文=鷹橋 忍 

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康政の家族は?

 早いもので今年もあと二ヶ月を切り、大河ドラマ『どうする家康』も終わりが近づいてきた。

 徳川四天王は大森南朋が演じた酒井忠次がこの世を去り、山田裕貴演じる本多忠勝、板垣李光人演じる井伊直政と、杉野遥亮演じる榊原康政の三人となった。

 本多忠勝井伊直政はすでにご紹介したので、今回は榊原康政をご紹介したい。

『寛政重修諸家譜』によれば、榊原康政は、天文17年(1548)に三河国上野(愛知県豊田市)で生まれた。本多忠勝と、同年の生まれだ。天文11年(1542)生まれの家康より、6歳年下である。

 幼名を「亀」という。

 榊原家はもともと伊勢国に住んでいたが、康政の祖父・榊原清長が三河国に移り、飯田基祐が演じた松平広忠(家康の父)に仕えたという。

 康政の父は榊原長政といい、家康に仕えたと記されている。

 康政の母親は、「道家氏が女」とある。

 だが、道家氏が何者なのかはわからず、「道家」の読み方すら不明だという(平野明夫「榊原康政の全生涯――多くの合戦で武功を立て家康・秀忠に信頼された硬骨の武将」『歴史読本』第52巻3号(通号811号)所収)。

 康政は次男で、兄は榊原清政という。『寛政重修諸家譜』には、他にも同じ母から生まれた女のきょうだいが、三人記されている。

 

家康との出会い

 康政の妻は、大須賀康高の娘である。康高は家康から「康」の字と、「松平」の名字を与えられた、徳川の有力家臣だ。康政とは、幾度も共に戦場を区切り抜けている。

 康高は家康の家臣となる前は、松平家の家老・酒井忠尚に仕えていたという(柴裕之「6 有力家臣に松平名字授与し、新たな一族を創出する」小川雄・柴裕之編著『図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟』所収)。

 康政も家康に仕える前は、この酒井忠尚の小姓であったといわれる。

『寛政重修諸家譜』によれば、康政が家康に初めてあったのは永禄3(1560)年、場所は大樹寺だという。康政13歳、家康19歳のときのことである。

 家康は永禄3年5月19日に起きた「桶狭間の戦い」の翌日に、松平家の菩提寺・大樹寺(愛知県岡崎市)に入っているので、康政と家康との最初の出会いは、このときのことだと推定されている。

 以後、康政は、家康の側近くに仕えるようになったという(諸説あり)。

徳川軍団の先手

 康政は永禄6年(1563)、三河一揆において、家康に背いた酒井忠尚の居城・上村城(愛知県豊田市)が攻撃されたが、その戦いに康政も参陣した。前述したとおり、酒井忠尚は、かつて康政が小姓として仕えていた人物である。

 この「上村城攻め」が、康政の初陣だとされる。康政、16歳のときのことである。

 康政はこのとき、実際に敵と槍を交えたようだ。『寛政重修諸家譜』に、「敵と槍をあはす」と記されている。

 こののち康政は、家康から「康」の字を与えられ、「康政」と名乗るようになったという。

 翌永禄7年(1564)の「吉田城攻め」では、本多忠勝や、音尾琢真演じる鳥居元忠らとともに、麾下の先手を承った。

 そして、これが吉例となり、康政はその後の戦いの多くにおいて、旗本の先鋒となったという。

 元亀元年(1570)の「姉川の戦い」でも先手を務め、元亀3年(1572)の「三方原の戦い」では「一手の長」となったと、『寛政重修諸家譜』に記されている。

 一手の長とは「一軍を率いた」、すなわち、康政が軍団長に昇格したということであろうと、推定されている(平野明夫「榊原康政の全生涯――多くの合戦で武功を立て家康・秀忠に信頼された硬骨の武将」)。

 天正3年(1575)の「長篠合戦」では敵中に突入し、縦横に奮激して、敵を敗走させたという。

 

十万石の大名に

 天正12年(1584)に起きた、浜野謙太が演じる織田信雄(信長の二男)と結び、ムロツヨシが演じた羽柴秀吉と対決した「小牧・長久手合戦」では、康政の有名な逸話が残っている。

 小牧での戦いにおいて、康政は敵軍の士気を打ち砕くため、秀吉陣営の諸将に檄文を送り、「秀吉は信長の君恩を忘れて、信雄と戦うなど、その悪逆は甚だしい。秀吉に従う者は、みな義を知らない者だ」と激しく批判した。

 これを知った秀吉は激怒し、「康政の首を獲った者には望みのままの恩賞を与える」と触れた。

 しかし、小牧・長久手の合戦が秀吉の勝利で終わり、康政が上洛すると、秀吉は康政をお忍びで訪ね、康政の忠義を称えたという。

 秀吉の天正18年(1590)の「小田原合戦」で、戦国大名としての北条氏が滅亡し、家康が関東に移封となると、康政は上野国館林(群馬県館林市)に十万石を賜わった。

 これは、井伊直政の上野国箕輪(群馬県高崎市)に十二万石に次ぎ、本多忠勝の上総大多喜(千葉県大多喜町)の十万石と同列の石高であった。

 康政は館林において、城下町の整備や、堤防や道路を造るなど、民衆の福祉に務め、善政をしいたという(中村孝也『家康の臣僚 武将編』)。

 文禄元年(1592)からは、家康の嫡男・森崎ウィン演じる徳川秀忠(のちの二代将軍)付となり、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでも、秀忠に従って東山道(中山道)軍に属した。

 慶長10年(1605)に秀忠が二代将軍となると、秀忠は康政の娘を養女としている。

 慶長11年(1606)4月、康政は館林で病に倒れた。悪質の腫瘍だったという(中村孝也『家康の臣僚 武将編』)。

 秀忠は毎日のように見舞いの使者を送り、上洛中の家康も急遽、使者を遣わしたが、康政は5月14日に死去した。享年59。

 幾多の戦場を駆け抜け、家康を支えた康政にとって、家康よりも早くこの世を去ったのは、無念であったのではないだろうか。

【榊原康政ゆかりの地】

●館林城跡

 榊原康政が館林に入封後、整備・拡張した館林城の跡。

 別名を。キツネが尾を曳いて縄張を教えたという伝説から、別名を「尾曳(おびき)城」という。

 現在、城郭はないが、本丸と三ノ丸の一部に土塁が残っている。

 

●善導寺

 群馬県館林市楠町にある浄土宗の寺院。

 もとは谷越町(現在の本町二丁目)にあったが、平成2年1990)に、現在の地に移転された。

 榊原家の菩提寺で、本堂の西にある「榊原康政の墓」は、群馬県指定史跡だ。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時の前半生と、源頼朝との関係

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館林城 写真=フォトライブラリー