エディプスの恋人
『エディプスの恋人(新潮文庫)』(筒井康隆/新潮社

 エディプス・コンプレックスとは、息子が母親に異性としての愛情を抱き、父親に嫉妬心を抱くというもので、実親と知らずに父を殺し母と結婚した、ギリシャ神話に登場するエディプスという青年から生まれた言葉。筒井康隆の小説『エディプスの恋人(新潮文庫)』(新潮社)も、母親の存在が大きなカギとなる。

 進学校の事務員として働く七瀬は、人の心を読むことができる超能力者で、誰もが目を奪われる美貌の持ち主。力を使って思慮深く立ち回りトラブルを回避することのできる、頭のいい女性でもある。そんな彼女があるとき、とある男子生徒の頭上で、野球の硬球が音もなく粉々に破裂するのを目撃する。その男子生徒――香川智広からの復讐を異常なまでに恐れる野球部の生徒に気づいたのをきっかけに、七瀬は、彼のまわりで昔から起きているらしいさまざまな異常現象について探り始める。

 ふつうに考えれば、智広も超能力者なのであるが、そうではないところが本作の肝である。彼は得体のしれない何か大きな“意志”に守られていて、七瀬もまた“意志”に導かれるようにして彼の背景を知り、恋に落ちてしまうのだ。この“意志”に、死んだはずの智広の母親が関わっているからこその『エディプスの恋人』なのであるが、学生時代に初めて本作を読んだときは、支配的なまでに強くて深い母親の愛に圧倒され、おののいた。だが大人になって再読した今、気になるのは智広の父・頼央のほうであった。

 有名な画家である頼央の絵は稚拙で、画壇で評価されるほどの実力は、本来ない。だが“意志”の力によって、彼の絵は観る人の心に得も言われぬ感動をもたらし、その地位を盤石なものにしていたのだ。そして自分には才能がないのだということを、頼央はよくよく承知してもいた。〈おさっしください。いくらせいいっぱい、わたしなりにいい絵を描いても、常に本来の価値ではなく後から附加された価値によって賞賛されるのです。(略)わたしの絵を褒める人たちに、わたしの描きたかったこと、わたしの努力が、どれほど理解してもらえたでしょう。〉という独白が、沁みる。

 だが、虚しさを覚えながらも、頼央は一度手にしたものを手放すことができなかった。抗いようのない“意志”を前に彼はひれ伏し、その恩恵にあずかりながらかろうじて命を繋いでいる。それは果たして、生きていると言えるのだろうか。自分の心以外に従うことを決めたとき、人はどんなに恵まれた環境にあっても、一つの死を迎えてしまうのではないかと、その半生に思いを馳せずにいられない。

 だからこそ七瀬は、最後まで抗い続ける。“意志”に流されそうになりながら、これは本当に自分の望んだことなのか、道理を捻じ曲げてまで欲しいものを手に入れるのが幸せなのかと葛藤し続ける。それこそが生きるということなのではないか。

 なお、七瀬の前日譚に『家族八景』と『七瀬ふたたび』がある。前2作では、超能力者であることを隠すため息をひそめるように過ごしていた彼女が、初めて生きる欲望をあらわにした本作は、三部作のしめくくりにふさわしいように思える。本作だけでも十分楽しめるはずだが、できれば全作あわせて彼女の“生”の軌跡をたどってみてほしい。

文=立花もも

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父を殺し母と結婚した「エディプス」を冠した超能力小説。筒井康隆「テレパスシリーズ」の七瀬が欲望をあらわにする第3弾