(町田 明広:歴史学者)

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◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義①
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義②

混迷する容疑者の糾問

 文久3年(1863)5月20日に勃発した朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)の首謀者として、薩摩藩陪臣の田中親兵衛が捕縛されたが、京都町奉行所で自殺してしまった。5月27日、武家傅奏坊城俊克は京都守護職松平容保・小松藩主一柳頼紹・米沢藩主上杉斉憲・和歌山藩主徳川茂承に対し、仁礼源之丞および太郎の糾問の朝命を下した。

 表向き糾問は諸侯のすべきことでなく、町奉行の職掌であるとし、内実は薩摩藩との関係悪化を危惧した各藩がこの朝命を固辞した。また、京都西町奉行の滝川具知にも同様の朝命が下ったが、東町奉行の永井尚志の失態(田中の自殺)をはばかり、こちらも固辞してしまった。

 そのため、御親兵の中から長州藩士佐々木男也、土佐藩士土方久元らに糾問を命じる事態に発展した。しかし、それでも具体的な進展は見られなかった。そこで、18藩の有志は姉小路家菩提寺である清浄華院に参会し、田中親兵衛への嫌疑を審議して、その犯行と断定したのだ。よって、薩摩藩への厳罰を朝廷に奏請した。なお、久留米藩士の真木和泉のみ、薩摩藩は大国であり、正義の士も多く、君臣一堂に恥辱を与えることは一考を要すべしと反対したが、その意見は顧みられなかった。

絶体絶命の薩摩藩の反応

 文久3年5月29日、朝廷は薩摩藩の乾門守衛を免じ、藩士の九門出入を禁止した。薩摩藩にとって、表立った政治的活動の禁止を意味する最悪の展開であり、現状打開を何とか図る必要が生じた。

 薩摩藩士高崎正風は、仁礼源之丞はまったくの冤罪であり、田中親兵衛は屠腹したため、疑惑が深まり残念至極であるが、親兵衛は「全ク発狂之様ニ相見候、其已前より言語も不揃」(「尊攘録探索書」5月29日条)と、発狂したように見え、それ以前から言っていることもおかしかったと証言した。そして、身に覚えがあっての死とは思えないと、薩摩藩の関与を否定しつつ、親兵衛単独犯行には含みを残した注視すべき発言をしている。

 さらに、高崎はいかに弁解しても聞き入れられないので、真犯人を捕縛して冤罪を雪ぐ必要があるとし、心当たりがあれば知らせて欲しいと述べる。また、この事態を受け、在京薩摩藩士は一丸となって嘆願し、万一拘束された藩士らが有罪であっても、それはまったくの個人の心得違いであるとの願書を差し出した。

 しかし、これは許容されず、しかも乾門に設置した仮小屋も撤去されたと訴える。薩摩藩にとっては暗に朝敵扱いを受け、誠に屈辱的なことであると語っている。高崎の言説は、追い詰められた薩摩藩の実情を吐露したものであり、中央政局での権威失墜に対する在京藩士の著しい焦燥感と憤りを確認できよう。

事変後の政局における中川宮

 即時攘夷派の薩摩藩への激しい憎悪の対象は、親薩摩藩派の中心人物である中川宮(青蓮院宮、朝彦親王、賀陽宮)にも及んだ。薩摩藩士は九門出入りを禁止され、中川宮の守衛兵もことごとく退去していた。中川宮は、自身にも危害が及ぶことを警戒し、嫌疑を避けようとの意識から、あえて薩摩藩士を遠ざけ、長州藩士や真木和泉などの即時攘夷派のみ面会し、徹底的に保身に走る状態であった。

 文久3年6月5日中川宮は攘夷先鋒嘆願を提出した。即時攘夷派はその唐突さに驚き、真意を測りかねる事態となった。宮の側近は、未来攘夷派には武力を持って即時攘夷派を排除し、国事に尽力すると説明したが、実際には薩摩藩と一線を画し、即時攘夷派に迎合する必要からの有効なデモンストレーションとして実行されたものであったのだ。

