1870年代以降、特権を失ったことに不満を持つ士族(武士)や経済的に成長した豪農(地主)が民権運動に参加します。憲法制定のきっかけにもなった民権運動はどのように時代を変えたのでしょうか。有名予備校講師で『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者の山中裕典氏が、明治期に起こった自由民権運動について解説します。

自由民権運動(1870年代~1880年代)

自由民権運動は「反政府運動」のイメージが強いのですが、政府を批判はしても、政府打倒をめざすものではありません。そもそも、政府と民権派は、「日本を欧米にならった近代国家にする」という共通の目標を持っていました。民権派は、近代国家の根幹となる憲法制定と、国民の政治参加の権利を実現する公選制の議会開設を政府に要求するとともに、近代国家の国民としての自覚を人びとへ訴えました。

また、誰でも生まれながらにして人権が与えられているとする天賦人権思想が紹介され、政治参加意識が広がっていきました。

①明治六年の政変~どのような点で時代の転機となったのか?

1873年明治六年の政変征韓論政変)は自由民権運動につながるとともに、士族反乱・経済政策・日朝関係といった歴史的事象にもつながりました。

②士族反乱(1870年代)~士族の不満は、なぜ生じたのか?

江戸時代に支配階層であった武士の特権は失われ、不平士族のなかには政府へ抵抗する者もいました。明治六年の政変での辞職後、民撰議院設立建白書の提出に参加した江藤新平は、帰郷して佐賀の乱(1874)を起こしました。

1876年に廃刀令と秩禄処分が断行されると、身分的特権をすべて失った士族の不満が爆発し、熊本県敬神党(神風連)の乱福岡県秋月の乱山口県萩の乱(もと参議の前原一誠が中心)が立て続けに発生しました。

明治六年の政変での辞職後に帰郷していた西郷隆盛鹿児島で起こした西南戦争(1877)は、最大規模の士族反乱で、政府は徴兵軍で鎮圧しました。

士族反乱は、西南日本に集中していました。新政府樹立に貢献した薩摩・長州・肥前などでは、特権を失うことへの不満は一層大きかったのでしょう。

③士族民権

⑴士族が始めた民権運動は、どのような方法で実行されたのか?

士族は、一方で反乱に加担し、他方で初期の自由民権運動を主導しました。

明治六年の政変で辞職した征韓派のうち、西郷隆盛を除く板垣退助後藤象二郎江藤新平らは愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書(1874)を政府へ提出しました。少数の政府官僚のみによる政治を「有司専制」だと批判し、五箇条の誓文にあった公議世論の尊重を根拠に、国会の即時開設を要求しました。

そして、板垣退助は郷里の高知で片岡健吉らとともに立志社を結成し、以後、士族が中心となって政社を結成し、新聞・雑誌を発行して言論活動を行いました。そして、政社をまとめる全国組織として愛国社が設立されました。

⑵政府は士族民権に対し、どのように対応したのか?

政府の中心である大久保利通は、民権運動を主導した板垣退助と、台湾出兵に反対して辞職した木戸孝允の政府復帰を画策しました。こうして開かれた大阪会議(1875)で、板垣退助は提案が認められたことで政府へ復帰し、愛国社は解体しました。政府の懐柔策によって、民権運動は骨抜きになったのです。

そして、政府は漸次立憲政体樹立の詔を発して、漸進的な憲法制定と議会設立の方針を示し、立法機関の元老院、司法機関の大審院(のち最高裁判所)府知事・県令を召集する地方官会議を設置しました。公選制の議会は実現しませんでしたが、政府は民権派の主張を一部取り入れる妥協もしました。

一方で、政府は讒謗律で政府批判を禁止し、新聞紙条例で出版物を規制しました。言論活動を行う士族民権に対し、言論の取締りで弾圧したのです。

④豪農民権

⑴豪農(地主)が民権運動に参加するようになったのは、なぜか?

西南戦争中に政府へ提出された立志社建白の要求に、国会開設と並んで地租軽減が含まれたことは、地租負担が多い豪農(地主)の民権運動参加を促進しました。また、1870年代後半のインフレにより、豪農(地主)は現物の小作料収入が高く売れて富裕化し、民権運動に参加する余裕が生まれました。

こうして、各地で交流会・学習会・演説会などの集会活動が盛んになると、愛国社が再興されました。

⑵士族反乱・農民一揆の終息後、政府は地方制度をどう改変したのか?

