都心ど真ん中にある美のオアシス、SOMPO美術館にて、『ゴッホと静物画―伝統から革新へ』が2024年1月21日(日)まで開催されている。

同館はゴッホの《ひまわり》を所蔵しており、本当にありがたいことに足を運べばいつも名画《ひまわり》が迎えてくれる……のだが、今回はとりわけ特別な機会となる。同じく花を描いた傑作《アイリス》と並べて、保護ガラスを取り払った状態で鑑賞することができるのだ。

SOMPO美術館エントランス

SOMPO美術館エントランス

本展では国内外から全69点の静物画が集められ、そのうち25点がゴッホ作品となる。17世紀から20世紀の静物画の流れの中でゴッホを見つめ、画家が引き継いだ伝統、後世に及ぼした影響などを実感できる機会となるだろう。

静物画の始まりは寓意に満ちている

会場風景

会場風景

さっそく展示の見どころを。本展は3〜5階にかけて、フロアごとに分類された全3章で構成されている。冒頭では、ゴッホが絵筆を握りたての頃の《麦わら帽のある静物》や、静物画の出発点である17世紀オランダの作品を見ることができる。

ピーテル・クラース《ヴァニタス》1630年頃、クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

ピーテル・クラース《ヴァニタス》1630年頃、クレラー=ミュラー美術館オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

描かれているのは、髑髏、消えたロウソク、萎れた花、止まった時計……意味深なアイテムのオンパレードだ。

当時のオランダでは、ただテーブルに並べた小物を描くだけではなく、命の儚さ・富の虚さなどの寓意的な意味を込めた静物画が流行っており、それらを“ヴァニタス”と呼ぶのだそう。説教じみたメッセージを含ませた背景には、プロテスタントの禁欲的な教えや、17世紀ヨーロッパ全体を襲ったペストの影響があるだろう。何より「ゆめゆめ調子に乗るべからず」と警鐘を鳴らす必要があるほど、当時のオランダはイケイケの黄金時代だったのだ。

フィンセント・ファン・ゴッホ《コウモリ》1884年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホコウモリ》1884年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

第1章ではゴッホによる油彩画《コウモリ》も必見。静物画というより生物画であるが、コウモリをメインとしてドーンと配した西洋絵画は少ないのではないだろうか。当時ゴッホが絵を教えていたアマチュア画家が所有していた剥製を描いたものだというが、翼を広げたポーズはまるで磔刑図のようでドキッとする。

開店! 静物画スーパーマーケット
〜鮮魚・青果・たまごコーナー〜

会場風景

会場風景

本展の大きな見どころは、まるで“静物画スーパーマーケット”と呼びたくなるような、海の幸&大地の恵みを描いたとっておきの静物画たちである。写真右手が鮮魚コーナー。中央から左手にかけて、フルーツを中心とした食料品コーナーが続く。

アントワーヌ・ヴォロン《魚のある静物》1870年頃、ユトレヒト中央美術館 Centraal Museum, Utrecht, The Netherlands (purchased with support of the Rembrandt Society)

アントワーヌ・ヴォロン《魚のある静物》1870年頃、ユトレヒト中央美術館 Centraal Museum, Utrecht, The Netherlands (purchased with support of the Rembrandt Society)

皿からはみ出るお魚のずっしりした肉の重み、ぬめぬめピチピチした皮の質感をご覧あれ……! ファンタジーに近い、理想的な魚体である。アントワーヌ・ヴォロンはフランスの写実主義画家で、静物画を得意としていたという。ちなみに、ワシントンナショナル・ギャラリーにある《盛り上げられたバター》と同じ画家であり、美味しそうに描く才能に恵まれた人だったようだ。

ミキール・シモンズ《果物とロブスターのある静物》1670年頃、ユトレヒト中央美術館 Centraal Museum, Utrecht, The Netherlands (purchased with support of the Rembrandt Society)

ミキール・シモンズ《果物とロブスターのある静物》1670年頃、ユトレヒト中央美術館 Centraal Museum, Utrecht, The Netherlands (purchased with support of the Rembrandt Society)

豊穣の讃歌のような、各種ごちそう盛り合わせの一作も。けれどよくよく見ると、右手のザクロは痛み始めていたり、果物に虫が付いていたり、先述の“ヴァニタス"的演出が施されている。

フィンセント・ファン・ゴッホ《りんごとカボチャのある静物》1885年、クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

フィンセント・ファン・ゴッホりんごカボチャのある静物》1885年、クレラー=ミュラー美術館オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

ちなみに、ゴッホがヌエネン(オランダの親元)時代に描いた青果はこちら。ハイライトによって立体感を演出した力作だが、とにかく暗い。端の方のリンゴは影にまぎれて見えづらくなっているほどだ。

フィンセント・ファン・ゴッホ《鳥の巣》1885年、クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

フィンセント・ファン・ゴッホ鳥の巣》1885年、クレラー=ミュラー美術館オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

