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ミスターシリウス・スペシャルインタヴュー


プログレ誌「ストレンジデイズ」2006年12月号(No.87)掲載
※今は休刊となったプログレ誌「ストレンジデイズ」2006年12月号(No.87)の中でスペシャルインタヴューとして掲載されたものを一部加筆して掲載をさせて頂きます。

聞き手/鬼形智さん(ストレンジデイズ)

――前身バンドのシリウスからミスターシリウスへと変化したいきさつを教えてください。

シリウスのラストライブ後は音楽浪人でした(笑)しかしマルチレコーディングの気運が高まり、家庭用でも手頃なものが入手できるようになった時代でしたので、独りでもなにかできる!と一念再起をしたのです。この時に、私自身を「ミスターシリウス」と呼ぶコンセプトが生まれました。

私にとって憬れの楽器フルートを驚異的な努力で数年でマスターしたことが実に大きかった。ギターだけでなくフルートの世界を手に入れたことで、格段に音楽の世界が広がりました。メロディラインの神様が次々と飛来しては、忘れ難い旋律を私の体内に残していってくれたのです。

当時、神様と仰いだカリスマバンドの多くがポップな転身を遂げていた頃ですので、彼らに教えてもらったことを自分が再現し、進化させ、後世に残すんだとう「文化の伝道師」的モチベーションもあり、テープコンテストジャックを企てたのです。その中で永井博子さんという才能あるヴォーカリストと出会ったことが決定的な飛躍を生みました。そのメモリアルなデビュー作「峡谷倶楽部」はFOSTEXコンテストでグランプリを獲得。ミスターシリウスの輝ける旗揚げでした。

――当時、宮武さんが提唱されていた“プログレは良質なパロディ・アートである”という説には、どのような意図があったのでしょうか?

神が崇高に神で在り続けるのが『クラシック』、人が貪欲に人に徹しきるのが『ジャズ』だと仮定するならば、神が地上に舞い降りて人に化身し、喜び憂い悲しみを表現するのが『プログレッシブ』だと定義をしていました。
パロディというものは『ものの本質』を知り得るものしか出来ない芸当です。すべてのジャンルを超越し凌駕して、現存する素材を用いて、独自のものを創造する『あそび心』こそ、プログレに欠くべからざる精神でしょう。

――宮武さんのプライベート・スタジオ“シリウス”とは、どれぐらいの規模のものだったのでしょうか? ドラムスヴォーカルの音入れも出来るくらいでしたか?

漫画界の「トキワ荘」に相当したのが、音楽家達が集う「ラスク音楽ビル」でした。スタジオシリウスはここの九階にあったワンルームマンションタイプのスタジオでした。ここが兼住居でしたから、キーボードの山に囲まれて眠りましたね。風呂はないので下駄をならして銭湯通いです(爆)いやぁ、それなりに風情がありました。

ヴォーカルはすべてここで録音しました。ドラムスは同じビルの2階にレコーディングスタジオがあるので、ここを使用。大きなマルチレコーダーでもエレベーターで上下するだけでしたから、随分楽チンでしたねぇ。

ミスターシリウスはもともとトリオではありませんでした。宮武和広&永井博子、宮武和広&藤岡千尋とふたつの実験的ユニットが常に化学反応を繰り返し、その輪を広げて 感性的に近しい音楽家たちを巻き込んでいくという、独自の創造スタイルを目指しました。

そのラボラトリーとして機能したのがスタジオシリウスです。日本橋にっぽんばし)という電気街の北端に隠れ家的にあったロケーションでしたが、様々な人やモノと出会い、刺激を受け、音楽脳と多重録音技をアップデートできたのも大きなメリットでした。

――ファースト・アルバム『Barren Dream』は打ち込みを使用しましたか? それとも複雑なドラムスキーボードのパートは、すべて人力だったのでしょうか?

当時、いわいるドンカマと読んだ裏カウントでは使用しましたが、演奏では味付け程度です。キーボードは全て手弾きが、当時のDTMに抗した私のプライドでもありました。ドラムは一部、LINNドラム2を使用して、フィルインのタム回しやティンパニータンバリン等のパーカッションを入れたりしましたが、こちらもみな人的作業です。

藤岡千尋君は変拍子をたたき始めると、わかりやすく顔がほころんでくるのです。彼にもっと気持ちよく演奏してもらおう、もっとエクスタシーを感じてもらおうとアレンジしているうち、拍子が絡み合うアラベスクのような構成になってしまいました。

――当時の音楽シーンや日本のプログレッシヴ・ロック界への対抗意識は相当に強かったのでしょうか?

