※2023年6月撮影

トップ画像は、西調布駅北側駅前ロータリー。「新撰組局長 近藤勇生誕の地 上石原」の看板。

その前に南口から踏切を渡った時の西調布駅

※2023年6月撮影

北口。右が駅前ロータリー。橋上駅舎化される前は、こちら側に平屋の駅舎がありました。

※2023年6月撮影

もう少し北側から。

※2023年6月撮影

駅前ロータリーの北側から。橋上駅舎のデザインが美しいですね。

※2023年6月撮影

そのまま北に歩いて旧甲州街道西調布駅入口」交差点です。

※2023年6月撮影

甲州街道を西に50mほどで西光寺があります。

※2023年6月撮影

門前の石碑。正面は下の「地神」しか読めません。側面に「嘉永五年壬子(みずのえね)春 二月吉良〇〇」と刻まれています。嘉永五年は、1852年。アメリカのマシュー・ペリーが艦隊を率いて現れて幕府を慌てさせる前年です。

※2023年6月撮影

ここに「近藤勇座像」。

※2023年6月撮影

新撰組局長 近藤勇」と銘板があります。大きいです。

※2023年6月撮影

座像の横に「近藤勇座像建立委員会」による案内があります。内容は以下。

近藤勇は天保五年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持に当たる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月、下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波瀾万丈の人生を閉じた。〈中略〉
奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。

平成十三年十月八日    近藤勇座像建立委員会代表 土方貢」

※2023年6月撮影

武家社会の崩壊期とは言え、多摩の一介の百姓、その三男が武士となり「大名格(若年寄格)」にまで出世したというのは「身分制度が社会の骨格」だった時代に凄いことです。

個人的には新撰組の行動は賞賛しかねますが、近藤勇という人物もまた幕末の混乱期を駆け抜けた英雄の一人だったのです。

ところで「近藤勇座像建立委員会代表」の土方貢さんは、土方歳三さんのご親族なのでしょうか。司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』を読んで以来、土方歳三ファンなので・・・。

西調布駅散歩、続きます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016