1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦……19世紀末~20世紀初頭に立て続けに起こったこの3つの戦争ですが、学生時代の授業ではなんとなく駆け足で、概要しかつかめていないという人も多いのではないでしょうか。今回は『大人の教養 面白いほどわかる世界史』(KADOKAWA)の著者である河合塾講師の平尾雅規氏が、中国の動きに焦点をあてて解説します。

日清戦争で敗北した中国…国内外で情勢は“大荒れ”に

日清戦争は清朝の内外に影響を与えました。

国外:清朝の弱体が露呈し、列強の中国分割が加速

国内:洋務運動の失敗が露呈し、政治改革を模索する動きが生まれる

今までの列強は中国を、本気になれば超大国として地力を発揮する「眠れる獅子」と考えていました。でも日清戦争で日本にすら負けたことで完全にナメられ、列強は好き勝手に縄張りを囲い込んでしまいました(図表1)。19世紀末は帝国主義の時代だから内陸部まで押さえたわけです

※ 鉄道敷設権や鉱山採掘権を獲得

一方、中国国内では日清戦争の敗因が議論になり、数十年前までは江戸時代だった日本が明治維新で政治の近代化も進めて、国民国家に変質しつつある点が注目されました日本軍の兵士は高い士気を維持)。

対する清朝は洋務運動で見た通り、伝統を重んじ専制を温存。議会も憲法もなく、国民意識も乏しく、ましてや頂点に立っているのは漢人からすれば異民族である満州人……。

こうしてヨーロッパ風の国民国家の必要性を説く知識人や若手官僚が存在感を増し、その代表格となったのが公羊学者の康有為です(公羊学は復古主義の立場をとらずに新しいモノへの改革を肯定する、儒学の中でも特殊な派でした→図表2)。

時の光緒帝は康有為の考えに感銘をうけ、日本を範とした立憲君主政の確立を決意(戊戌の変法)。

※ 「理系」の科学技術のみならず「文系」の政治学にも着手

しかし、2000年間続いてきた伝統をおいそれとひっくり返すのは至難の業です。光緒帝の伯母で、伝統と既得権を重んじる、西太后をボスとする保守派が改革を徹底弾圧し、光緒帝は現役の皇帝なのに幽閉される羽目に……(戊戌の政変)。

西太后は4歳で即位した光緒帝の摂政として実権を掌握していたのですが、光緒帝が17歳でひとり立ち。改革を志した20代半ばに、伯母の逆鱗に触れてしまったわけです。

※ 光緒帝は西太后のことを「父上」と呼んだという

“扶清滅洋”をスローガンに大暴れした「義和団」

19世紀半ば以降、列強による中国での自由な商業・布教活動が認められていくと、色々な摩擦が生じました。ヨーロッパの工業製品が中国の国産品を駆逐して、国内産業は打撃をうけました

※ 鉄道敷設によって、輸送業者も失業

民衆の怒りは、布教に訪れていたキリスト教宣教師に向けられ(仇教運動)、この流れで勢力を伸ばしたのが義和団です。肉体を鍛える格闘技団体と、呪術的な宗教が融合した結社で、彼らが蜂起してまずはドイツと衝突しました。

これがけっこう強かった。反乱は北京にまで広がり、外交官を殺害したり公使館を包囲したり大暴れ。彼らは「扶清滅洋」というスローガンを掲げていました。

※ 清を扶(たす)けて、洋を滅ぼす

これを聞いた西太后は「この機に乗じて義和団と力を合わせ、外国を中国から追い出しましょう」と考えて宣戦布告! 反乱から始まったこの騒ぎは「清VS諸外国」という戦争になってしまいました。

※ 「義和団戦争」とも呼ぶ

列強はこれに激怒し、8カ国連合軍が清軍と義和団をねじ伏せて、北京を占領。北京議定書では外国軍が北京に駐屯することとなり、清の半植民地化が決定的になりました。

※ 日本とロシアが大兵力を派遣

朝鮮は独立するも…「大韓帝国」の名にほど遠い実態

舞台を朝鮮に移しましょう。清が日清戦争朝鮮に対する宗主権を放棄すると、今度は日露が韓国をめぐって火花バチバチです。1897年、朝鮮は独立国となったことをアピールして国名を「大韓帝国」と改めますが、日露両国に翻弄される状況は独立とはほど遠いものでした。