私が関わっていたバンドや、親しくしていた仲間たちが、どんどん先を越すようにメジャーからアルバムを発表していきました。私は楽曲をじっくり熟成させていたぶん、完全にムーブメントに乗り遅れてしまったようです。正直、焦りや陰鬱、嫉妬のようなものが頭の中で渦巻いておりました。今思うと若気の至りで、お恥ずかしい限りです。

しかしその混沌とした『焦燥、嫉妬、陰鬱』のエネルギーこそ、最後まで作成のクオリティに妥協を許さない 『揺るぎない原動力』となったことも皮肉な事実ですね。

――一部を除いて英語歌詞が多い理由を教えてください。

造語ですが、私は『メロディスト』だと思っています。美意識にみあうコード感のカンバスの上に、世に問いたい残したいメロディを表現していきます。私にとっての歌詞は決して主張ではなく、メロディに寄り添うようにして楽曲の輪郭を形成するものです。メロディラインを活かすことのできる響きを求めたところ、その多くが英語の選択という方向に、必然の帰結をしたということでしょう。すべてはメロディの神の導きです。

――セカンド・アルバム『Dirge』で見られるジャズ・ロック的なアプローチやカットアップ風の場面展開などの要素は、どのように持ち込まれたのでしょうか? ケッヘルのギタリスト、釜木氏の加入によるところもあるのでしょうか?

ロックの世界で最初の洗礼を受けたのはシカゴでした。最初に買ったギターはテリーキャスのギターを模倣したグレコの普及品でした。その血が騒いだのでしょう。

釜木君は私が出会った中で、最もクレバーなギタリストです。自身で作編曲や多重録音もしますので、バンド全体を俯瞰した中でギターの音色やフレーズを作ることのできる素晴らしい才覚をもっていました。それはロックやジャズだけに限りません。

練習には一時間以上も前に到着し、ワゴン車の中で運指練習をする熱心さ。ピアノやブラスの譜面を渡すと、一週間ですべてギターバージョンにアレンジしてくる器用さ。
ライブに於いては、欲しいところに欲しい音色で欲しい旋律を埋めてくれる、まさに「バーサタイルプレイヤー」と呼ぶに相応しい八面六臂の大活躍。彼なくしては、『ダージ』の緻密な音像構築や、エンターテインメント性溢れる独自のライブショウは出来なかったでしょう。

――『Dirge』のミキシングでは、エンジニアを務めた沢村氏との見解の相違が生じて大変に苦労されたという説がありますが?

これは事実無根でしょうか(笑)彼は一番のアドバイザーでありオブザーバーです。私以上にミスターシリウスに愛着を持ってくれていました。ディスカッションの中で互いに譲れないこともあり、周囲の人にはそう見えたかも知れませんが、その練磨のおかげで、あの作品は高品質になったといえます。沢村氏にはファーストのリマスターも全幅の信頼をおいてまかせることができました。彼こそ6人目のメンバーなのです。

――前身バンド“シリウス”や別プロジェクト“みや竹”の音源を収録したアルバム『Crystal Voyage』をリリースした理由を教えてください。

前身の“シリウス”は高校時代の学園祭バンドを母体としています。そこからリズムセクションが抜け、ヴォーカルがスティックを持ち、ギターはバスペダルで、キーボードはバスシンセでベースパートを掛け持つトリオのスタイルを編み出しました。奇しくもGenesis『そして三人が残った・・』がリリースされた頃です。

演奏自体は未熟ですが、ロッキンf(立東社)テープコンテストの編曲賞を2年連続受賞、8・8ロックディ(YAMAHA)の決勝進出などの実績が物語るように、楽曲はとても素晴らしいものです。これはこれで、世に残しておきたい我が世界。

――91年にライヴ盤『Incredible Tour』をリリース後、ミスターシリウスは活動休止状態に入りますが、その理由を教えてください。当時はサード・アルバムや宮武さん版『Private Parts & Pieces』シリーズもアナウンスされていたように記憶しているのですが……。

『Incredible Tour』リリース前に事実上の休止をしていました。感じとっていただけましたか?あのアルバムの最終におかれたコラージュと爆発音の意味を。あの音は、当時の私の心境すべてを物語っている音なのです。長くなるので、ここではとても語れません。

――現在の宮武さんの音楽活動状況や今後の予定を教えてください。ミスターシリウス再始動の計画はありますか? ファースト・アルバム前にリリースされたカセット・テープ『Gate To Europe』のCD化の予定はありませんか?

