科学技術の発展により、「代理出産」が認められる国もあります。さまざまな理由で子供を持てなかったカップルにとっては新たな選択肢が広がる一方で、倫理的・法的な観点から賛否が分かれる問題として盛んに議論が繰り広げられています。本記事では、中央大学法学部教授の遠藤研一郎氏の著書『はじめまして、法学 第2版 身近なのに知らなすぎる「これって法的にどうなの?」』(株式会社ウェッジ)より、代理出産について解説します。

親子には「生物学的関係」より「法律上の関係」が優先される?

出産のときに自分の子を取り違えられたら、どうなるでしょう? 

「そして父になる※1」という映画があります。福山雅治演じる主人公・野々宮良多は、妻・みどり、6歳になる息子・慶多と3人暮らし。良多は大手建設会社に勤務し、高級マンションで優雅に暮らしています。

しかしある時、慶多を出産した病院から連絡があり、出生時の取り違えが発覚します。実の子は、小さな電気店を営む斎木家のもとで育っていました。それを知った2組の夫婦は苦悩します。大切なのは、今まで一緒に生きていた時間なのか、それとも「血」のつながりなのか。「父子」間で交わしたミッションの行方は? そして、ストーリーの結末は——。

これと根っこの部分がつながるものとして、報道などでも大きく取り上げられた、親子関係に関する最高裁判決(最高裁平成26年7月17日判決)※2があります。

ある女性が婚姻中に、ほかの男性(いわゆる不倫相手)との間に子どもをもうけたケースで、法律上の父(女性の夫)と子どもとの間で、法律上の親子関係があるのか否かが争われた事件です。その際に、摘出の推定が覆るのかが議論となりました。

最高裁は、次のようなことを挙げて、直ちに、民法772条1項による推定が及ばなくなるとはいえないと判示しました。

夫と子との間に生物学上の父子関係が認められないことが科学的証拠により明らかであり、かつ、夫と妻がすでに離婚して別居し、子が親権者である妻のもとで監護されているという事情があっても、子の身分関係の法的安定を保持する必要が当然になくなるものではない。

「生物学上の父子関係」と「法律上の父子関係」が異なる場合が出てきたとき、生物学的な関係よりも、法律上の関係(=子どもの福祉)を優先させる場合があることを示したものといえます。

※1:2013年公開、是枝裕和監督。第66回カンヌ国際映画祭長編コンペティション部門審査員賞受賞。子どもの取り違えに遭遇した2つの夫婦をとおして、愛や絆、家族といったテーマを描く。

※2:裁判所HPから、裁判所の裁判例情報を得ることができる。「最高裁判所判例集」を含む6つの判例集、速報に掲載されている重要な判決等が掲載対象となっており、すべての事件が公開されているわけではない。そのほか、最新の裁判例を紹介する商業誌(たとえば「判例時報」や「判例タイムズ」など)、有料の判例データベースもある。

代わりに母となって産むということ

少し倫理的な親子問題についても取り上げておきましょう。母と子のつながりは、妊娠・出産という事実によって分かるものなのでしょうか?

現在、日本の夫婦の10組に1組は不妊症といわれています。そんな時、夫婦は、不妊治療を選択するかもしれません。深田恭子松山ケンイチが主演したドラマ「隣の家族は青く見える※3」では、厳しい不妊治療の現実に、夫婦で誠実に向き合っていました。

ただし、不妊治療の成果が上がらなかったり、または、治療の効果が期待できなかったりする場合はどうでしょう。その場合、生殖技術が高度に発達した現在において、夫婦の選択肢の1つとして、代理出産があります。

※3:2018年放送のフジテレビ系ドラマ。妊活に臨む夫婦が、複数のカップルとコーポラティブハウスで生活するストーリー。子を産まない選択、同性愛、夫の再就職などそれぞれの夫婦が抱える悩みがサブテーマに。

代理出産とは、妻の代わりに別の女性(代理母)に子どもを妊娠してもらって、生まれた子どもを依頼者が引き取るというものです。その体外受精技術が実用化された後は、卵子と子宮が必ずしもパッケージとならず、依頼者夫婦の受精卵をほかの女性の子宮に移植し、分娩させるという方法(いわゆる子宮貸し)も、技術上は可能となっています。

日本国内では禁止されていますが、海外には認める国もあります。日本人の中でも、それを利用して外国で代理出産を依頼する例が少なくありません(図表参照)。果たして、代理出産は、認められるべきものなのでしょうか?

たとえば、日本において、何の法的規制もない(代理出産が認められている)状態だと仮定して、読者のみなさんは、次のような事例をどのように受け止めますか?

事例

A子(32歳)は、高収入な夫と5年前に結婚し、専業主婦として不自由なく暮らしていましたが、この夫婦は、A子に医学上のリスクがあるため、子どもをもつことができずにいました。それを不憫に思ったA子の妹B子(29歳、独身)は、ある時、自分の卵子を使って代理出産をしてはどうかとA子夫婦に提案しました。

A子夫婦は、B子の申し出をうれしく受け止めましたが、B子が妊娠・出産をする形での代理出産は、キャリアウーマンであるB子の会社での立場に影響が出るのではないかと心配しました。そこで、都内にある不妊症センター(いわゆる代理出産の仲介業者)に行って、報酬300万円で代理出産をしてくれる女性を、できるだけ早く探してもらいたいと依頼しました。

その頃、C美(23歳、独身)は、ギャンブルに負けて消費者金融から借りた180万円の返済に苦しんでいました。給料も安く、親を含む親戚とも絶縁状態にあり、借金を返済できるあてはありませんでした。そんな折、ふと、不妊症センターの「代理母(子宮貸し)募集」の広告に目がとまりました。C美は、「千載一遇のチャンス!」と思い、それに応募しました。