※ 略して韓国

日露戦争勃発…日本辛勝の陰にあったイギリスの全面支援

中国分割で旅順・大連を租借して東清鉄道を着工、義和団事件後も軍隊が満州に駐留、朝鮮への影響力を拡大……。これが当時のロシアによる怒濤の南下です。日露の対立は避けられないものとなり、1904年2月に日露戦争が開戦しました。

日本の兵力はロシアにはとうてい及ばず、ロシア太平洋艦隊とヨーロッパのバルチック艦隊が合流すれば、日本艦隊を軽々と凌駕する規模です。

短期決戦しかない日本は翌年1月にロシア太平洋艦隊の拠点であった旅順を攻略し、3月には奉天会戦に勝利、5月の日本海海戦※1ではヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊を撃破しました。戦績を見れば日本優位ですが、同盟国イギリスの全面支援※2があってのもの。

※1 東郷平八郎総司令官

※2 新型戦艦や良質な石炭の提供

一方、戦争中の物資不足を背景とする血の日曜日事件から始まった第1次ロシア革命がロシアにとって頭痛の種となり、ロシアが戦争を手仕舞いする一因になりました。まさに綱渡りですね。

講和であるポーツマス条約遼東半島の利権、南満州鉄道南樺太を日本に割譲したロシアは、南下をストップさせました。ロシアの影響力を排除した日本は、第2次日韓協約で韓国を保護国(すでに日露戦争中に第1次日韓協約を結び、ロシアになびきがちな韓国政府に日本人顧問を設置)し、外交を統括する統監には伊藤博文が就きました。

※ 保護国とは、外交権を失った状態

2年後には、第3次日韓協約で韓国の内政権も剝奪。そして韓国を併合するか議論が分かれている中、慎重派だった伊藤博文安重根によって暗殺されると、日本政府は一気に併合に傾き、1910年に韓国併合が完成しました。

アメリカは日露戦争後、対日感情が急速に悪化

ところで、アメリカは中国分割には出遅れたため、国務長官ジョン=ヘイ門戸開放宣言を発して中国市場の開放を求めました。日露戦争期には、ロシアの満州・朝鮮進出を警戒します。

これらの地域がロシア植民地になってしまえば、アメリカ企業の進出など夢のまた夢です。こんな事情があって、セオドア=ローズヴェル大統領日露戦争では日本に好意的な立場をとり、講和を仲介しました。感謝した日本が、ロシア撤退後の中国市場をアメリカに開放してくれるのでは? という期待もあったようです。

しかし日露戦争後の日本はロシアと話をつけて、今まで以上に互いの縄張りを囲いこんでしまったんです。期待を裏切られたアメリカは極東で孤立し、中国市場への参入を果たせず、対日感情を急速に悪化させました。

太平洋戦争で頂点に達する日米対立をさかのぼると、源はこのギクシャク関係に行きつくともいえます。

孫文を中心に、革命派も台頭…「中華民国」が成立

「光緒新政」により科挙が廃止に

話を中国に戻すと、1905年についに西太后は政治改革を容認しました(光緒新政)。背景は①義和団事件での惨敗、②日露戦争における「国民国家」日本の勝利。

※ ただし、光緒帝本人は幽閉されている

科挙の廃止は、儒学的な価値観を基準に官僚を選抜するシステムを放棄したということであり、特筆すべきことですね。これにあわせて教育制度も刷新され、海外留学も奨励されました。憲法大綱の発布、国会開設の公約、内閣の組織といった改革はおおむね変法の焼き直しでした。

改革のさなかの1908年、光緒帝と西太后が1日ちがいで死去。3歳だった溥儀(宣統帝)が即位し、結果的に彼が最後の皇帝[ラストエンペラー]となります。しかし、この改革も権力者が自ら身を切る「上からの改革」であり、内容としては不十分でした。

※ 例えば、内閣のメンバーは皇族が中心

“打倒清朝!”…孫文が「中国同盟会」を成立

「清の改革は小手先でお茶を濁し、清朝の延命を図っているだけだ。革命によって新しい共和政国家を創るしかない!」。19世紀末、清朝そのものの打倒を目指す革命派も台頭してきました。