鬼形さん、思い起こしてみてください。ジャズクラシック、ロック、ポップス等々の専門誌は、当然ながらも音楽の話題で満載ですが、プログレ誌は、音楽以外のカテゴリーに大半を費やしていたりしましたよね。つまり音楽だけがプログレではないのです。現存するあらゆる創造活動の精神性の中に、プログレは宿っているのです。

ミスターシリウスは音楽はもうしません、しかしプログレは生涯続けます。これが私のこたえです (Mr.Sirius)
これが私のLIVE道(らいぶみち)宮武和広 2023年 書き下ろし

計算されつくしたライブ・・・ といえば、普通は演奏内容や演出のことを指しますが私の場合は、正真正銘の「タイムキープ」でした。終点(ラスト)から逆算して、時間を巧みにマネージメントしていくのです。

演奏の尺は概ねフィックスされていますので、臨機応変に変動できるのはMCです。沢山の「コネタの引き出し」を用意しておき、口から台詞をアウトプットしながら、脳のバックグラウンドでは常に引き出しの開け閉めをするプログラムを常駐させて、予定時間にトークを着地させるのです。

そのためライブの二週間前から毎夜、独りぼっちボッチ練習を課していました。体内時計をあわせるため、独り練習であっても必ずライブ開始時刻からはじめ、日頃のメンバー練習からベストテイクのカセットを順番に並べておいて、演奏やMCもLIVEをまるまる150分演じて、全体の段取りを、肉体と言語脳に覚えこませるのです。

ここまでして、時間にこだわるのには理由があります。

高校最後の文化祭。私のバンドFragileはトリをつとめYes「燃える朝焼け」とオリジナル大作「桃源郷」の豪華二本立てで高校生活の有終の美を飾るはずでした。ところが時間がおして、クライマックスで、体育館の電源をおとされてしまったのです。メンバー全員、まるで敗退した甲子園球児のように その場にひれ伏し号泣しました。

しかし、電源スイッチを落とされたことで、私の音楽人生のスイッチが入りました。「このままで終わることはできん!やったるで!みといてや プログレの神様!」

時は流れ、Siriusとして8.8 RockDayの決勝にすすんだときも、直前に理不尽な10分ルールが課せられ、砂時計ばかり頭の中を支配して、実力を発揮できぬまま時間オーバーで失格。全員打ちひしがれて万博ホールを後にする悲話もありました。

だからミスターシリウスのタイムテーブルは常に万全です。PA・照明さんにも詳細な進行表を配布し、舞台スケジュールをスタッフ全員で共有。19時 定時スタート、MC巧みに操作して21時半に終了、23時までに撤収と車積完了。程なく予約していた打ち上げ会場入店、門限までに宿舎へ戻り、早朝新幹線で帰阪するという見事な流れ。

当日は演奏以上に「タイムマネージメント」に集中。そこまで完璧にしなくても、と言われるかもしれませんが、これが私のLIVE道です。「どんな素晴らしいプログラムでも、タイムアウトすればGame Overになること」 痛いほど身に染みていましたから

脳裏の引き出し開け閉めスキルはメディア出演でのトークライブにも活きました。

NHK『今日は一日プログレ三昧』に出演したとき、時間がおして全員硬直していたところ、私が喋る内容をすべてショートカットして、いきなり結論に持ち込む機転をきかせました。山田五郎さん、森田美由紀さん、ディレクターさんに「宮武さんのおかげで予定どおり進行できました!」と感謝をしてもらったこと。忘れられない思い出です。

そしてLIVEクオリティ(濃度・密度・完成度)にもこだわりました。

ある時、ギターの釜木君にこう言われたのです。「宮武さん、もっとライブをやりませんか!」私の回答はこうです「釜ちゃん、気持ちはわかる。でも一年に数回『及第点』のライブをするのと、数年に一度でも『物凄い!ライブ』をするのと、どちらがみんなの心に残るだろう、後世に語り継いでくれるだろう」と

延べ5年の音楽活動の中で 渋谷と心斎橋で数えるほどしかLIVEはしませんでしたが、必ず記憶に残していただける出来栄えになるよう、豪華ゲスト陣(プロ愚連隊)の見せ所も散りばめながら、LIVEもまた ひとつの作品として演じてきたつもりです。

桂枝雀師匠に習って実践した「緊張と緩和」もプログレには必須です。凝った演奏をメインの肉料理とするなら、そのテンションを笑いのサラダで緩和して脳内をリフレッシュしていただく。この巧みな心理操作術もひとつのプログレの醍醐味です。

LIVEに足をお運びくださった皆様、楽しんでいただけましたでしょうかいつもご贔屓を賜りまして、本当にありがとうございました。

ミスターシリウス私設応援団長「凛綺羅」さん編のライブ動画
ミスターシリウス本人公認です)

