小説家が主人公である小説。そう聞くと、いつもとは違う期待や好奇心が芽生えるのは私だけだろうか。自身の職業を書くのだから、かなりリアルなはずだ。あくまで創作とはわかっていても、ついつい主人公と著者を重ね合わせてしまう。妙な出来事や、読者や編集者とのやりとりなどが書かれていると、実体験が元になっているのではないかと、好き勝手な想像もしてしまう。そんな下世話な読者心理に、冷たい水をぶちかけられるように刺激的な小説だった。

 まず冒頭では、壁の薄いアパートで一人暮らしをする20歳の大学生「わたし」が登場する。あまり感じのよろしくない女子なのだが、彼女は主人公ではない。「うるさいこの音の全部」の主人公(本名・長井朝陽 ペンネーム・早見有日)が執筆中の小説の登場人物なのだ。

 朝陽は、在学中にアルバイトをしていたゲームセンターに就職した。学生時代からずっと小説を書いており、ついに新人賞を受賞した。バレる可能性もあると考え、社内規定に従って会社に報告をしたところ「ふーん、よかったね」程度の反響だった。ところが、刊行された単行本がテレビで取り上げられたとたんに、周囲が騒がしくなる。薄い反応だった上司は嬉しそうに買った本を見せ歩き、スタッフに知れ渡る。本社からは作家として広報の仕事に協力するように言われ、出身地の市長からは公表してないはずの東京の自宅に祝いの電報が届く。

 彼らにとってすごいのは、新人賞を受賞したことでも小説が出版されたことでもない。テレビで紹介されたことなのだ。そのことに、朝陽は怒りすら覚える。作品が好きでも作家には興味がないと言う友人の書店員は「小説を書いたのは朝陽じゃなくて早見夕日」と言うのだが、息苦しさを感じずにはいられない。

 そこまで読んで、まず感じたのは罪悪感だ。身近な人がデビューしたら、私は多分はしゃぐだろう。テレビで紹介されたら、家族や友人に話しまくるだろう。私は作家にも興味がある。会ったこともない作家のことを、作品の印象から勝手に想像もする。ちなみに、脳内で映像化される朝陽の顔は、宣伝物に掲載されている高瀬隼子氏の写真のイメージだ。作家と作品を、どうしても重ね合わせてしまう。

 そんな単純さを、主人公と著者に見透かされているような気まずさを感じたが、話はここで終わらない。朝陽が執筆中の小説は、現実の影響を受けて変わっていく。「わたし」と朝陽と早見夕日の境目は曖昧になり、朝陽自身も、読者も混乱していく。

 この困惑は、小説家という特殊な職業特有のものであるのかもしれない。だが、他者に見せる顔が、職場でも家庭でも友人や恋人の前でも、全く同じという人はいないはずだ。どれも自分の一面なのに、違う顔の自分を見られ、勝手な想像をされれば不快な気分になる。それの何がどう嫌なのかを、説明することは難しく、もどかしい。「モヤモヤする」としか言いようがないのだ。

 著者は、「モヤモヤ」の正体を少しずつ分解するよう描き出して行く。どうしてこんなに上手いのだろうか。上手すぎて、怖くなってくる。怖いけど、読まずにいられない。

(高頭佐和子)