その中心が孫文で、華僑となった兄が暮らしていたハワイで興中会を結成。1905年には日露戦争の影響で、バラバラだった諸派をまとめて中国同盟会を成立させます。

※ 華僑からの資金援助を期待

帝国主義時代の列強がさかんに行った資本輸出の代表格が鉄道経営でした。中国の人たちが鉄道を利用して「生活が便利になった~♪」と喜んでも外資にお金を吸い取られてるわけです。そこで中国の資本家がお金を出し合って鉄道の利権を外国資本から買い取る運動が盛り上がりました(利権回収運動)。

しかし、ここに清朝政府が冷や水を浴びせます。中国資本になった鉄道を取り上げて、外国からの借金の担保にあてようとしたんです(近代化の資金源が増税だけではまかなえず、外国からの借款に頼った事情があります)。

苦心して買い戻した鉄道を奪われた資本家は怒り(四川暴動)、政府は湖北新軍に鎮圧を命じました。しかし新軍の中には「隠れ革命派」がうじゃうじゃいました。ミイラ取りがミイラになって新軍が武昌で蜂起し、革命が勃発します。

※ 民族資本家の子弟や、外国留学経験者など

孫文が袁世凱と結んだ「密約」、驚きの内容

革命の報を聞いた孫文は亡命先から帰国し、南京を都として中華民国の成立を宣言しました。ここで清が出した切り札が袁世凱

※ 満州人ではなく漢人

戊戌の政変の際、変法派の動きを保守派に密告したことで西太后の信頼を得て、李鴻章の死後は国内最強の北洋軍を受け継ぎましたが、西太后が死ぬと後ろ盾を失って失脚(光緒帝の弟が溥儀の後見人として実権を握ったのですが、彼がかつて兄を失脚に追い込んだ袁世凱を恨んだため)。

しかし革命の火が中国全体に広がると、政府も袁世凱に頼るしかなくなり、現場に復帰させて中華民国を叩くよう命じます。

ところが袁世凱は冷めた目で情勢を分析し、もはや清朝は死に体にあると判断。一方の孫文ですが、まだまだ中華民国は準備不足で清朝と戦う軍隊がない。

そこで両者が接近し、なんと「袁世凱が清を滅ぼし、見返りとして孫文は臨時大総統の地位を袁世凱に譲る」という密約を結びました。裏切った袁世凱に圧力をかけられた溥儀は6歳にして退位、清朝は滅亡しました。

袁世凱が独立体制を固める裏で「第一次世界大戦」勃発

袁世凱は光緒新政では改革の旗振り役だったこともあり、孫文には「ヤツは立憲制に順応してくれるのでは?」という期待もあったのですが、野心家の袁世凱は自らの本拠地北京に居座って革命派を完全無視。淡い期待を打ち砕かれた革命派は瞬殺されました(第二革命)。

袁世凱は正式に大総統に就任し、独裁体制を固めます。この時に第一次世界大戦が勃発し、ドイツの勢力範囲山東半島を占領した日本が、山東権益の譲渡や日本人の政治・財政顧問の採用など屈辱的な内容を含む二十一カ条要求を突きつけると、袁世凱は受諾

※ 当時の中国の力では、日本軍に対抗できなかった

この「弱腰」に対する批判を封じ込め、また混乱が続く国内をまとめ上げるために、袁はなんとか自らの求心力を高めようと考えます。

その答えがなんと帝政復活で、袁世凱自身が皇帝に即位! これはさすがに時代錯誤だと国内は大ブーイングです。列強も帝政に反発するなど予想外の逆風に驚いた袁世凱は帝政を取り消し(第三革命)、同年に病死してしまいました。

結局、この革命で中国は

1.異民族王朝であった清は滅亡し、(形式上は)共和政の国家が成立

2.しかし実際は、軍閥勢力による保守的な政治が続く

一言で言うなら、「表面的な政体は変わったが、政治の中身は相変わらず」です。第一次世界大戦後、「中身」を変えるため、孫文がまた立ち上がります。

平尾 雅規

河合塾

世界史科講師

(※写真はイメージです/PIXTA)