手のひらの上の400% 宮武和広 2023年 書き下ろし

ミスターシリウスの復活を待ち望んでくださる方が多いこと、心より感謝をします。しかし残念ながら叶うことはありません。私にとってのプログレの美学があるからです。

そもそも宮武和広という人物は凡愚で音楽の素養などゼロにひとしく、アカデミックな教育も受けたことがありません。何も才能のない代わり、神様はひとつだけ「特典」を与えてくれました。それは四つの領域すべての100%を揃えて音楽の神様に捧げれば、小さな奇蹟を起こせるかもしれないということです。
技の100%

関西(かんせい)学院大学商学部二年の秋。神学部の校舎で牧師さんにお伝えしたことは「最高学府が人生の目的をみつける場所とするなら、それは達成されました。私の使命は音楽で愛を伝えることです。」 晴れて中途退学を認めていただきました。

あとは牧師さんにお約束したことを、着実に黙って実行するしかありません。

大学と同じく90分単位で午前に2講、午後は3講、その間に瞑想時間が20分ずつ。ギター、ピアノ、キーボード、アレンジ等の勉強を独学でしました。教科書もなく講師もいません。自分でカリキュラムを設定して、黙々と実践する日々が続きました。

まさに孤独な深化の旅のはじまりです。この頃の徹底してストイックに、「音楽」と向き合った姿勢と磨いた腕が、後のマルチプレイヤーの基礎をつくったといえます。

ロックだけでは狭い思考回路にとどまります。幅を広げたのはフュージョンでした。

ラリーカールトンを京都「拾得」でみた時、トイレから出てきたグレッグマティソン(key)と著しく激しい握手をしてから、急に鍵盤楽器にも覚醒。頭の中にあるイメージを自由に表現していくことで、様々な音楽のエッセンスに迫ることが出来てきました。

ミスターシリウスの看板を掲げてからも旅は続きます。フルートを片時もはなさず、素敵なフレーズをおもいついたので阪堺電車の停留所で吹き始めたことがありました。気が付けば、私はフルートに心と唇を奪われていたのです。

あの頃、私にあったのは「とてつもなく 大きな 楽器愛」

ムラマツH管フルートレスポールカスタム・ブラック、ホセ・ラミレスクラシックギターの三つを旗艦楽器として、アルトサックスピッコロリコーダーオーボエクラリネットアコーディオン、12弦ギター(K.YairiとTakamine)、ベース、オートハープRoland,ヤマハ,KORG等のキーボードや音源各種、そして伝説の名機LinnDrum2。

収集するだけでなく、私はすべての楽器をマスターしようと独学で鍛錬をし、楽器たちに同化して、彼らの心を読み取ろうと努力しました。そこには、牧師さんとの大切な約束をまもるため「技の鍛錬100%」を貫いた自分がいたと思います。
精神の100%

探求学習のテーマとしたのは、「プログレの定義と本質」という精神性の分野です。

何をもって「プログレ」とするかは、人それぞれの好みや判断ですが、心の琴線や感性に作用する周波数やチャンネルは、共通定義が存在すると仮説をたてました。

まず1stは、最初に曲名とコンセプトだけの原型を作り、「想い入れ」という名のライブラリーの中から音のパーツを選び抜き、肉付けしたのです。加えたり取り去ったり推敲を重ねながら塑造をして、立体的な音像を作るような作品づくりです。

「峡谷倶楽部」は偉業へのオマージュと劇的なコラージュ、「Step into Easter」は歌とアコースティック楽器だけで綴るトラッド。「エターナルジェラシー」は変拍子を駆使した高次元のロックアンサンブル。「バレンドリーム」はフランス近代が薫る正統派クラシック

そのいずれもが、私が「プログレ」と信じて止まない4つのスタイルなのです。1stはプログレの四季の彩が秘められた 大切な宝箱のようなアルバムだと思っています。

『ダージ』は塑造ではなく彫造です。メンバーが増えバンドとして表現できるものが格段に増えた分、モチーフが山のように膨れ上がり、私の脳内はカオス状態に。そこで勇気をもって立ち止まり、「本質」の姿がみえるまで、着想を彫りだしていったのです。

また「ナイルの虹」のコンポーズは独特で、複雑な技巧や響きの経糸と、大河の流れのような旋律の横糸と絡めて かつてない壮大な「プログレ」絵巻を目指しました。

こういった創作のためには、見るもの、聞くもの、薫るもの、触れるもの、常に高い感度のアンテナでキャッチして曲を磨くのは当然の日課。しばし心を緩め、無為に過ごす時の中からも、アイデアの原石を拾い集める毎日でした。