 6月22日に至り、薩摩藩の仕業とは断定できなかったことから、中川宮の姦計との嫌疑が急速に勃興し、勅命を受けた水戸・熊本・長州・土佐各藩の御親兵が、中川宮の家士である山田勘解由・伊丹蔵人を抑留した。在京の薩摩藩士村山斎助・井上弥八郎書簡(6月25日、中山中左衛門・大久保利通宛)によると、三条実美が近衛忠房に対し、姉小路暗殺は薩摩藩の仕業とは断定できず、中川宮の姦計によるものと語っており、宮家の二士が拘束されたことはその嫌疑と説明した。

 また、『京都日戴』によると、山田らは中川宮の命を奉じ、楠木正成の墓参を口実にして、薩摩藩に下向するとの風聞があると伝える。そして、薩摩藩は姉小路暗殺の嫌疑があり、山田らに対しても朝廷や姉小路暗殺取調の御親兵の面々もいぶかしみ、捕縛に至ったと説明する。

 さらに、『七年史』によると、暴徒らは山田らの西下は中川宮の意を奉じたものであり、ひそかに鹿児島に下向し、島津久光と謀議するつもりであると臆測した。そして、三条実美に迫って許可を得たことから、捕縛が実行されたとする。

 このように、中川宮は自身に向けられる嫌疑を取り除く努力を惜しまなかった。にもかかわらず、宮を取り巻く環境は厳しさを増していたのだ。

小倉藩処分問題と中川宮の窮地

 文久3年6月16日、監察使正親町公董(父:中山忠能、兄弟:中山忠愛・中山忠光)が長州藩へ派遣された。その目的であるが、表向きは長州藩の攘夷褒賞であったが、実際には西国諸藩に攘夷実行を強いるためであった。7月19日、奇兵隊の圧力によって、長州藩要路も動き、藩内巡見中の正親町に対して、攘夷実行を行わない、外国と内通しているなど、5罪状を挙げて小倉藩の征討を懇請した。

 正親町は、小倉藩征討を朝廷に奏請する旨を約束し、朝廷に判断を委ねた。その結果、8月4日に至り、朝廷は国事寄人の錦小路頼徳を勅使として派遣し、小倉藩に藩主の隠居および3万5千石に削減を命じ、もし従わなければ、長州藩の意に任せ、成敗することを内定したのだ。

 8月9日、西国鎮撫大将軍の内命が中川宮に下った。これは事実上、小倉藩征伐のための総帥に他ならなかった。しかし、宮は自身の短才(才能の劣っていること)を事由に固辞した。翌10日に宮は参内し、孝明天皇に辞退を直奏したが、天皇は自身がいよいよ親征しなければならないとして当惑の様子を示した。そのため、宮は天皇の態度にすこぶる閉口し、いま少し熟考するとして退出せざるを得なかった。

 征夷大将軍徳川家茂)が存在しながら、西国鎮撫大将軍が任命されることは、将軍にとっては面目もなく、幕府勢力にとって、忌々しき事態に他ならなかった。しかし、それを阻止できる在京の幕府機関は存在せず、この後に成立する一会桑勢力の必然的発生に寄与したと言えよう。

 宮自身も、三条実美の意を受けた真木和泉から攘夷先鋒は願い出ながら、西国鎮撫大将軍は断っているが、西国鎮撫大将軍が攘夷先鋒であると命じられたら、お受けになるのかと迫られた。実は、幕府に攘夷実行を迫るために企図された八幡行幸・大和親征が実現する可能性が高まっており、それが攘夷親征に転化して、宮がその先鋒で西国に下ることが十分に有り得る状況であった。

 8月13日、とうとう大和親征の朝命が公布された。朔平門外の変以降、中川宮のこの絶体絶命な事態が、薩摩藩在京藩士に8月18日政変を画策させる最大誘因となったことは論をまたないであろう。

 次回は、朔平門外の変の真の首謀者は誰であったのか、様々な分析視角からその実相に切り込んでみたい。

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