日本海軍の戦艦「扶桑」が1915年の今日、竣工しました。連装主砲を6基12門備えた様は圧巻ですが、むしろそれが仇となってしまうこともあり、戦局が悪化した際には主砲を撤去のうえ空母化する話まで出たほどです。

アメリカやイギリスの超ド級戦艦に対抗

旧国名でもなければ山岳名でもない。旧日本海軍の戦艦「扶桑」が竣工して、2023年11月8日108年になります。「扶桑」は6基12門を備えた連装主砲が大きな特徴のひとつであり、名称も相まって旧日本海軍の期待を一身に背負いましたが、時代の変遷に左右された戦艦でもありました。

そもそも言葉としての「扶桑」とは、中国で「東方の果てに生えている伝説の巨木」を指しました。つまり艦名は漢語由来ですが、7世紀ごろより「日本」を指す言葉へも転じ、日本の異名、そして日本人は美称としても用いるようになりました。

戦艦「扶桑」は1912(明治45)年3月に起工。3年後に竣工します。全長200mあまり、排水量は世界で初めて3万トンを超えるなど、当時は世界最大を誇りました。目玉の主砲口径は36cm、最大速力は22.5ノット(約41.7km/h)。「扶桑」には、アメリカやイギリスの大型戦艦に対抗し得る能力が求められたのでした。

ただ、安定して発揮できる速力は21ノット(約38.9km/h)だったといわれるほか、旋回性能や保針性にも不良が見られました。また、分散して設置された主砲の爆風問題も無視できず、1930(昭和5)年と1934(昭和9)年には、それぞれ1年がかりの大改装が行われます。

改装に際し、主砲は仰角が引き上げられ、最大射程も延伸されました。貫通力を上げた新型砲弾を運用可能にし、給弾速度も向上。特に2回目は測距儀の更新や、水上機の搭載も行われました。

速力も引き上げられました。機関を換装のうえ艦尾を7mあまり延長することで、推進抵抗を改善。公試で24.7ノット(約45.7km/h)を記録しました。しかし防御力には課題を残しました。強化はされたものの、自艦の36cm砲弾の直撃にすら耐えられない装甲部分もあったといい、実戦ではアメリカ軍の魚雷にも手を焼いています。

一時は空母化改装の話も?

1941(昭和16)年12月、日本はハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争がはじまりました。「扶桑」など戦艦部隊も出撃しますが、空母部隊による航空攻撃が成功し、「扶桑」に直接の交戦はありませんでした。

翌1942(昭和17)年6月、ミッドウェー海戦で大敗北を喫した日本は空母戦力の増強が急務だとし、「扶桑」を空母化する計画を打ち立てます。結果的に中止となるものの、一時は工期短縮案として、「伊勢」や「日向」のような航空戦艦化も検討されました。

戦局は徐々に日本不利に傾いていき、また海戦の在り方は空からの攻撃を主体としたものに移行していました。もはや「扶桑」に出番はなく、基地などで停泊する時間が長くなっていきます。それでも1943(昭和18)年には、対空機銃を増備しています。

運命となったのは、1944(昭和19)年10月に戦われたレイテ沖海戦でした。フィリピンを攻略しようとレイテ島に上陸してきたアメリカ軍に対し、空母部隊を“囮”に戦艦部隊がレイテ湾に殴り込みをかけるという作戦でした。

24日、レイテ島の南東に位置するスリガオ海峡において、「扶桑」などの艦隊はアメリカ軍の待ち伏せ攻撃にあいます。「扶桑」には艦載機が投下した爆弾が命中、機関室や水上機が破壊され炎上してしまいます。

なんとか航行する「扶桑」でしたが、翌25日未明、今度はアメリカ軍駆逐艦が放った1本の魚雷が命中。これが致命傷となり、「扶桑」は早朝に沈没しました。竣工時は世界最大の戦艦も、本領を発揮するころには旧式艦となっていたことも否めません。なお唯一の同型艦だった「山城」も、同じ海戦で沈没しています。

戦艦「扶桑」(画像:アメリカ海軍)。