A子夫婦とB子とC美は、センターの仲介で、A子の夫とB子の受精卵をもとにした代理出産契約を締結しました。無事に妊娠・出産を経て、元気な赤ちゃんが生まれたら、その子を引き渡すこと、そして、C美は、その子に対する権利のすべてを放棄すること、その対価としてC美に300万円を支払うことが契約内容でした。

契約締結から約1年後、C美は無事に出産を終え、A子夫婦は子どもを受け取り、B子は姉の幸せそうな姿を喜びました。C美は借金を全額返済して、窮地を免れました。不妊症センターも、30万円の仲介手数料を手に入れました。めでたし、めでたし(?)。

表面上は見えづらい「根柢の問題」

さて、この事例、ストーリーも登場人物も単なる空想のものです。しかし大切なことは、このような形での出産が医学上では十分に可能であるということと、そして、実際に、このような条件(または、それに近い条件)でも出産を望むニーズが、私たちの社会の中に潜在的に相当程度あるのではないかということです。

そもそも、商業的な代理出産契約は、登場人物全体の効用(主観的な満足度・欲望充足度)を高めるように見えます。事例でも、A子夫妻、B子、C美、そして不妊症センターも含めて、代理出産によってみんなハッピーになったように感じます。

どうしても子どもを授かりたいと願う夫婦がいる以上、代理出産という制度は、社会に利益をもたらすようにも思えます。代理出産をする側も、誰かを助けたいという気持ちが満たされる場合もあるでしょうし、仮にそのような気持ちがなくても、お金を稼げる絶好の機会と喜ぶ人もいるかもしれません。

ですから、「最大多数の最大幸福※4」を考えた場合、安易にそれを禁止すべきではないという発想になるかもしれません。

また、代理出産擁護論の中には、私たちの選択決定の範囲を制限すべきではないとの考え方に基づくものもあります。自由な意思のもとで自己決定をしているのであれば、それが第三者に危害を加えないものである限り、最大限に尊重されるべきである(制限の対象になるべきではない※5)というのです。

※4:とくに、哲学者・法学者ジェレミ・ベンサム以降のイギリスの「功利主義」の理念を示す言葉として用いられている。幸福とは個人的快楽であり、社会は個人の総和であるから、最大多数の個人が持つことができる最大の快楽こそが、人間の目指すべき善であると考える。

※5:このような考え方を「危害原理」という。J.S.ミルが『自由論』の中で展開した。

代理出産に対する批判的視点

他方、代理出産契約を締結するという選択肢が私たちに与えられてよいのか、不安を覚える人もいるかもしれません。このような契約は、子どもを取引の対象とするものであって、倫理的にも有効なものとして扱われるべきでないと考える人もいるでしょう。

また、代理出産をする女性の利益は、損なわれないのでしょうか。たしかに事例のC美は、積極的に契約に合意していますが、合意に至る動機(事例では、貧困からの脱出)に、私たちは無関心のままでよいのでしょうか。

統計的に見れば、現在、代理母の多くは貧困層であり、依頼者の多くは富裕層です。それが数値的に逆転することはありません。それでも、自由な意思に基づく契約といえるでしょうか。

諸外国では、代理出産に寛容である国もあります。しかし、とくに、卵子と子宮が必ずしもパッケージでなくなって以降(すなわち、子宮貸しのように、依頼者夫婦の受精卵をほかの女性の子宮に移植する方法が、医学的に可能になった後)は、代理出産が、女性を、出産のための単なる道具とみなすものであると批判的に評価する傾向が、世界的に強くなっているように思います。

以前は代理出産に寛容であった国(たとえば、インドやタイなど)が、近年、厳しく規制するようになった例も少なくありません。

さらに、代理出産が横行した場合に、誰が父となり、母となるのでしょうか。事例においては、A子=気持ち上の母、B子=遺伝上の母、C美=子宮上の母ということになりそうです。このような場合に、A子と子どもの間に、法的な母子関係を認めてよいのでしょうか? 遺伝子上は子どもともっとも深くつながるB子は、子どもとまったく無関係なのでしょうか?

C美が、出産後に、「やはり私がこの子の母親よ!」と主張した場合、どうでしょうか? 有名な事件に、アメリカのニュージャージー州で起こった「ベビーM事件」があります。依頼者である夫の精子を用いて人工授精で出産した代理母が、出産後に子の引き渡しを拒否した事件で、州最高裁判所まで争われました※6

反対に、生まれてきた子どもが障がいを持っていたために、依頼者が受け取りを拒否した事件もあります。そんな複雑な関係を生み出す可能性のあることを、社会的に許してよいのでしょうか。

『こわれた絆——代理母は語る※7』では、代理出産に関係した人たちの苦悩が描かれています。悲劇は、商業的な代理出産だけではなく、善意で行われたはずの無償の代理出産においても起こりうることがわかります。

※6:地方裁判所は、代理母契約を有効とし、依頼夫婦に親権があると認めたが、州最高裁判所は、代理母契約を無効とした。そのうえで、生まれた子の父親は依頼した夫、母親は代理母となったが、夫に親権を認め、依頼夫婦は養育権を取得することとなった(結 局、代理母には訪問権のみが認められた)。

※7:世界各国の代理母たちの苦悩を取りあげ、商業代理出産や無償代理出産の闇を描く。ジェニファー・ラール/メリンダ・タンカード・リースト/レテーナ・クライン(編)柳原良江(訳)『こわれた絆——代理母は語る』生活書院

遠藤 研一郎

中央大学法学部

教授