政府は地方三新法を制定し、地方行政を再編しました。そのなかの府県会規則では公選制の地方議会(府議会・県会)の即時開設が定められ、豪農(地主)らが地方議員となって地方行政に関与しました。

政府は、地域の実情を反映する地方制度で民権運動に妥協したのですが、かえって民権派は「公選制の地方議会が開かれた。次は公選制の国会を開け!」と主張するようになりました。

⑶政府は豪農民権に対し、どのように対処したのか?

政社の全国組織である愛国社は国会期成同盟(1880)に発展し、国会開設を政府へ要求する署名活動を広げました。しかし、政府は署名の受け取りを拒否したうえ、集会条例で政治集会や結社を規制しました。各地で集会活動を行う豪農民権に対し、地方警察による弾圧を可能としたのです。

⑤明治十四年の政変

⑴民権運動の高揚に対し、当時の政府はどのような状況だったのか?

当時の政府は大久保利通の暗殺後に強力な指導者を欠いており、国会開設の時期をめぐる対立が生じました。大隈重信(肥前)は即時国会開設論で民権運動に同調したのに対し、伊藤博文らは漸進主義の方針の維持を主張しました。

こうしたなか、開拓使長官の黒田清隆から政商の五代友厚へ、開拓使の所有施設を安く払い下げる計画が露見しました(同じ薩摩出身者同士の癒着)。この開拓使官有物払下げ事件(1881)で、民権派は政府を激しく非難しました。

⑵明治十四年の政変の結果、民権運動はどのように展開したのか?

結局、政府は開拓使官有物の払下げを中止し、民権派に妥協しました。しかし、こうした世論と大隈重信が関係しているとみて、政府は大隈重信を罷免しました。民権派にとっては、同じ意見の大隈が政府を追われたのは痛手です。そして、肥前出身の官僚も追われたことで、薩長中心の藩閥政府となりました

この1881年明治十四年の政変は、民権運動のターニングポイントとなりました。最大の成果は、政府が国会開設の勅諭を発して1890年の国会開設を公約したことです。政府は、9年後というタイムリミットまでに憲法制定と国会開設を実施しなくてはなりません

そして、民権派は将来の選挙に備えて、フランス流の急進的自由主義を主張する自由党板垣退助が中心)や、イギリス流の立憲君主政治をめざす立憲改進党大隈重信が中心)を結成しました。

そして、民権派の主張を具体化した私擬憲法が作られました。植木枝盛東洋大日本国国憲按」は、国民の抵抗権・革命権を規定した急進的な内容です。東京多摩の農民有志グループが開いた学習会の成果をもとに千葉卓三郎がまとめた五日市憲法草案」は、民権運動の草の根の広がりを示しています。

⑥激化事件~民権運動は、どのように急進化していったのか?

1880年代前半、大蔵卿の松方正義(薩摩)によるデフレ政策で農村の不況が拡大するなか、没落した貧農や士族中心の自由党急進派が、直接行動で政府を攻撃しました激化事件)。

県令三島通庸の圧政に抵抗した自由党河野広中らが弾圧された福島事件茨城県で民権派が蜂起した加波山事件(直後に自由党は解党)、埼玉県で多数の農民が高利貸などを襲撃した秩父事件、と続きました(大隈重信は立憲改進党を脱党)。

また、大阪事件は朝鮮情勢と絡んでおり、大井憲太郎や景山英子らが朝鮮の保守的な政府を打倒して改革派の政権を樹立する計画を立て、渡航する前に検挙されました。

⑦大同団結~民権運動の集大成となった政治運動とは?

大同団結」とは、小さな意見の違いにこだわらず共通の目的でまとまることを指します。1880年代後半、国会開設が迫るなか、後藤象二郎を中心に旧自由党と立憲改進党が再び民権運動を盛り上げました。

当時井上馨外相が進めていた条約改正交渉は、極端な欧化政策もあって批判が多く、井上が辞任すると、民権派は「地租軽減」「言論・集会の自由」「外交失策の挽回(対等条約の締結)」という三大要求を掲げて三大事件建白運動(1887)を展開しました。

民権派が全国から東京に集まって政府機関へ陳情する運動だったので、政府は保安条例を発し、民権派を東京から追放して弾圧しました

山中 裕典

河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

講師

(※写真はイメージです/PIXTA)