「わからないこと、わかっていないことは、安易に想像で語らず、わからないということが大切」と後藤は語る
「わからないこと、わかっていないことは、安易に想像で語らず、わからないということが大切」と後藤は語る

関東大震災から今年で100年。それはこの震災直後に起きた朝鮮人・中国人虐殺からの一世紀でもある。そしてこの度、反ヘイト、反差別をテーマにした書籍を刊行し続けて来た出版社ころからが10年越しで企画、編集してきた本が世に出た。

『それは丘の上から始まった 1923年 横浜の朝鮮人・中国人虐殺』。

著者は横浜市で公立中学校の社会科教師を約40年に渡って勤めあげた後藤周(ごとうあまね)。後藤は横浜で起きた当時の虐殺事件を長年に渡って調査し、これまで詳細が明らかにされていなかった同地域の真実にスポットを当てた。どのようなプロセスで発刊に至ったのか、その経緯から聞いた。

■「この丘から、『朝鮮人暴動』という強烈な流言が量産された」

「2014年の3月に刊行された加藤直樹さんの『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』を読んで(版元の)ころからさんに手紙を送ったんです。すばらしい本であるということと、私自身が調べたことで(朝鮮人虐殺の事実を否定する)工藤美代子氏への反論を書いた文章を参考までにお送りしたんです。それで最初の縁が出来たわけです」

後藤は2009年から私家版の「研究ノート」を制作していた。こつこつと地道に郷土資料や証言者に当たって執筆してきた労作は現在で153号に至る。読み込んだ加藤直樹が出版を企画し、自ら担当編集に就いたのである。同テーマのノンフィクションの書き手である加藤は横浜の虐殺を検証したものがほとんど存在していないことを憂いていた。そこに持ち込まれた「研究ノート」の貴重さに気がつくのに時間はかからず、10年越しの作業が始まった。

本のタイトルにもなっている虐殺が始まった丘は横浜の南部丘陵地、「平楽の丘」のことを指す。後藤は調査の末、この地にたどり着いた。

「この丘から、『朝鮮人暴動』という強烈な流言が量産されたと言えるのです。ここは『朝鮮人が襲ってくる』というデマだけではなく、『武器を取れ!』『暴徒を殺せ!』という殺害扇動にまで増幅していった場所なのです。この丘陵でなぜそんなことが起きたのかを検証することは、非常に重要だと考えました」

司法省(当時)は、朝鮮人流言は横浜が発生源と報告している。その横浜の殺害扇動が平楽の丘で生まれた経緯はどのようなものであったのか。後藤は横浜刑務所や警察の調書から小学校の震災作文に至るまで、膨大な資料と証言から解き明かしていく。

■一切の憶測を排し、事実のみを積み重ねていく

全章を通じて感じるのは、そのストイックな筆致である。一切の憶測を排し、事実のみを積み重ねていく。不明なことはそのまま謙虚に提示して、決して自身の思想や思惑に寄せていかない。この構成展開をライムスター宇多丸氏は「とにかく丹念に慎重に史料を収集・分析し、『物語』ではなく事実に迫ろうとしてゆく著者の姿勢は歴史に向き合う者のスタンスとして圧倒的に正しい」と評している。

ケレン味もアジテーションもない、教員らしい書き手の誠実さに心が打たれる。特に第3章の「大川常吉署長――『美談』から事実へ」が白眉だ。虐殺から逃れて鶴見警察署に駆け込んだ約400人の朝鮮人労働者を大川署長が保護したという事実を後藤は掘り起こしていた。ところが、このエピソードを「新しい歴史教科書をつくる会」に利用されてしまう。

「驚きました。この話だけを切り離して美しい日本人の美談、虐殺の免罪符に利用されている。これは教科書においてジェノサイドの罪を矮小化することにほかなりません」

後藤のエンジンが再びかかり、調査はディテールに分け入っていく。

後に朝鮮人労働者が大川に感謝状を送った事実について、

「それはもちろん謝意もあるが、弾圧下にありながら、虐殺の事実を書き残しておくため、日本社会との軋轢を少なくして自分たちを守るという意図があった」

という時代背景に対する分析を施している。

さらに大川について、朝鮮人の保護収容に異論を唱える町議らを粘り強く説得し、疲労困憊した朝鮮人の"視察"を町長らに促すなどタフなネゴシエーターだったとしながらも、ただ英雄視するのではなく、管轄における虐殺実行犯の捜査、逮捕など、当たり前のことをしていなかったことも指摘する。そして本庄署、寄居署、藤岡署では、なだれ込まれた暴徒を前に日本の警察はなす術もなく朝鮮人を守ることが出来ずに殺されていることも付記している。