「精神の100%」 ずっとプログレを継続することは、果てしなき自己深化の旅です。
家族の100%

私はずっと「ラスク音楽ビル」という音楽家専用のマンションにスタジオをもち、一日の大半をそこで過ごしました。傘屋という生業は、最低限しか携わっていなかった「老舗のボンボン」です。本当にドアホでアカンタレの四代目でした。

それをバックアップしてくれたのが、母と妻、番頭さん、店員さんや問屋さんです。

母は実はピアニストになりたくて三軒隣のヤマハでバイトしていたところ、父に見初められ傘屋に嫁いだ人です。音楽への夢をあきらめたぶん、私の夢を応援してくれたのでしょう。妻も作曲家を目指していた人で、音楽への価値観が合致していて、私がどれだけ楽器や機器に投資しようと、驚くことはなく、笑顔で容認してくれてました。

まるで五輪出場する選手を、家族や周囲が全面的にサポートするような恵まれた環境の中で、私は思う存分に音楽に向き合い、深化の旅を続けることが出来ました。

『家族の100%』も、プログレ人生をささえた最も大きなファクターです。
仲間の100%

ポリリズムと特殊コードの数々。意味不明な注釈がかかれた複雑な譜面。延々と続く反復練習。誰一人造反や離脱するメンバーもなく、リーダーの勝手なコンセプトに耐え忍んで よくついて来てくれたものだと、いまは心から感謝をしています。

本当に私は仲間に恵まれました。

あらゆるジャンルをカヴァーしてくれる最高のヴォーカリスト 永井博子(大木理紗)さん。疾走する変拍子を叩かせたら天下無双の藤岡千尋君(ちーぼう)。高校からの親友であり、広大なロック畑で芳醇なベースフレーズの実を収穫してきた村岡秀彦君。希代のギタリスト、超バーサタイルプレイヤー釜木茂一君。私のもとに集ってくれたメンバーは、これ以上望むべくもない最高で最強のメンバー 『100%の仲間』でした。

「技の100%」「精神の100%」「家族の100%」「仲間の100%」

私をとりまく すべてが揃えば「400%」

その「400%」を手のひらにのせて 天に向かって差し出すと

神様がご褒美に そっとおいてくださるのが「心躍るメロディライン」

メロディラインは神の業

たゆまぬ創造とストイックな鍛錬は、それを享受するための唯一の道

これが、私にとっての『プログレ』の美学です。

しかし・・・そうはわかっていても、あきらめきれない「ダメな自分」も まだいました。

実は公式に活動休止してから8年後の1999年。一度だけ渋谷のライブハウスでステージにたったことがあります。復活ミスターシリウスフェスと銘打ってFFやページェントの曲をまじえて構成しました。ライブ後に、息を切らして駆けてきたコアなファンの方が私に鬼の形相で言い放ったのです。

「宮武さん。あんなものは『ミスターシリウス』ではありません!」と

そうです・・・そのとおりです

私もおなじ気持ちでGENESISAbacab』のLPを怒りで粉砕破壊したことがありました。「これが大学を中退し、人生を賭してまで目指したバンドの音楽ではない」と

ミスターシリウスの曲は、久々に集まって音合わせをして、ゲネプロをして本番に臨んで再現できるような安直なものではないのです。あらためて思い知りました。

そこで「ミスターシリウスが帰星した現実」を素直に認めることにしました。

400%を揃えることは、もう絶対に出来ません。

二度とできないからこそ、『プログレ魂』をこめて『いのち』を削って作ったアルバム達が今も輝いています。

活動休止から33年ミスターシリウスはもう私から離脱して、おおいぬ座のα星に帰ってしまいました。

私はもう市井の小さな一商人。そんなつまらぬ男にもう期待はせず、忘れ去って頂いて構いません。でもミスターシリウスのことだけは、どうぞ覚えていてください。

彼がこの星に来て、小さな奇蹟を起こしてくれたことを、一番近くで見てきましたから。

宮武和広 November 2023

バレンドリームとダージの配信に感謝をこめて
ミスターシリウス『ダージ』



ミスターシリウス『ダージ』1990年作品
宮武和広(flute,keyboad,acoustic guitar)
大木理紗(vocal)
藤岡千尋(drums)
釜木茂一(electric guitar)
村岡秀彦(bass)

ゲスト:
高山 博(orchestration)"Requiem d-moll"
配信URL:https://lnk.to/Mr.Sirius_DIRGE
ミスターシリウス配信記念、アルバム制作当時の貴重な話の数々が蘇る