法の追求に邁進し、晩年に自らの剣術の奥義をまとめた『五輪書』を執筆し、これを弟子に譲って、1645年にこの世を去りました。

ただ、武蔵に関する逸話はどこまでが本当でどこからが創作かよく分からず、吉川英治の小説『宮本武蔵』で描かれたイメージが、現在に伝わる武蔵の剣豪像の多くを形作っていると言われています。

昭和の初めにも、武蔵は本当に強いのかという論争がありました。このとき武蔵擁護に回った小説家、菊池寛は「彼の絵を見てみろ、口だけの男があれほどの絵を描けるものか」と語ったそうです。

彼は晩年「二天」という画号を称して、五輪書の執筆とともに数々の絵を残しました。

中でも有名な作品に「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」があります。この絵はよく見ると枯れ木の中ほどにイモムシが描かれているのがわかります。

「枯木鳴鵙図」作者名, 宮本武蔵(和泉市久保惣記念美術館蔵)
Credit:和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム

目の前しか見えず必死に上を目指して這い登るイモムシと、すべてを見通して高みに止まるモズ。静かな秋の風景ですが、一瞬先に起こる虫の運命を考えると、そこには均衡が破られる前の張り詰めた空気を感じます。

ここには武蔵の生きた人生の思想が描かれていると言われます。

水墨画は時間を掛けず、ほんの数分でさっと線を引いて描かれる絵です。

武を極めんとした武蔵の気迫はここからも伝わるでしょう。

そういう意味でも武蔵は「伝説の剣豪」の名にふさわしい人物なのです。

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参考文献

7 of The Most Skilled Sword Fighters in History https://www.ancient-origins.net/history-famous-people/sword-fighters-0017794
史上最強の剣士はだれ?世界の歴史に名を残す「伝説の剣豪7人」