ゴッホはまた、自然好きの人に売れるのではないか、との期待を込めて鳥の巣モティーフとした作品も制作している。なかなか斬新な目の付けどころだな……とは思いつつ、やっぱり画面はダークな色調で覆われおり、自宅を飾るにしてはちょっと暗いような気もする。

お花売り場もあります

会場風景

会場風景

さらに奥へ進むと、今度は花の静物画を集めた“お花コーナー”に突入。静物画は西洋絵画の伝統の中で下位のものとして軽んじられてきたというが、それでも誰がなんと言おうと、人が家に飾りたいのはこういう「程よい大きさで、美しい」絵画ではないだろうか。画家たちもそれはよく解っていたようで、生活のための商品として、花の静物画を制作していたようだ。ここではゴッホが敬愛したドラクロワや、ルノワールによる花の絵画を堪能することができる。

アンリ・ファンタン=ラトゥール《花と果物、ワイン容れのある静物》1865年、国立西洋美術館

アンリファンタン=ラトゥール《花と果物、ワイン容れのある静物》1865年、国立西洋美術館

目を奪われるのは、静物画の名手として名高いアンリファンタン=ラトゥールの作品《花と果物、ワイン容れのある静物》だ。もう、この分野を極めようという気迫が違う。描かれている花や果物は傷ひとつなく、もちろん虫もいない。理想的な姿の静物である。同画家による《プリムラ、洋ナシ、ザクロのある静物》で見られる、現実以上にピンと立ったテーブルクロスの角にも注目だ。

フィンセント・ファン・ゴッホ《野牡丹とばらのある静物》1886〜87年、クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

フィンセント・ファン・ゴッホ《野牡丹とばらのある静物》1886〜87年、クレラー=ミュラー美術館オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

ゴッホも、邸宅を飾るのに良さそうな大型の花の絵を制作している。この《野牡丹とばらのある静物》は画家にしては薄塗りであることや、署名の位置が通常と異なることなどから、ゴッホ作品かどうか判断が揺れてきた作品だが、近年のクレラー=ミュラー美術館の調査で本人作と位置付けられた。花の絵の下には、元々ふたりのレスラーの絵が描かれていたことがX線調査で分かっているそう。華麗な本作の裏には、ゴッホの「売れろ〜!」という思いが滲んでいるようである。

色彩の特訓として

会場風景

会場風景

展示室を移動しよう。4階では「第2章 花の静物画」と題して、ゴッホに影響を与えた19世紀パリの画家たちによる花の静物画、そして、ひまわりが絵画に描かれてきた作例を辿っていく。

アドルフ=ジョゼフ・モンティセリ《花瓶の花》1875年頃、クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

アドルフジョゼフモンティセリ《花瓶の花》1875年頃、クレラー=ミュラー美術館オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

注目はモンティセリ。あまり知名度は高くないが、ゴッホが絶賛し、色彩やテクニック面で大きな影響を受けたというマルセイユの画家だ。絵の具を厚く塗り重ねる描き方は、予備知識なしでパッと見ても「ゴッホみたい」と感じる人が多いのではないだろうか。それが違うんです。ゴッホが、モンティセリみたいに描いたのです。

フィンセント・ファン・ゴッホ《カーネーションをいけた花瓶》1886年、アムステルダム市立美術館 Stedelijk Museum Amsterdam

フィンセント・ファン・ゴッホ《カーネーションをいけた花瓶》1886年、アムステルダム市立美術館 Stedelijk Museum Amsterdam

今回ゴッホによる花の静物画は9点ほど出展されているが、パリで過ごす時間が長くなればなるほど、その色彩は明るく華やかになっていく。音声ガイド(1台600円)では、「明るい色を使うことに慣れるため、ほとんど花の絵しか描かなかった」とか、「見る人に色彩の効果を伝えるためには、思い切って強調しなければならない」など、画家自身の言葉でその心境を語ってくれるのでとても分かりやすい。

当時のゴッホは人物画を描きたい想いが強く、静物画はそのための訓練、及び生活費稼ぎと割り切っていたようだ。けれど皮肉なことに、今日の私たちがゴッホの代表作として思い浮かべるのは間違いなく《ひまわり》(静物画)である。パリで競合画家に囲まれて花を描きまくった時間が、ゴッホの色彩を解き放ち、巨匠を巨匠たらしめたのである。

そして、ひまわりの画家へ

西洋美術の伝統の中で、ひまわりは神の愛や芸術家を表すものとして扱われてきた。第2章後半では、ひまわりモティーフにしたさまざまな作品が並ぶ。

フィンセント・ファン・ゴッホ《結実期のひまわり》1887年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ《結実期のひまわり》1887年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

本展で見られるこの《結実期のひまわり》は、恐らくゴッホひまわりを単独で描いた最初の作品だと考えられる。記念すべき1作目だというのに、描かれたひまわりは力強く咲き誇る姿ではなく、意外にも……枯れている?