一方、後藤は被害者である朝鮮人の側からの調査報告書も尊重しつつ、うのみにせずに自ら一次資料にあたっている。在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班の調査報告にある「神奈川橋(青木橋)鉄橋で500人以上の朝鮮人が殺された」という記述については裏付ける史料が一切見当たらないことから、疑義を呈し、本書では扱っていない。

「この事件については、9月3日神奈川橋を通った人の証言集やオーラルヒストリーで探っても、いっさい出て来なかったのです。わからないこと、わかっていないことは、安易に想像で語らず、わからないということが大切です」

■あらゆる不当な権力から学問の自立を守る

それはフィールドワークをしながら常に生徒と向き合ってきた社会科教師としての矜持のように思われた。

定年退職後も研究ノートの発刊を継続し続けてきたのは、自身が教育現場で受けて来た歴史教育に対する政治からの圧力に抗うためにほかならず、根底にあるのは、あらゆる不当な権力から学問の自立を守りたいという信念である。後藤は横浜の教育状況を語り出した。

「政権による教育、学術への攻撃を記録した映画『教育と愛国』(斉加尚代監督、2022年)の中で描かれていたと思いますが、2012年当時に下野していた安倍元首相が、本音を漏らすんです。『教育に政治家がタッチしてはいけないはずがない。当たり前じゃないですか』と(大阪の教育再生タウンミーティングで)語るシーン。そこで横浜を政治介入の成功例として出すんですよ。安倍は、中田宏横浜市長(当時)が、本来政治家がやってはいけない教育委員の人事に手を突っ込んだことを賞賛したんですよ」

中田市長は当選後、教育委員をすべて自分の意図するメンバーに入れ替えた。

「大阪より先に横浜が政治による攻撃を受けたのですよ。それまで横浜市の中学校は日本書籍の教科書がほとんどだったんですが、市長の意を汲んだ教育委員の動きによって朝鮮人虐殺や慰安婦沖縄戦の記述が薄められた育鵬社の教科書に変えられていってしまいました。かつては18の区ごとに教科書を採択してきました。現場の教師が使いたい教科書を投票するシステムもあったのです。それが中田市政になって、教科書採択は全市一括になり、現場の声を聞くシステムも廃止されました。権威ある歴史学者が執筆した2012年版の副読本は回収させられて溶解。いわばこれは焚書です。そして2013年からは学者ではなく、教育委員会が副読本を書くようになったんです」

真理を探究した専門的な知見のある執筆者が執筆していた歴史の本がときの首長の意を含んだ役人によって都合よく改訂されてしまったと言えよう。

「横浜は100年前の虐殺事件の資料になるものがなかったんです。つまり元になるものがなかった。この本を書いた意味は横浜の研究者の底本になって欲しいという思いからでもあります」

後藤は教師らしく後進へのバトンを口にした。

●後藤周(ごとうあまね 
1948年生まれ。1972年から約40年に渡って横浜市の公立中学校の教員を務め、その傍らで横浜ハギハッキョの設立から中心スタッフとして活動。退職後も横浜での朝鮮人・中国人の虐殺事件を検証。その報告書でもある「研究ノート」は150号を超える。本書は初めての著書。

●木村元彦(きむら・ゆきひこ) 
ジャーナリスト。アジアや東欧の民族問題を中心に取材、執筆活動を行なう。


■『それは丘の上から始まった 1923年 横浜の朝鮮人・中国人虐殺』 
ころから 1980円(税込) 
1923年、関東大震災直後の横浜は朝鮮人暴動などの流言が発生し、虐殺が行なわれた発火点だった――。
市街のほとんどを焼失した市民は、「平楽の丘」と呼ばれる南部丘陵地へと逃れた。そこでは、震災当夜から「朝鮮人が暴動を起こしている」などといった流言が広がり、そして名も知らぬ朝鮮人や中国人を虐殺する事件の引きがねとなった。
30年以上に渡ってこの史実を検証してきた著者が、150号を超える私家版「研究ノート」や数多くのフィールドワークをもとにまとめた。
デマがどうして横浜で発生したのか、なぜ虐殺を防げなかったのか、膨大な資料とともに当時を生きた人たちの顔が見える筆致で描く。100年前の虐殺事件の「なぜ?」を知るためのマスターピースとなる一冊。

取材・文・撮影/木村元彦

「わからないこと、わかっていないことは、安易に想像で語らず、わからないということが大切」と後藤は語る