キャプションに記された英題《Sunflowers Gone to seed》を見てハッとしたが、このひまわりは枯れているのではなく、花の時代を終えて、種になるところなのである。神の言葉を種蒔く人になりたい、と願い続けたゴッホにとって、たくさんの種を結ぶひまわりは自身のイメージを託す特別な花となったのではないだろうか。

さて、4階の奥でいよいよ《ひまわり》と対面! 通常時より、だいぶ距離が近い。絵筆を持った画家と同じくらいの立ち位置で作品と向かい合うことができる。ここまで多くの静物画を経て改めて見ると、モティーフも背景も同系色というのがかなり挑戦的な試みだと感じられるだろう。

なお本展図録に収録されている論文では、この作品が描かれたキャンバスの特殊な布地について細かく考察がされている。制作年を特定する手がかりになるのはもちろん、ゴッホとゴーギャンが同じ布地を切り分け、キャンバスを作っていた姿を想像すると切なくなるので、興味のある方はご一読を。

フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリス》1890年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホアイリス》1890年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

隣には、本展のために海を越えてきた《アイリス》が。花の鮮やかなブルーと、背景のコントラストが素晴らしい……と感じ入っていたら、音声ガイドで「元々はブルーではなく赤みのある紫で、経年とともに色が落ちてしまった」と聞いて衝撃を受けた。花が紫だったなら、黄色い背景と完全な補色関係になる。この作品がもたらすインパクトは、もしかしたら現在よりさらに強いものだったのかもしれない。

静物画という実験場

会場風景

会場風景

3階にある最後のフロアへ。第3章では、ポスト印象派以降の画家たちが登場。ヴラマンクやシャガールなど、ゴッホを消化した次世代の画家たちが、静物画という枠組みを使って自由に暴れている。モデルを雇わずに描けて、自分の都合のいいようにモティーフを組み合わせ・配置できる静物画というジャンルは、画家たちの新たな理論の実践の場としてピッタリだったのだ。

フィンセント・ファン・ゴッホ《皿とタマネギのある静物》1889年、クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

フィンセント・ファン・ゴッホ《皿とタマネギのある静物》1889年、クレラー=ミュラー美術館オッテルロー  (C) 2023 Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands

この第3章では、ゴッホの《靴》や《石膏トルソ(女)》といった力強い作品も見ることができるが、心に引っ掛かるのは《皿とタマネギのある静物》だ。本作はアルルでの事件後にリハビリ的に描かれたもので、パイプや弟からの手紙など、ゴッホの身の回りのものが描かれている。ロウソクが描かれているのでつい「火は……?」と心配になるが、ちゃんと灯っている。ただ、テーブルは右手前に向かってキャンバスを突き破るほどに歪んでおり、明るい色彩とは裏腹に、どこか不安な気持ちになる一枚だ。

ポール・セザンヌ《りんごとナプキン》1879〜80年、SOMPO美術館

ポール・セザンヌ《りんごナプキン》1879〜80年、SOMPO美術館

歪むテーブルといえば、セザンヌ。こちらは確信犯的に複数の視点を組み合わせ、脳を刺激してくる。テーブルの右側は歪んで持ち上がっているけれど、テーブルは平らなものである、と強い意志を持って眺めてみてほしい。右側を脳内補正して下げることで、中央部分のリンゴが盛り上がって認識されないだろうか。

ポール・ゴーギャン《花束》1897年、マルモッタン・モネ美術館 Musée Marmottan Monet, Paris

ポール・ゴーギャン《花束》1897年マルモッタン・モネ美術館 Musée Marmottan Monet, Paris

バラエティ豊かな作品が並ぶ第3章の中で最後に、ゴッホと同じ時代・同じ季節を生きたゴーギャンの《花束》に注目したい。写真では伝わりきらないかもしれないが、真っ赤な血飛沫のような花の表現には圧倒された。本作は画家が苦境にあり、自殺未遂にまで追い詰められていた時期に制作されたものだという。ゴッホが追求したような、色彩そのものに感情の振れ幅を託す表現主義的な試みをここにも感じることができるだろう。

「だけじゃない」からこそ面白い

2階ミュージアムショップ・カフェ

2階ミュージアムショップ・カフェ

知的な冒険のラストには、自然光の入るミュージアムショップ&カフェスペースでホッと寛いでみては。なお本展の図録の表紙は《アイリス》が飾っており、油彩画のように立体感ある加工が施されていてテンションが上がる。部屋に飾りたくなる美図録なのでご注目を!

内覧会で解説のためマイクを握った学芸員氏は、同時期に開催される“モネ100%”の展覧会を引き合いに出し、「この展覧会はゴッホ100%ではありません……が、それだからこその良さがあると思います」と力強く語った。ゴッホが何に影響を受け、どんな影響を与えていったのか。それを実例とともに追体験できるのが、この展覧会の最大の魅力である。静物画に焦点を絞ることで、誰もが知る巨匠をより立体的に捉え直すことができるだろう。

ゴッホと静物画―伝統から革新へ』はSOMPO美術館にて、2024年1月21日(日)まで開催中。


文・写真=小杉 美香

『ゴッホと静物画―伝統から革新へ』